第一章 雪は、音から食べていく
雪は、まず音を食べた。
無線機の雑音も、靴底が凍った地面を噛む音も、背後で誰かが漏らした舌打ちも、すべて白い沈黙の中へ吸い込まれていった。耳に残るのは、自分の呼吸だけだった。マスクの内側で湿った息が跳ね返り、すぐに冷え、鼻の奥を刺す。その痛みさえ、少し歩けば雪に奪われた。
北村航平は立ち止まり、ゴーグルの向こうに目を凝らした。
見えるものは、白だけだった。
白い空。白い地面。斜めに走る白い線。風が吹くたび、世界は紙やすりで削られるように輪郭を失った。数メートル先を歩くはずの田代剛の背中すら、輪郭が膨らみ、縮み、やがて雪煙に溶けていく。
「田代、止まれ」
北村は声を張ったつもりだった。だが、自分の声は、喉から出た瞬間に雪へ吸い取られた。田代が振り返ったのは、無線のインカムがかろうじて拾ったからだろう。
「隊長、何です」
田代の声には、まだ苛立ちよりも余裕があった。体格のいい男だった。重いザックを背負っても、足取りは他の四人より安定している。設備担当として観測所の発電機や通信アンテナを見に行くのが今回の役割だったが、この雪の中では、単純な体力こそ最も頼りになる技能だった。
「進路を確認する。全員、その場で待機」
北村は腰につけた端末を見た。位置情報は表示されている。しかし、点はじわじわと不自然に震えていた。標高が高く、天候が荒れると誤差が出る。分かってはいたが、その震え方がひどい。地図の上では、彼らはすでに観測中継小屋の近くにいることになっていた。
見えない。
建物らしい影も、アンテナの支柱も、吹き流しも、何も見えない。
「北村さん」
後ろから真柴玲奈が近づいてきた。医療担当の彼女は、小柄な体を厚い防寒着の中に沈めている。ゴーグル越しでは表情は読めなかったが、声だけはいつもと同じく平坦だった。
「高梨くんの足が少し遅れています。寒さより、緊張で呼吸が浅い」
「高梨」
北村は振り返った。
列の最後尾で、高梨悠斗が片手を上げた。若手隊員で、今回が冬季調査への本格参加としては二度目だった。訓練は受けている。資料も読み込んでいる。だが、資料の中の吹雪と、目の前の吹雪は別物だった。
「大丈夫です」
高梨は答えた。声が上ずっている。
「大丈夫じゃないときの言い方だ」
田代がぼそりと言った。
「いや、ほんとに大丈夫ですって。帰ったら、駅前の牛丼屋で特盛食いますから。卵もつけます。七味も死ぬほどかけます」
「その話は帰ってからしろ」
「帰るためにしてるんですよ。目標設定です」
高梨の軽口に、田代が鼻を鳴らした。真柴は何も言わず、高梨の肩に手を置いた。脈を確かめるような短い接触だった。
北村はもう一人を見た。
佐久間修は列の中ほどに立ち、フードの端を片手で押さえながら空を見ていた。気象担当で、今回の行程を最も強く警戒していたのは彼だった。予定では昼前に観測中継小屋へ入り、内部の機器を確認したあと、夕方までに麓のベースへ戻る。そういう日程だった。天候の崩れは予報されていたが、ここまで急速に悪化するとは誰も読んでいなかった。
いや、佐久間だけは読んでいたのかもしれない。
出発前、彼は言った。午後から崩れるのではなく、午前中に前線が降りてくる可能性がある、と。北村はその意見を聞き、出発時刻を一時間早めた。それで十分だと判断した。今となっては、その一時間が何を救ったのか分からない。
「佐久間、どう見る」
北村が聞くと、佐久間は空から視線を下ろした。
「悪くなっています」
「どのくらいだ」
「この雪は、朝までやみません」
誰もすぐには返事をしなかった。
風が横から殴りつけてきた。白い粒が防寒着の表面を叩き、細かい音を立てる。その音すら、次の瞬間には消える。
「中継小屋までの距離は」
「端末上は二百メートル以内です。ただ、地形がずれています。吹き溜まりで目印が埋まっている可能性が高い」
「探すしかないな」
「探しているうちに、こちらが埋まります」
佐久間の声には恐怖がなかった。恐怖がないことが、北村にはかえって嫌だった。
「避難用の雪洞を使う選択肢があります」
佐久間は続けた。
「去年、ルート脇に掘った緊急退避用です。小屋より近い。入口は雪で隠れているでしょうが、位置は覚えています」
「どこだ」
「この尾根を右に外れます。三十メートルほど」
田代が顔をしかめた。
「右って、谷側じゃないのか」
「谷の手前です。ロープを張って移動すれば、いけます」
「いけるって言い方が気に食わないな」
「安全とは言えません」
佐久間は淡々と言った。
「ただ、ここで立っているよりはましです」
北村は端末を握った。手袋越しでも、機械の冷たさが伝わってくる気がした。
隊長の仕事は、迷わないことではない。迷った結果を、迷っていない顔で伝えることだ。
「雪洞に入る。田代、先頭。佐久間、誘導。真柴は高梨を見る。全員、ロープをつなげ」
「了解」
返事は五人分ではなく、四人分に聞こえた。北村自身の返事は、雪に食われた。
移動は短かったが、終わりが見えなかった。
佐久間が雪面に刺したポールの位置を頼りに、田代が足場を探る。真柴は高梨のザックに手を掛け、息の乱れを確認しながら歩いていた。北村は最後尾で、全員のロープに余計なたるみが出ないよう注意した。ほんの三十メートルが、吹雪の中では見知らぬ国境のように遠い。
足元の感触が変わった。
踏み固められていない雪が、膝近くまで沈む。北村は体を引き上げようとした。次の瞬間、低い音が地面の下を走った。
雷ではなかった。
もっと近い。もっと重い。
「伏せろ!」
誰の声だったのか分からなかった。北村は反射的に雪面へ身を投げた。ロープが腕を引く。何かが横を滑った。雪が生き物のように膨れ上がり、肩を越え、背中を叩いた。白い塊が田代の姿を消し、高梨の叫び声を押しつぶした。
時間が止まった。
いや、止まったように感じただけで、雪は動き続けていた。音のない巨大な水が、彼らの周囲を流れていく。北村は肘で雪を押した。口元に雪が詰まり、息ができなくなった。腕を動かす。硬い。何かが引っかかる。ロープだ。ロープを掴む。強く引く。
誰かが引き返してきた。
「隊長!」
田代の声だった。近い。
北村は雪の中から上半身を引きずり出された。ゴーグルに雪が貼りつき、視界が白く潰れていた。手袋で乱暴に拭うと、田代が膝をついているのが見えた。その向こうで真柴が高梨の顔を叩いている。
「高梨、返事」
「……します、します、返事します」
「意識あり。呼吸あり」
真柴の声が飛ぶ。
「佐久間は」
北村は叫んだ。
返事はなかった。
ロープは雪の中へ伸びている。北村は這うように進み、両手で雪を掘った。田代も加わった。雪は柔らかいところと硬いところが不規則に混ざっていた。指先の感覚がすぐに遠のく。焦れば焦るほど、手は空回りした。
やがて、黒い手袋が見えた。
「いた!」
田代が叫び、佐久間の腕を掴んだ。二人で引き出す。佐久間は横向きに埋もれていた。フードが半分外れ、頬に雪が貼りついている。目は開いていた。
「佐久間」
北村が顔を近づけると、佐久間はかすかに瞬きをした。
「……すみません」
「謝るな。痛いところは」
「右の脇腹を、少し」
真柴がすぐに駆け寄った。防寒着の上から触診し、眉を寄せる。
「打撲。肋骨も可能性があります。出血は今のところ外からは見えません。ただ、安静にした方がいい」
「歩けるか」
北村が聞くと、佐久間は息を整えながらうなずいた。
「雪洞は、すぐそこです」
彼はそう言った。
その声があまりに落ち着いていたので、北村は一瞬、怒鳴りたくなった。何を落ち着いている。何を他人事のように言う。だが、怒鳴れば自分の不安が全員に伝わる。北村は奥歯を噛み、佐久間の腕を肩に回した。
「全員、生きてるな」
「生きてます」
高梨が即答した。
「たぶん、今までで一番」
「よし。なら動け」
雪洞の入口は、ほとんど埋まっていた。
それでも佐久間の記憶は正しかった。斜面の下、岩の陰に、不自然に雪の積もり方が違う場所があった。田代がスコップで掘ると、固い板に当たった。そこからは早かった。入口の補強材を掘り出し、人ひとりが通れる隙間を作る。
中に入った瞬間、北村は初めて風の音が遠ざかったことに気づいた。
雪洞は広くはなかった。大人五人が座れば、膝や肩が触れる。壁は雪と氷でできているが、内側には断熱シートが貼られ、床には古いマットが敷かれていた。非常用のランタン、簡易コンロ、小型燃料、折りたたみ式のスコップ、毛布が数枚。去年の調査で整備したものだ。使う日が来ないことを願って置いたものが、今、彼らの命を支えていた。
田代が入口を内側から補強し、真柴が全員の状態を確認した。高梨は震えが止まらず、何度も「大丈夫です」と言った。大丈夫でない者ほど、その言葉を繰り返す。
「無線は」
北村はザックから無線機を取り出した。
雑音だけだった。
チャンネルを変える。呼び出す。応答なし。衛星端末も確認したが、接続は不安定だった。送信履歴には、出発後に送った定時報告だけが残っている。今の位置も、状況も、届いている保証はない。
「ベースは俺たちの帰投予定を知っている」
北村は言った。自分に言い聞かせるような声だった。
「戻らなければ捜索が出る」
「この天気で?」
田代が聞いた。
「天候が落ち着けば、だ」
「いつ落ち着く」
北村は佐久間を見た。
佐久間は壁にもたれ、片手で脇腹を押さえていた。真柴がその手をどかせようとすると、素直に従った。痛みを隠そうとしているのが分かった。
「早くて明日の昼。通常なら明後日です」
「最短で一日半か」
「救助隊が出られる状況になって、ここを見つけるまでを考えれば、三日は見た方がいいです」
雪洞の中が、少し狭くなった気がした。
三日。
言葉にすれば短い。だが、この温度で、限られた燃料と食料で、大人五人が待つには長すぎる。
「食料を確認する」
北村はザックを開けた。
各自が持っていた行動食を床に並べる。栄養バーが四本。非常用ビスケットが一袋。粉末スープが三包。凍りかけた水のボトルが二本。真柴が持っていたブドウ糖タブレットが六粒。佐久間の内ポケットから、包み紙の擦り切れた飴が五つ出てきた。
「それ、僕の私物です」
佐久間が言った。
「没収だ」
北村は言った。
「はい」
佐久間は小さく笑った。
田代が床の上の食料を見下ろし、何か言いかけた。だが、言わなかった。その沈黙が、言葉よりはっきり状況を示していた。
「全員で帰る」
北村は食料を一つずつ確認しながら言った。
「そのために、食う量を決める」
「三日分には見えませんね」
高梨が言った。冗談の形をしていたが、声が乾いていた。
「見えなくても三日分にする」
北村は栄養バーを手に取った。固く凍っている。これを五人で分ける。朝と夜。体力維持というより、体に何かを入れたという事実のために。
「朝と夜に分ける。昼はなしだ」
「昼は?」
高梨が聞き返した。
北村は彼を見た。
「昼は、忘れろ」
高梨は口を閉じた。
真柴が小さくうなずいた。
「食べたという感覚を残すことが大事です。空腹そのものより、食べられないと思い込む方が先に判断を壊します」
「思い込みで腹が膨れるなら楽だな」
田代が言った。
「膨れません。でも、壊れる順番は遅らせられます」
真柴の返しは冷静だった。
北村は栄養バーをナイフで削るように割った。均等にはならない。どれかが大きく、どれかが小さい。そう見えないように何度も置き直したが、限界があった。五人の視線が、その小さな破片に集まる。
食べ物は、置かれているだけで人の目を変える。
北村はそれを初めて知った。
「今、全員が一口ずつ食べる。あとは保存する」
誰も反対しなかった。
最初に口にした栄養バーは、味がしなかった。甘いはずなのに、舌が冷えすぎていて、甘さまで凍っているようだった。噛むと奥歯に固く当たり、粉が口の中の水分を奪った。喉を通すには、水が必要だったが、水も節約しなければならない。
高梨が小さな欠片をいつまでも舌の上で転がしていた。
「飲み込め」
田代が言った。
「もったいなくて」
「口の中に置いても増えないぞ」
「分かってますよ」
高梨は苦笑し、ようやく飲み込んだ。
真柴は全員の指先と顔色を確認した。佐久間の番になると、少し長く手を取った。
「感覚は」
「あります」
「嘘ですね」
「少し鈍いだけです」
「痛みは」
「脇腹が、少し」
真柴は北村を見た。何かを伝えようとしたが、言葉にはしなかった。ここで詳細を言えば、全員の空気がさらに悪くなる。北村も黙ってうなずいた。
ランタンの光は弱かった。
雪洞の壁に薄い黄色が揺れ、五人の影を大きく映した。入口の向こうでは、吹雪が続いている。時折、低い唸りが壁越しに響き、そのたびに高梨の肩が跳ねた。田代は入口近くに座り、スコップを手元に置いている。もし再び雪が流れ込んだら、掘るつもりなのだろう。だが、雪洞そのものが潰れたら、スコップは何の役にも立たない。
北村は時計を見た。
午後二時十七分。
外の白さのせいで時間の感覚がなくなる。朝も昼も夕方も、ここでは同じ色をしていた。
「眠れるやつは眠れ」
北村が言うと、田代が乾いた笑いを漏らした。
「眠れると思いますか」
「思わなくても目を閉じろ」
「隊長は」
「俺は少し起きている」
「それ、隊長が一番眠れなくなるやつですよ」
高梨が言った。
「若手が上官の心配をするな」
「心配くらいさせてくださいよ。ほら、俺、いい後輩なんで」
軽口は、すぐに途切れた。
沈黙が落ちた。
沈黙には種類がある。落ち着いた部屋に流れる沈黙。怒りの後に残る沈黙。言わなくていいことを全員が知っている沈黙。雪洞の中にあったのは、その最後のものだった。
食料が足りない。
燃料が足りない。
救助はすぐには来ない。
誰も口にしないことが、壁の氷より冷たくそこにあった。
高梨が鼻をすすった。
「すみません」
「どうした」
「いや、変なこと考えちゃって」
「言え」
北村が促すと、高梨はしばらく迷ったあと、照れたように笑った。
「味噌汁のことです」
田代が眉を寄せた。
「こんな時に?」
「こんな時だからですよ。さっき隊長に昼は忘れろって言われてから、昼じゃなくて朝飯のことばっか考えてます」
「朝飯?」
「うちの母親、卵焼きが下手なんです。だいたい端が焦げてて、中が半熟で、形も変で。でも、味噌汁だけはうまい。豆腐とわかめの日と、じゃがいもの日があって。じゃがいもの日は、なんか勝った気がするんです」
誰も笑わなかった。
高梨は自分で話し始めたことを後悔したように視線を落とした。
「すみません。腹減る話でした」
「いや」
田代がぼそりと言った。
「じゃがいもの味噌汁は、いい」
高梨が顔を上げた。
「田代さんも好きですか」
「俺は玉ねぎが入ってる方がいい。甘くなる」
「分かります。あれ、二日目の方がうまくないですか」
「味噌汁に二日目も何もあるか」
「ありますよ。カレーと同じです」
「味噌汁をカレー扱いするな」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
それは笑いとは呼べないほど小さな変化だった。けれど、北村には分かった。彼らは今、食べ物の話をしているのではない。帰れる場所の話をしている。
「真柴さんは」
高梨が尋ねた。
「朝飯、何派ですか。ご飯ですか、パンですか」
「当直明けのコンビニサンドイッチ」
「それ、朝飯なんですか」
「朝に食べれば朝食です」
「雑ですね」
「温度が残っていないサンドイッチを、病院の休憩室で食べるんです。味はだいたい覚えていません。でも、食べ終わると、まだ働けると思う」
真柴は淡々と言った。
「だから、私にとっては朝食です」
高梨は少し黙り、それからうなずいた。
「なんか、いいですね」
「よくはないです」
「でも、いいです」
田代が腕を組んだ。
「俺は納豆ご飯だな」
「似合います」
「どういう意味だ」
「強そうです」
「納豆ご飯が強いんじゃない。作る人間が強いんだよ。うちの妻は、朝、ほとんどしゃべらない。茶碗を置く。味噌汁を置く。納豆を置く。以上。俺が眠そうにしてると、箸を一本だけ先に渡してくる」
「一本?」
「もう一本は自分で取れ、という意味だ」
高梨が笑った。
今度は本当に、少しだけ笑いが起きた。笑いはすぐに消えたが、消えたあとにも温度の名残があった。
「隊長は」
真柴が聞いた。
北村は意外に思って彼女を見た。
「俺か」
「ええ」
「俺は……トーストだな」
「普通ですね」
高梨が言った。
「普通で悪いか」
「いや、隊長って白米派っぽいので」
「娘が一時期、朝飯を作りたがったんだ。小学生の頃だ。パンを焼くだけなんだが、毎回焦がす」
北村は自分でも驚くほど、すらすらと話していた。
「焦げた部分を削って食べると、娘が聞くんだ。まずい、って。俺は毎回、うまいって答えた」
「嘘ですね」
真柴が言った。
「嘘だ」
「最低ですね」
高梨が言った。
「最高の父親だろ」
北村は答えた。
娘の顔が浮かんだ。焦げたトーストを皿に載せ、不安そうにこちらを見る顔。妻がキッチンの隅で笑いをこらえていた朝。焦げの苦味と、塗りすぎたバターの塩気。たいしてうまくはなかった。けれど、あれをまずいと言える人間にはなりたくなかった。
雪洞の中に、パンの焼ける匂いなどするはずがない。
それなのに、一瞬だけ、北村は焦げた匂いを嗅いだ気がした。
「佐久間さんは」
高梨が言った。
「朝飯、何ですか」
全員の視線が佐久間に向いた。
佐久間は壁にもたれたまま、目を伏せていた。眠っているのかと思ったが、そうではなかった。彼はゆっくりと目を開けた。
「僕は、聞いている方が好きです」
「ずるいですよ」
「すみません」
「ひとつくらいあるでしょう。パンとか、ご飯とか」
佐久間は少し考えた。
「冷えたご飯です」
その答えに、高梨が首を傾げた。
「冷えた?」
「前の日の残りです。母が仕事に行く前に、茶碗に入れて置いていく。味噌汁も鍋に残っている。温めればよかったんでしょうけど、子どもの頃は面倒で、そのまま食べていました」
「冷たいまま?」
「はい」
「おいしいんですか」
「おいしいかどうかは、あまり覚えていません」
佐久間は静かに言った。
「ただ、自分のために残されていたものだということは、覚えています」
高梨が何も言えなくなった。
田代も、真柴も、黙っていた。
北村は佐久間の横顔を見た。ランタンの光が頬を照らしている。唇の色が少し悪い。痛みのせいか、寒さのせいか、それとも別のものか。
入口の向こうで、また低い音がした。
今度は全員が身を強張らせた。雪洞の天井から細かな雪が落ち、ランタンの光の中で粉のように舞った。田代が即座にスコップを掴む。北村も姿勢を低くした。
音は長かった。
地面の奥で巨大な布が裂けるような、くぐもった響き。近い。先ほどより近い。やがて、入口を塞ぐ板の向こうで何かが押し寄せる気配がした。補強材が軋む。高梨が息を止める。真柴が彼の腕を掴む。
数秒か、数十秒か。
音が消えたあとも、誰も動かなかった。
田代が入口に近づき、内側から押した。板はびくともしない。
「まずいな」
彼は短く言った。
「開かないのか」
北村が聞くと、田代はスコップで周囲を叩いた。
「外から相当積もってます。さっきよりひどい。掘れば出られなくはないでしょうが、今やったら上が崩れるかもしれない」
「外に出る必要はない」
「今は、ですね」
田代は振り返った。
「救助が来た時に、向こうからここが分かりますか」
北村は答えなかった。
雪洞の位置は記録されている。ルート上にある。だが、雪崩で周囲の地形が変われば、目印は消える。入口も埋まった。無線は通じない。発信機の電波も、この天候ではどれほど拾えるか分からない。
外から見れば、ここはただの白い斜面だ。
「隊長」
高梨が小さく言った。
「救助、来ますよね」
その質問は、幼い子どもの声に似ていた。
北村は即答しなければならなかった。迷えば、その迷いは雪洞の中を一周して、全員の胸に根を張る。
「来る」
北村は言った。
「ベースは俺たちの帰投時刻を把握している。天候が回復すれば捜索は始まる。発信機もある。ここは記録された避難地点だ。見つかる」
「ですよね」
「だから、それまで持たせる」
高梨はうなずいた。
うなずいたあと、視線を床の食料へ落とした。
北村はその視線を見逃さなかった。
誰もが同じ場所を見ていた。栄養バーの残り。ビスケットの袋。粉末スープ。ブドウ糖。飴。床に置かれたそれらは、さっきよりも小さく見えた。人間は食料を見るとき、量ではなく時間を見るのだと北村は思った。これは何時間分か。何日分か。誰の分か。誰に渡せばいいのか。誰に渡さなければいいのか。
考えてはいけないことが、もう形を持ち始めていた。
「今日はもう一度だけ食べる」
北村は言った。
「夜に粉末スープを一包、五人で分ける。水は雪を溶かす。燃料は最小限。明日の朝はビスケットを分ける」
「明日の昼は」
高梨が言いかけて、自分で口を閉じた。
北村は少しだけ笑った。
「覚えがいいな」
「忘れるんですよね」
「ああ」
「昼は、忘れる」
高梨はそう言って、両手をこすり合わせた。震えはまだ止まっていない。
夜という区切りは、時計の上にしかなかった。
外はずっと白く、雪洞の中はずっと薄暗い。ランタンの光を落とすと、壁の氷が青く沈んだ。真柴は全員の体温を記録し、佐久間の脇腹に簡易の固定を施した。田代は入口周りを何度も確認し、掘るべきか、待つべきかを考えていた。高梨は毛布にくるまりながら、時々、眠りに落ちそうになってはびくりと目を開けた。
北村は粉末スープの袋を開けた。
匂いが広がった瞬間、全員が顔を上げた。
それは安いコンソメの匂いだった。普段なら何とも思わない。職場の給湯室で飲めば、薄いと文句を言う程度の味だ。だが、雪洞の中では違った。湯気が立ち、ランタンの光を受けて白く揺れる。それだけで、何か許されたような気がした。
カップに少しずつ注ぐ。
五人分に分けると、底から数センチにも満たなかった。
「少な」
高梨が呟いた。
「多いと思って飲め」
田代が言った。
「無茶言いますね」
「思い込みで腹が膨れるんだろ」
「それ、真柴さんの理論と違います」
「違わないです」
真柴がカップを受け取りながら言った。
「今は、そう思って飲んでください」
五人は同時に口をつけた。
熱い。
その熱さだけで、北村は目を閉じそうになった。味は薄い。塩気も足りない。だが、喉を通る熱が胸の中へ落ちると、体が自分の輪郭を思い出した。指先の冷たさ、膝の痛み、肩の重さ。それらが戻ってくる。生きている体は、痛みも一緒に連れてくる。
佐久間はカップを両手で包んでいた。飲むのが遅い。
「佐久間」
北村が声をかけると、彼は顔を上げた。
「飲め」
「はい」
佐久間は素直に一口飲んだ。
その時、彼の手がわずかに震えた。寒さの震えとは違う。力が抜け、カップを支えきれなくなる前の揺れだった。真柴も気づいた。だが、彼女は何も言わなかった。
北村は胸の奥で、何かが硬くなるのを感じた。
佐久間は助からないかもしれない。
その考えを、すぐに押し戻した。考えるな。五人で帰る。それ以外の前提を持つな。隊長が最初に別の可能性を認めれば、その瞬間から全員の中に穴が開く。
食後、誰ともなく朝食の話が再開した。
高梨は牛丼に卵を落とすタイミングについて語った。最初から混ぜる派か、半分食べてから崩す派か。田代は納豆にからしを入れるか入れないかで高梨と揉めた。真柴はサンドイッチの具にこだわりはないと言い、高梨から「人生を損している」と責められた。北村は、焦げたトーストにはバターよりマーガリンの方が合うと言って、田代に「そこはこだわれ」と言われた。
佐久間は、ほとんど聞いていた。
時折、口元だけで笑った。
北村はその横顔を何度も見た。佐久間の目は、話している者ではなく、話の向こう側にある何かを見ているようだった。冷えたご飯。鍋に残った味噌汁。仕事に出かける母親。誰もいない台所。それらを思い出しているのかもしれない。
夜が深くなるにつれて、会話は細くなった。
高梨が眠り、田代も壁にもたれて目を閉じた。真柴は最後まで記録をつけていたが、やがてペンを握ったまま動かなくなった。眠ったわけではない。体を休めているだけだ。
北村は入口近くに座り、耳を澄ませた。
外ではまだ雪が降っている。
風の音は、壁越しに聞くと海鳴りに似ていた。白い海。凍った波。その中に自分たちは沈んでいる。そう思った瞬間、息苦しさが胸に広がった。北村は意識してゆっくり呼吸した。
「隊長」
小さな声がした。
佐久間だった。
「眠っていろ」
「眠れません」
「痛むか」
「少し」
「真柴を起こすか」
「大丈夫です」
「大丈夫という言葉は信用しないことにしている」
佐久間はわずかに笑った。
「では、今はまだ話せます」
北村は黙った。
佐久間は胸の内ポケットから小さな手帳を出した。防水紙の観測手帳だ。表紙の角が擦り切れている。彼はランタンの光を頼りに、何かを書き込んだ。
「何を書いてる」
「記録です」
「天候か」
「それも」
佐久間はペンを止めた。
「食べたものも、書いておこうと思って」
「食料管理は俺がする」
「はい。これは、別の記録です」
「別?」
「忘れないためのものです」
北村は手帳を覗こうとはしなかった。人には、極限状態でも覗かれたくないものがある。
「何を忘れない」
佐久間は少し考えた。
「自分たちが、何を食べて生きようとしたかです」
北村は返事を探したが、見つからなかった。
佐久間は手帳を閉じた。
「変なことを言いました」
「いや」
「でも、こういう時は、記録が残ります。気温、風速、負傷、死亡時刻。そういうものは必ず残る。けれど、誰が何を思い出していたかは、残らない」
「残す必要があるのか」
「分かりません」
佐久間は壁に頭を預けた。
「ただ、もし自分があとでこの手帳を読んだら、寒かったことより、みんなの朝食の話を思い出したいと思います」
北村は入口の方を見た。
雪はまだ降っている。
どれほど降っているのか分からない。入口は完全に塞がっているのかもしれない。救助隊は、明日も出られないかもしれない。食料は、五人には足りないかもしれない。
北村はそのすべてを知っていた。
知っていて、知らないふりをしていた。
「佐久間」
「はい」
「五人で帰るぞ」
佐久間はすぐには答えなかった。
その沈黙の長さに、北村は胸騒ぎを覚えた。
「はい」
やがて佐久間は言った。
「帰りましょう」
その言い方は、約束というより、祈りに近かった。
しばらくして、外で大きな音がした。
雪崩ではなかった。何か硬いものが、遠くで折れたような音だった。観測小屋のアンテナかもしれない。標識の支柱かもしれない。あるいは、氷を含んだ雪の塊が岩にぶつかっただけかもしれない。
高梨が目を覚ました。
「今の、何ですか」
「雪だ」
北村は答えた。
「救助じゃないんですか」
「違う」
高梨は毛布を握り直した。
「そうですか」
その声には落胆よりも、安堵が混じっていた。救助ではないと分かれば、期待しなくて済む。期待は体力を使う。
入口の補強材が、再び小さく軋んだ。
田代も目を開けた。真柴が顔を上げた。五人は誰も動かなかった。ただ、音が過ぎるのを待った。雪洞の壁から粉雪が落ち、佐久間の手帳の表紙に白い粒が乗った。
やがて、静かになった。
静かになりすぎた。
北村は、その静けさの中で初めて理解した。
ここは避難場所ではない。
ここは、氷の国だ。
境界線の向こうにある、食べ物のない国。朝も昼も夜も白く、時間が腹の中から削れていく国。外に出れば凍り、中にいればゆっくり飢える国。
佐久間がぽつりと言った。
「これで、朝までは完全に氷の国ですね」
北村は彼を見た。
「氷の国?」
佐久間は暗い入口に目を向けたまま、静かに答えた。
「食べ物のない国です」
誰も笑わなかった。
ランタンの火が一度だけ揺れた。
雪はその間も、外で音を食べ続けていた。




