二章 バックパッカーの男②
昨日、松山行きの船に乗らなかった。
それを、なかったことにする。
こめかみの奥と胸の奥に痛みが走った。
視界の裏側に、宇品港の光が広がる。
潮風。
白い桟橋。
係員の声。
松山行きの案内表示。
リュックの肩紐が食い込んでいる。
手の中にはチケットがある。
スマートフォンの画面には、妹からのメッセージが残っていた。
お母さん、思ったより元気そう。
でも、帰ってきてくれたら嬉しい。
藤崎は画面を閉じる。
船に乗る人たちが、次々とゲートへ向かっていく。
家族連れ。スーツ姿の男。キャリーケースを引く女。観光客らしい若者たち。
誰も、藤崎を見ていない。
それなのに、藤崎は見られている気がしていた。
五年。
五年分の顔。
五年分の言い訳。
何をしていたのか。
どうして帰らなかったのか。
今さら何をしに帰ってきたのか。
父親の声が聞こえた気がした。
お前は、結局何がしたいんだ。
母親の声も聞こえた気がした。
浩二、ご飯食べてるの。
妹の声が、いちばん現実に近かった。
帰ってこないの。
足が動かない。
アナウンスが流れる。
松山行きフェリー、まもなく出航いたします。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
行けない。
藤崎はチケットを握りしめる。
ゲートが閉まる。
船が、ゆっくり桟橋を離れる。
白い船体が、海の上へ滑っていく。
その背中を、藤崎はベンチから見ていた。
また逃げた。
まただ。
俺は、帰ることもできない。
船が小さくなる。
港に残ったのは、重いリュックと、使われなかったチケットと、帰れなかった自分だけだった。
痛みが膨らむ。
片桐は奥歯を噛んだ。
潮風の匂いが、胸の奥に沈む。
藤崎の昨日が、片桐の中に残っていく。
港の光。
妹のメッセージ。
動かない足。
閉まるゲート。
離れていく船。
また逃げた、という声。
それらが、藤崎の中から抜ける代わりに、片桐の奥へ沈んでいった。
そして、港の景色がもう一度揺れた。
同じ宇品港。
同じチケット。
同じ松山行きの船。
白い船体が、ゆっくりと桟橋を離れていく。
変わらないものだけを残して、藤崎の足元にあった言葉がほどけていく。
また逃げた。
その声だけが、港の風に溶けて消えた。
代わりに残ったのは、使われなかったチケットと、昨日は行けなかった、という事実だけだった。
数秒後、藤崎が瞬きをした。
「あれ」
彼は事務所の中を見回した。
大きなリュックは足元にある。
湯呑みも、せんべいの皿も、契約書も、すべてそこにある。
ただ、藤崎の表情だけが少し変わっていた。
「俺、相談に…」
彼は自分の手を見た。
それから、スマートフォンを取り出す。
画面を開き、昨日の履歴を確認する。
フェリーの予約画面。
未使用のチケット。
妹からのメッセージ。
何も消えていない。
「船に、乗れなかったんです」
藤崎は、自分に言い聞かせるように言った。
「昨日」
片桐は頷いた。
「はい」
「そっか」
藤崎はしばらく画面を見ていた。
眉を寄せる。
「なんで、間に合わなかったんだろう」
その声に、自分を責める響きはなかった。
ただ、事実を見つめているだけだった。
「いや」
藤崎は小さく息を吐いた。
「昨日は間に合わなかったけど、もう帰れないわけじゃないですよね」
藤崎は顔を上げた。
「今日の便、まだ間に合いますかね」
「まだ、間に合う便はあると思います」
明里がすぐに言った。
「宇品から松山なら、夕方も出てるはずです。調べます」
明里は自分のスマートフォンを取り出した。
片桐が口を開く。
「港までの道が分からないなら」
明里が付箋を見た。
片桐は三秒待った。
「送迎もできます」
「便利屋っぽい」
藤崎が笑った。
片桐は頷いた。
「普通の仕事なので、別料金です」
「片桐さん」
「今のは?」
「少しだけ現実的すぎます」
「でも事実だよ」
「だから言い方です」
藤崎は声を出して笑った。
来た時より、少しだけ背中が軽く見えた。
「いいです。歩いて行きます。荷物、重いけど」
「使わない調理道具は」
片桐は言いかけて、明里を見た。
一秒。
二秒。
三秒。
「……旅に必要なんですね」
明里が目を丸くした。
「片桐さん」
「何?」
「今のは、少し成長です」
「そうか」
「はい。初級編、一歩前進です」
藤崎はリュックを背負った。
大きな荷物が、再び彼の背中に乗る。
それでも、来た時ほど重そうには見えなかった。
「ありがとうございました」
藤崎は深く頭を下げた。
「うまく言えないんですけど、昨日のことが、ただの昨日になった気がします」
「ただの昨日」
明里が繰り返す。
「はい」
藤崎は照れたように笑った。
「逃げた昨日、じゃなくて。船に乗れなかった昨日、くらいになったというか」
片桐は何も言わなかった。
藤崎はリュックの肩紐を握り直した。
「帰ってみます」
「お気をつけて」
明里が言った。
「はい」
藤崎はドアへ向かった。
大きなリュックがまたドア枠にぶつかりそうになり、今度は自分で体を斜めにして抜けた。
ドアベルが鳴る。
ちりん、と軽い音がして、バックパッカーの男は、昼の街へ出ていった。
事務所には、しばらく潮の匂いが残っているような気がした。
片桐は机に手をついた。
痛みは、前より少し深いところにあった。
頭だけではない。
胸の奥に、使われなかったチケットが挟まっているような感覚がある。
帰ってこないの。
妹の声が、まだ耳の奥で残っていた。
「片桐さん」
「うん」
「痛いんですよね」
「少し」
「その『少し』は信用してません」
「前にも聞いたね」
「何度でも言います」
明里は水を持ってきた。
片桐は受け取る。
グラスの冷たさが指に移った。
「帰れますかね、藤崎さん」
「分からない」
「片桐さんは、本当に分からないって言いますね」
「分からないから」
「でも、さっきの人、帰ると思います」
「どうして?」
「リュックが、来た時よりちゃんと背中に乗ってました」
片桐は少し考えた。
「そういうもの?」
「そういうものです」
明里は当然のように言った。
「荷物って、持つ理由がある時と、ただ背負ってる時で、重さが違うんです」
「明里ちゃんは、リュックを背負ったことが?」
「あります。旅行くらい」
「バックパッカー?」
「違います」
「ではなぜ」
「三秒待ってください」
片桐は黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
「……聞かない方がいい話?」
「はい」
「分かった」
「よくできました」
明里は満足そうに頷いた。
窓の外では、路面電車が紙屋町の方へ走っていく。
その先に、港はない。
宇品へ行くには、乗り換えるか、少し遠回りをしなければならない。
藤崎浩二は今ごろ、重いリュックを背負って歩いているかもしれない。電車に乗るか、歩くか、迷っているかもしれない。途中でやっぱり怖くなるかもしれない。
けれど、もう彼は「昨日乗れなかったから、もう帰れない」とは思わない。
昨日、船に乗らなかった事実は残る。
未使用のチケットも、閉まったゲートも、離れていく船も、すべてどこかに残っている。
けれど、その昨日が、帰れない理由ではなくなった。
それだけだった。
それだけで、人は少しだけ次の場所へ行けることがある。
「片桐さん」
「うん」
「せんべい、次は違う種類も買いましょう」
「甘いのとしょっぱいのを買ったけど」
「もっと違う種類です」
「辛いのとか」
「落第です」
「難しいね」
「お茶請け初級編です」
「僕は初級編が多いな」
「伸びしろが多いということです」
「前向きだ」
「私が前向きにしてあげてるんです」
明里はそう言って、せんべいの缶を閉じた。
事務所には、湯呑みが二つ並んでいる。
片方は片桐のもの。
もう片方は、いつの間にか明里のものになっていた。




