表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/23

二章 バックパッカーの男②

昨日、松山行きの船に乗らなかった。

それを、なかったことにする。

こめかみの奥と胸の奥に痛みが走った。

視界の裏側に、宇品港の光が広がる。

潮風。

白い桟橋。

係員の声。

松山行きの案内表示。

リュックの肩紐が食い込んでいる。

手の中にはチケットがある。

スマートフォンの画面には、妹からのメッセージが残っていた。

お母さん、思ったより元気そう。

でも、帰ってきてくれたら嬉しい。

藤崎は画面を閉じる。

船に乗る人たちが、次々とゲートへ向かっていく。

家族連れ。スーツ姿の男。キャリーケースを引く女。観光客らしい若者たち。

誰も、藤崎を見ていない。

それなのに、藤崎は見られている気がしていた。

五年。

五年分の顔。

五年分の言い訳。

何をしていたのか。

どうして帰らなかったのか。

今さら何をしに帰ってきたのか。

父親の声が聞こえた気がした。

お前は、結局何がしたいんだ。

母親の声も聞こえた気がした。

浩二、ご飯食べてるの。

妹の声が、いちばん現実に近かった。

帰ってこないの。

足が動かない。

アナウンスが流れる。

松山行きフェリー、まもなく出航いたします。

行かなきゃ。

行かなきゃ。

行けない。

藤崎はチケットを握りしめる。

ゲートが閉まる。

船が、ゆっくり桟橋を離れる。

白い船体が、海の上へ滑っていく。

その背中を、藤崎はベンチから見ていた。

また逃げた。

まただ。

俺は、帰ることもできない。

船が小さくなる。

港に残ったのは、重いリュックと、使われなかったチケットと、帰れなかった自分だけだった。

痛みが膨らむ。

片桐は奥歯を噛んだ。

潮風の匂いが、胸の奥に沈む。

藤崎の昨日が、片桐の中に残っていく。

港の光。

妹のメッセージ。

動かない足。

閉まるゲート。

離れていく船。

また逃げた、という声。

それらが、藤崎の中から抜ける代わりに、片桐の奥へ沈んでいった。


そして、港の景色がもう一度揺れた。

同じ宇品港。

同じチケット。

同じ松山行きの船。

白い船体が、ゆっくりと桟橋を離れていく。

変わらないものだけを残して、藤崎の足元にあった言葉がほどけていく。

また逃げた。

その声だけが、港の風に溶けて消えた。

代わりに残ったのは、使われなかったチケットと、昨日は行けなかった、という事実だけだった。


数秒後、藤崎が瞬きをした。

「あれ」

彼は事務所の中を見回した。

大きなリュックは足元にある。

湯呑みも、せんべいの皿も、契約書も、すべてそこにある。

ただ、藤崎の表情だけが少し変わっていた。

「俺、相談に…」

彼は自分の手を見た。

それから、スマートフォンを取り出す。

画面を開き、昨日の履歴を確認する。

フェリーの予約画面。

未使用のチケット。

妹からのメッセージ。

何も消えていない。

「船に、乗れなかったんです」

藤崎は、自分に言い聞かせるように言った。

「昨日」

片桐は頷いた。

「はい」

「そっか」

藤崎はしばらく画面を見ていた。

眉を寄せる。

「なんで、間に合わなかったんだろう」

その声に、自分を責める響きはなかった。

ただ、事実を見つめているだけだった。

「いや」

藤崎は小さく息を吐いた。

「昨日は間に合わなかったけど、もう帰れないわけじゃないですよね」

藤崎は顔を上げた。

「今日の便、まだ間に合いますかね」

「まだ、間に合う便はあると思います」

明里がすぐに言った。

「宇品から松山なら、夕方も出てるはずです。調べます」

明里は自分のスマートフォンを取り出した。

片桐が口を開く。

「港までの道が分からないなら」

明里が付箋を見た。

片桐は三秒待った。

「送迎もできます」

「便利屋っぽい」

藤崎が笑った。

片桐は頷いた。

「普通の仕事なので、別料金です」

「片桐さん」

「今のは?」

「少しだけ現実的すぎます」

「でも事実だよ」

「だから言い方です」

藤崎は声を出して笑った。

来た時より、少しだけ背中が軽く見えた。

「いいです。歩いて行きます。荷物、重いけど」

「使わない調理道具は」

片桐は言いかけて、明里を見た。

一秒。

二秒。

三秒。

「……旅に必要なんですね」

明里が目を丸くした。

「片桐さん」

「何?」

「今のは、少し成長です」

「そうか」

「はい。初級編、一歩前進です」

藤崎はリュックを背負った。

大きな荷物が、再び彼の背中に乗る。

それでも、来た時ほど重そうには見えなかった。

「ありがとうございました」

藤崎は深く頭を下げた。

「うまく言えないんですけど、昨日のことが、ただの昨日になった気がします」

「ただの昨日」

明里が繰り返す。

「はい」

藤崎は照れたように笑った。

「逃げた昨日、じゃなくて。船に乗れなかった昨日、くらいになったというか」

片桐は何も言わなかった。

藤崎はリュックの肩紐を握り直した。

「帰ってみます」

「お気をつけて」

明里が言った。

「はい」

藤崎はドアへ向かった。

大きなリュックがまたドア枠にぶつかりそうになり、今度は自分で体を斜めにして抜けた。

ドアベルが鳴る。

ちりん、と軽い音がして、バックパッカーの男は、昼の街へ出ていった。

事務所には、しばらく潮の匂いが残っているような気がした。

片桐は机に手をついた。

痛みは、前より少し深いところにあった。

頭だけではない。

胸の奥に、使われなかったチケットが挟まっているような感覚がある。

帰ってこないの。

妹の声が、まだ耳の奥で残っていた。

「片桐さん」

「うん」

「痛いんですよね」

「少し」

「その『少し』は信用してません」

「前にも聞いたね」

「何度でも言います」

明里は水を持ってきた。

片桐は受け取る。

グラスの冷たさが指に移った。

「帰れますかね、藤崎さん」

「分からない」

「片桐さんは、本当に分からないって言いますね」

「分からないから」

「でも、さっきの人、帰ると思います」

「どうして?」

「リュックが、来た時よりちゃんと背中に乗ってました」

片桐は少し考えた。

「そういうもの?」

「そういうものです」

明里は当然のように言った。

「荷物って、持つ理由がある時と、ただ背負ってる時で、重さが違うんです」

「明里ちゃんは、リュックを背負ったことが?」

「あります。旅行くらい」

「バックパッカー?」

「違います」

「ではなぜ」

「三秒待ってください」

片桐は黙った。

一秒。

二秒。

三秒。

「……聞かない方がいい話?」

「はい」

「分かった」

「よくできました」

明里は満足そうに頷いた。

窓の外では、路面電車が紙屋町の方へ走っていく。

その先に、港はない。

宇品へ行くには、乗り換えるか、少し遠回りをしなければならない。

藤崎浩二は今ごろ、重いリュックを背負って歩いているかもしれない。電車に乗るか、歩くか、迷っているかもしれない。途中でやっぱり怖くなるかもしれない。

けれど、もう彼は「昨日乗れなかったから、もう帰れない」とは思わない。

昨日、船に乗らなかった事実は残る。

未使用のチケットも、閉まったゲートも、離れていく船も、すべてどこかに残っている。

けれど、その昨日が、帰れない理由ではなくなった。

それだけだった。

それだけで、人は少しだけ次の場所へ行けることがある。

「片桐さん」

「うん」

「せんべい、次は違う種類も買いましょう」

「甘いのとしょっぱいのを買ったけど」

「もっと違う種類です」

「辛いのとか」

「落第です」

「難しいね」

「お茶請け初級編です」

「僕は初級編が多いな」

「伸びしろが多いということです」

「前向きだ」

「私が前向きにしてあげてるんです」

明里はそう言って、せんべいの缶を閉じた。

事務所には、湯呑みが二つ並んでいる。

片方は片桐のもの。

もう片方は、いつの間にか明里のものになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ