二章 バックパッカーの男①
明里が貼った紙は、事務所の机の正面にあった。
余計なことを言う前に、三秒待つ。
白い紙に、太い黒ペンでそう書かれている。
片桐亮介は、それをしばらく見つめていた。
「明里ちゃん」
「はい」
「これは」
「研修です」
「誰の?」
「片桐さんの」
「僕は研修を受ける立場だったのか」
「はい。初級編です」
「初級」
「まだ上に行けると思わないでください」
瀬尾明里は、当然のように言った。
五月の終わり。紙屋町の古い雑居ビルの二階には、少し湿った風が入っていた。窓の外では、路面電車がゆっくりと交差点を曲がっていく。車輪の音が、ビルの壁に柔らかく響いた。
片桐は付箋を指で軽く叩いた。
「三秒待てばいいのか」
「まずは」
「まずは、ということは」
「できるようになったら、次の段階があります」
「ちなみに次は?」
「相手の気持ちを想像する、です」
「難易度が急に上がったね」
「だから初級から始めてるんです」
明里は、領収書の束を青いファイルにしまいながら言った。
先日の依頼から、事務所には少しだけ物が増えた。
お茶請け用の小さな缶。湯呑みの下に敷く布のコースター。来客用の砂糖菓子。封筒を入れる木箱。金庫の横には、明里が書いた「噂の方」と「普通の便利屋仕事」の札が並んでいる。
片桐が買ってきたお茶請けは、なぜか全部せんべいだった。
甘いものとしょっぱいものを少しずつ、と明里は言ったはずだった。
「片桐さん」
「うん」
「どうして、全部せんべいなんですか」
「甘いせんべいもある」
「そういうことではないです」
「甘いものとしょっぱいものだろう」
「分類をよく考えてみて下さい」
「分類」
「いいですか、お茶請けにも、デリカシーがあります」
「食べ物にもあるのか」
「あります」
片桐は、付箋を見た。
余計なことを言う前に、三秒待つ。
一秒。
二秒。
三秒。
「お菓子ならなんでもいいのでは」
「待ったうえでそれですか」
「違った?」
「違います」
明里は頭を抱えた。
片桐は真面目に頷いた。
「研修は長くなりそうだね」
「その自覚があるなら、まだ救いがあります」
明里がそう言った時だった。
ドアの向こうで、何かが壁にぶつかる音がした。
ごつん、と大きな音がして、それから少し間を置いて、ドアベルが鳴った。
ちりん。
いつもの軽い音に混じって、金具の擦れる音がした。
「いらっしゃいませ」
明里が顔を上げる。
入ってきた男は、ドア枠に大きなリュックを引っかけながら、困ったように笑っていた。
「あ、すみません。でかくて」
二十代の終わりくらいだろうか。日に焼けた顔に、伸びかけの髭。髪は少し長く、首元には汗で色の変わったタオルを巻いている。履き潰した登山靴。色褪せたジャケット。背中のリュックは、男の体と同じくらい大きかった。
旅人、という言葉がそのまま歩いてきたような男だった。
ただ、その目だけが、少し疲れていた。
「便利屋さん、ですよね」
男はそう言ってから、事務所の中を見回した。
「ここで、ひとつだけ、なかったことにできるって聞いたんですけど」
明里は片桐を見た。
片桐は静かに立ち上がった。
「片桐です。どうぞ」
「すみません。荷物、ここ置いてもいいですか」
「ええ」
男がリュックを床に下ろすと、どさり、と重い音がした。
明里が少し目を丸くする。
「かなり重そうですね」
「重いです。ほとんど着替えと、使わない調理道具です」
「使わないんですか」
「一応、持ってると旅してる感じが出るので」
男は苦笑した。
片桐が口を開きかける。
明里がすばやく付箋を指差した。
片桐は一度口を閉じた。
一秒。
二秒。
三秒。
「使わないなら置いていけばいいのに」
「片桐さん」
「三秒待った」
「待てば何でも許されるわけではないです」
男が小さく笑った。
その笑い方には、少しだけ安堵が混じっていた。
明里がお茶を出した。
今日は、湯呑みの湯気が少しだけ落ち着いている。湯呑みの横には、小さな皿にせんべいが二枚置かれていた。片方は甘い醤油味で、もう片方はただの醤油味だった。
明里はその皿を見て、少しだけ不満そうな顔をしたが、何も言わなかった。
「お名前を伺っても?」
片桐が尋ねる。
「藤崎です。藤崎浩二」
「藤崎さん。今日は、どういったご依頼で」
藤崎浩二は、湯呑みを両手で包んだ。
指の節が、ごつごつしていた。爪の間に土が残っている。旅をしている人間の手だった。
「昨日のことを、なかったことにしてほしくて」
「昨日の、何を」
「船に乗らなかったことです」
片桐は黙っていた。
明里も黙っていた。
藤崎は湯呑みの中を見つめたまま続けた。
「宇品港から、松山行きのフェリーに乗るはずだったんです」
「愛媛の方なんですか」
明里が尋ねる。
「はい。松山の、少し外れです。実家がそっちで」
「帰省ですか」
「帰省、って言えたらよかったんですけど」
藤崎は苦笑した。
「五年くらい、帰ってなくて」
窓の外を、路面電車が通り過ぎる音がした。
藤崎の視線は、湯呑みから動かない。
「大学出て、就職して、すぐ辞めて。親父と喧嘩して、そのまま家を出たんです。しばらく働いて、また辞めて。気づいたら、ずっと旅みたいなことしてました」
「旅みたいなこと」
片桐が繰り返す。
「ええ。旅って言えば聞こえはいいですけど、ただ帰るのを先延ばしにしてただけです」
その言葉だけは、妙にはっきりしていた。
藤崎は一度、息を吐いた。
「一昨日、妹から電話が来ました。母親が倒れたって」
明里の表情が変わった。
「今は?」
「命に別状はないです。検査入院で済みそうだって。だから、そんな大事じゃないんです。本当は」
藤崎は、湯呑みを包む手に力を入れた。
「でも、妹に言われました。帰ってこないの、って」
誰も何も言わなかった。
「帰るって言ったんです。昨日、宇品から船に乗るって。チケットも買った。港まで行った。乗り場の前まで行ったんです」
藤崎の声が少しだけ低くなった。
「でも、乗れなかった」
「どうしてですか」
明里が静かに尋ねた。
藤崎は笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「どの顔で帰ればいいのか、分からなくなって」
事務所の時計が、小さく音を立てた。
「母親が倒れたって聞いても、すぐ帰らなかった息子です。五年も顔を見せなかった息子です。父親と喧嘩して、偉そうに出て行って、結局何者にもなれなかった息子です」
藤崎は、自分のリュックを見た。
「こんな荷物だけ背負って、帰ってどうするんだろうって思ったら、足が動かなくなって」
「それで」
「船が出るまで、ずっと乗り場の近くにいました」
藤崎は湯呑みから手を離した。
「出航のアナウンスが流れて、みんな乗っていって、ゲートが閉まって。船が離れていくのを見てました」
「そのあと、どうされたんですか」
「港のベンチで夜まで座ってました」
藤崎は小さく笑った。
「それから、安いゲストハウスに泊まって。そこの人に、ここを教えてもらいました。なんか、ひとつだけ、なかったことにできる便利屋があるって」
片桐は説明を始めた。
「事実そのものは変わりません」
「はい」
「昨日、あなたが船に乗らなかった事実は残ります。チケットを買ったことも、港まで行ったことも、乗れなかったことも、船が出たことも」
「分かってます」
「なかったことにできるのは、その出来事が、あなたの中でどう刺さっているかです」
藤崎は、ゆっくり顔を上げた。
「俺が、また逃げたってことですか」
「それが、あなたの後悔なら」
片桐は言った。
「後悔として刺さっている部分だけを抜きます」
「抜いたら、どうなるんですか」
「分かりません」
「分からない?」
「帰れるかもしれないし、帰らなくてもいいと思うかもしれない。別の形で、あなたの中の辻褄が合うかもしれない。望んだ通りになるとは限りません」
藤崎は黙った。
明里が、せんべいの皿を少しだけ彼の方へ押した。
「でも、後悔で止まっているなら」
明里は言った。
「少しだけ、動けるようにはなるかもしれません」
藤崎はその言葉を聞いて、しばらく動かなかった。
やがて、せんべいを一枚手に取った。
「これ、甘いですか」
「甘い方です」
明里が答える。
「もう一枚は?」
「しょっぱい方です」
「なるほど」
藤崎は甘い方をかじった。
少しだけ表情が緩んだ。
「同じ味に近いですね」
「そうなんです」
明里は片桐を見た。
「そうなんですか」
片桐は真面目に言った。
「はい。そうなんです」
藤崎は少し笑った。
笑ってから、すぐに俯いた。
「帰りたいのか、帰りたくないのか、自分でも分からないんです」
彼は言った。
「でも、昨日、船に乗れなかったことが、ずっと頭の中に残ってる」
藤崎の声がかすれた。
「俺、結局また逃げたんだって」
片桐は契約書を取り出した。
「依頼料は先払いです。説明を受けたこと、事実そのものは変わらないこと、望んだ結果が保証されないこと。その確認として、契約書にサインをいただきます」
明里が封筒と万年筆を用意した。
「ゆっくり読んでください。分からないところがあれば聞いてください」
藤崎はリュックのポケットから財布を取り出した。
古い革の財布だった。中には、折れたレシートと、小さな写真が挟まっているのが見えた。
家族写真だろうか。
明里は見ないふりをした。
藤崎は契約書を読み、依頼料を封筒に入れた。
明里が金額を確認し、封筒に日付と名前を書く。
藤崎浩二。
金庫の鍵が、かちりと回った。
藤崎は契約書にサインをした。
片桐はそれを確認してから、もう一度尋ねた。
「あなたが、なかったことにしたいのは何ですか」
藤崎は背筋を伸ばした。
それだけで、背中に見えない荷物をもう一つ背負ったように見えた。
「昨日、松山行きの船に乗らなかったことです」
「船に乗らなかったことを、なかったことにする」
「はい」
「本当にいいですね」
藤崎は頷いた。
「お願いします」
片桐は目を閉じた。
明里が一歩下がる。
事務所の空気が変わる。
薄い潮の匂いがした気がした。
片桐は、藤崎の言葉を頭の中でなぞる。
昨日、松山行きの船に乗らなかった。
それを、なかったことにする。




