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幕間 真人間計画

片桐が椅子の修理に出かけてから、事務所は急に静かになった。

さっきまで鈴木凛が座っていたソファには、まだ少しだけ人の気配が残っている。湯呑みの底には、ほとんど飲まれなかったお茶が薄く残っていた。

明里はそれを片付け、給湯室で軽く洗った。

「熱すぎたかな」

独り言のように呟く。

後悔を持ってくる人は、たぶん喉が渇いている。

さっき自分でそう言った言葉を思い出して、明里は少しだけ恥ずかしくなった。言ってから、少し大げさだったかもしれないと思った。

けれど、間違ってはいない気がした。

鈴木凛は、お茶を飲まなかった。

飲めなかったのかもしれない。

今度からは、もう少し冷まして出そう。できれば、お茶請けも用意する。甘いものと、しょっぱいものを少しずつ。

片桐さんに任せると、たぶん全部同じものを買ってくる。

明里は布巾を絞り、机を拭いた。

領収書が一枚、ペン立ての下から出てきた。

「また…」

明里はそれを摘まみ上げ、日付を確認する。

昨日のものだった。

青いファイルに入れる。

工具箱の中。ペン立ての下。封筒の間。

なぜ領収書は、本来いるべき場所ではないところからばかり出てくるのか。

片桐亮介という人間は、人の後悔はあんなに丁寧に扱うくせに、自分の領収書はあまりにも雑に扱う。

それに。

明里は、はたきを手に取った。

「少し太った、は、ないよね」

思い出すだけで、眉間に力が入る。

心配していたのは分かる。

顔色が良くなった、と言いたかったのも分かる。

けれど、なぜそこから最初に出る言葉が「少し太った?」なのか。

「まったく、片桐さんのデリカシーの無さには困ったものね」

棚の上をはたきながら、明里はため息をついた。

あの人は、悪い人ではない。

悪い人だったら、あんな仕事はできない。人の後悔を聞いて、受け取って、自分の中に残すなんてこと、普通はできない。

でも、悪い人ではないことと、デリカシーの有無とは別問題だった。

「私が、なんとか真人間にしなきゃ」

はたきを握る手に力を入れながら、明里はそう呟いた。

その時だった。

足元のカーペットの端が、少しだけ浮いていることに気づいた。

「…ん?」

明里はしゃがみ込んだ。

カーペットの下に、白いものが入り込んでいる。

「はあ……片桐さん、こんなところにまで」

領収書か、メモか。

どうせそんなものだろうと思って、明里は指先でそれを引き抜いた。

「あれ」

出てきたのは、古い封筒だった。

端が少し折れている。紙は日に焼けて、白というより薄い茶色に近くなっていた。封は切られている。表には、丁寧な字で「片桐様」と書かれていた。

「なにこれ…手紙かな?」

勝手に読んでいいものではない。

そう思ったのに、封筒の口から覗く便箋が目に入った。

そこに書かれた一文が、目に入ってしまった。

――あの時、私が泣き止むまで待ってくださって、ありがとうございました。

「……だめだよね」

そう呟いたのに、指は便箋を戻せなかった。

明里は少しだけ迷ってから、手紙を開いた。

事務所の外を、路面電車が通り過ぎる音がした。

便箋は一枚だけだった。

――急かさず、余計なことも言わず、私が言葉にできるまで、待ってくださったことを覚えています。

「…昔は、ちゃんとできたんだ」

小さく呟いてから、明里は慌てて首を振った。

いや、今もできないわけではない。

鈴木凛の話を、片桐はちゃんと待っていた。

途中で遮らなかった。

必要以上に慰めなかった。

でも、時々、何かがずれている。

言わなくていいことを言いそうになる。

まったく、片桐さんは、どこでデリカシーを落としてきたのだろう。

明里は古い手紙を封筒に戻した。

どうしてカーペットの下に入り込んでいたのかは分からない。棚の隙間から落ちて、掃除のたびに少しずつ奥へ入ってしまったのかもしれない。

明里はその封筒を、机の上に置いた。

領収書とは別に。

捨ててはいけないものの場所に。

「片桐さん」

いない相手に向かって、明里は言った。

「デリカシー、昔は持ってたんじゃないですか」

明里はもう一度、はたきを握り直した。

「だったら、なおさらです」

少しだけ力を込める。

「私が、真人間に戻します」

そう言ってから、明里は棚の上の埃を勢いよく払った。

舞い上がった埃に、すぐ咳き込んだ。

「……まずは掃除ね」

涙目になりながら、明里は小さく呟いた。

事務所には、湯呑みが二つ並んでいる。

片方は片桐のもの。

もう片方は、いつの間にか明里のものになっていた。

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