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一章 サングラスの女②

片桐は、凛の言葉を頭の中でなぞった。

昨日、彼に言った。

もういい、別れる。

それを、なかったことにする。

次の瞬間、こめかみの奥に細い痛みが走った。

視界の裏側に、知らない部屋の明かりが滲む。

スマートフォンを握る手。

予約していた店の画面。

何度も見た時計。

遅れる、という短いメッセージ。

電話越しの疲れた男の声。

ごめん。

仕事だから仕方ないじゃん。

そうじゃない。

そういうことじゃない。

凛の声が震えていた。

私、ずっと待ってたんだけど。

沈黙。

何か言ってよ。

今は無理だよ。

その一言で、凛の中の何かが切れる。

もういい。

もういいよ。

別れる。

電話の向こうで、男が息を吐いた。

長い沈黙のあと、低い声がした。

分かった。

通話が切れる。

すぐに後悔が来る。

怒りよりも早く、悲しみよりも重く。

メッセージ画面。

もう知らない。

送信。

既読。

それだけの朝。

私が終わらせた。

私が言ったから。

私が壊した。

痛みが膨らむ。

片桐は奥歯を噛み、こめかみと胸の痛みをぐっと飲み込む。

凛の昨日が、片桐の中に残る。

彼女の声、彼女の怒り、彼女の後悔。

それらが、凛の中から抜けていく代わりに、片桐の頭の奥へ沈んでいく。


そして、知らない部屋の明かりが、もう一度滲んだ。

同じ部屋。

同じスマートフォン。

同じ予約していた店の画面。

同じ、遅れる、という短いメッセージ。

変わらないものだけを残して、凛の言葉がほどけていく。

もういい。

もういいよ。

別れる。

その言葉だけが、画面の奥へ沈んで消えた。

代わりに残ったのは、短いメッセージだった。

今日は、もう帰るね。

既読。

返事はない。

翌朝、男からのメッセージが残っていた。

少し、距離を置こう。

ごめん。

終わったことは、変わらない。

ただ、それは凛が一言で壊したものではなくなっていた。


数秒後、凛が小さく息を吸った。

「あれ」

その声は、さっきまでと違っていた。

泣き腫らした目はそのままだ。サングラスも、膝の上にある。スマートフォンを握る手も変わらない。

けれど、声の底にあった棘が消えていた。

「私……」

凛は事務所の中を見回した。

「何しに来たんでしたっけ」

明里が静かに近づいた。

「大丈夫ですか」

「あ、はい。大丈夫です。すみません、なんか」

凛は困ったように笑った。

「変ですね。私、ここに相談しに来たんですよね」

「はい」

片桐は答えた。

「彼と、どうするか決まりましたか」

「彼と」

凛はその言葉を繰り返した。

彼女はスマートフォンを見た。

画面を開き、しばらく黙る。

昨日のメッセージは残っている。

通話履歴も、既読も、消えない。

けれど、それを見つめる彼女の表情は変わっていた。

「喧嘩、したんです」

凛はぽつりと言った。

自分で確認するような声だった。

「そしたら、彼から、もう無理って言われたんだと思います……」

彼女は眉を寄せる。

「でも、昨日だけのことじゃない気がします」

明里は何も言わなかった。

凛は画面を見たまま続けた。

「前から、ちょっとずつ無理してたのかも。私も、あの人も」

彼女の指が、スマートフォンの縁をなぞる。

「ちゃんと話してみます。謝るところは謝って。それで、まだ続けたいのか、もう終わりにした方がいいのか、ちゃんと」

そこで、凛は少しだけ笑った。

「なんか、変ですね。来た時はたぶん、もっと大変な感じだった気がするんですけど」

「そういうものです」

片桐は答えた。

「そういうもの、なんですか」

「はい」

凛はサングラスをかけ直した。

来た時と同じものだった。

けれど、それをかける仕草は少し違っていた。

隠すためというより、外へ出る準備をするように見えた。

「目、腫れてるから」

凛は照れたように言った。

「ひどい腫れ具合ですね、大丈夫ですか?」

真顔で言う片桐の腕を、明里が掴む。

「片桐さん」

「はい」

「今のは、NGです」

「NGか」

「はい、駄目、です」

凛が、少しだけ笑った。

来た時にはなかった笑い方だった。

「ありがとうございます」

それが片桐に向けたものなのか、明里に向けたものなのかは分からなかった。

凛は立ち上がり、深く頭を下げた。

「あの、ありがとうございました。うまく言えないですけど、来てよかった気がします」

「それなら、よかったです」

片桐が言うと、凛はもう一度だけ頭を下げた。

ドアベルが鳴る。

ちりん、と軽い音がして、サングラスの女は昼の光の中へ戻っていった。

しばらく、事務所には何も音がなかった。

窓の外を、また電車が通る。

片桐は机に手をついた。

痛みはまだ残っている。

強烈ではない。耐えられないほどでもない。けれど、こめかみの奥に細い針が残ったような感覚があった。

もういい。

別れる。

分かった。

凛の昨日は、片桐の中にあった。

「片桐さん」

明里の声がした。

「うん」

「痛いんですよね」

「少し」

「その『少し』、信用してません」

明里は給湯室へ向かった。

戻ってきた時、手には水の入ったグラスがあった。

「飲んでください」

「ありがとう」

「今日はもう、噂の方は受けないでください」

「どのみち、一日に一度しかできないよ。ただの便利屋仕事も受けなくていい?」

「椅子修理は行ってください。約束なので」

「厳しいね」

「約束を忘れた話のあとに、約束を破るんですか」

「行くよ」

「よろしい」

片桐は水を飲んだ。

冷たさが喉を通る。

頭痛は消えない。

けれど、少しだけ輪郭がぼやけた。

明里は凛が座っていたソファを見た。

湯呑みには、ほとんど手がつけられていなかった。

「さっきの人」

「うん」

「軽くなったんですかね」

「分からない」

「片桐さんは、そういう時いつも分からないって言いますね」

「分からないから」

明里は呆れたように笑った。

それから、凛の残した湯呑みを持ち上げた。

「でも、少しは軽くなってると思います」

「どうして?」

「帰る時のサングラス、来た時より似合ってました」

片桐は返事をしなかった。

明里は給湯室へ湯呑みを運んでいく。

水の流れる音がした。

その生活じみた音を聞きながら、片桐は窓の外を見た。

凛は今ごろ、紙屋町の交差点を歩いているかもしれない。

スマートフォンを握りしめて、電話をかけるか迷っているかもしれない。あるいは、少し歩いてから、やっぱり今日はやめようと思うかもしれない。

彼女が恋人とやり直すかどうかは分からない。

別れるかもしれない。

続けるかもしれない。

けれど、もう彼女は「あの一言だけで全部を壊した」とは思わない。

その分だけ、次の言葉を選べる。

それが救いかどうかは、片桐には分からない。

ただ、後悔で止まっていた人間が、少しだけ動き出すことはある。

給湯室から戻ってきた明里が、契約書をファイルにしまった。

「片桐さん」

「うん」

「今度から、依頼者さんに出すお茶、もう少し冷ましてから持っていきます」

「どうして?」

「ほとんど飲めてませんでした」

「緊張していたからでは」

「それもあります。でも、熱かったら余計に飲めません」

「なるほど」

「あと、お茶請けもあってもいいかもしれません」

「便利屋に?」

「便利屋に」

「必要?」

「必要です」

明里は当然のように言った。

「後悔を持ってくる人って、たぶん喉が渇いてます」

片桐はその言葉を、少し考えた。

明里はもう契約書を棚に戻している。

本人は何気なく言ったのだろう。

けれど、片桐の中には妙に残った。

後悔を持ってくる人は、喉が渇いている。

確かに、そうかもしれない。

「じゃあ、買っておくよ」

「何をですか」

「お茶請け」

明里は驚いたように片桐を見た。

「珍しいですね。素直で」

「そんなに?」

「はい」

「では、なかったことに」

「できません」

即答だった。

片桐は小さく笑った。

明里も笑った。

外の光は、少しずつ傾き始めていた。

机の上には、鈴木凛の契約書が収められたファイルがある。

サインのある紙。

受け取った依頼料。

金庫の中の封筒。

それらは、依頼があったことを示す現実の証拠だった。

そして、片桐の中には、彼女が忘れた昨日が残っている。

それでも、事務所の空気は重くなりすぎなかった。

明里がいるからだ。

彼女は痛みを消してくれるわけではない。

記憶を分け合えるわけでもない。

ただ、片桐が痛がっていることに気づく。

それだけのことが、この事務所ではひどく珍しかった。

「片桐さん」

「うん」

「おにぎり、食べてください。椅子修理、二時ですよ」

片桐は時計を見た。

もう一時半を過ぎている。

「忘れてた」

「だと思いました」

明里は紙袋からおにぎりを取り出し、机の上に置いた。

「鮭と昆布、どっちがいいですか」

「どっちでも」

「その答え、禁止です」

「じゃあ、鮭で」

「私は昆布にします」

「選ばせた意味は?」

「あります。私が昆布を食べたかったので」

「なるほど」

「こういう時のなるほどは合ってます」

「よかった」

片桐はおにぎりを受け取った。

包装を開けながら、窓の外を見る。

サングラスの女の姿はもう見えない。

ただ、昼下がりの街の中を、路面電車がいつも通り走っていた。

世界は何も変わっていない。

昨日の通話も、既読のついたメッセージも、予約した店に一人で座っていた時間も、すべてどこかに残っている。

けれど、ひとつだけ、変わったものがある。

凛がその昨日を抱える形。

それだけだった。

片桐はおにぎりを一口食べた。

頭痛はまだある。

それでも、午後の仕事には行けそうだった。

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