一章 サングラスの女①
湯呑みが二つ並ぶようになってから、事務所の空気は少しだけ変わった。
古い雑居ビルの二階。窓の外では、昼下がりの路面電車が紙屋町の方へゆっくり走っていく。雨上がりの匂いはもう消えて、五月の光がブラインドの隙間から細く差し込んでいた。
片桐亮介は、机の上に積まれた修理依頼のメモを一枚ずつ確認していた。
網戸の張り替え。電球交換。家具の移動。庭の草むしり。
どれも、普通の便利屋の仕事だった。
瀬尾明里は、向かいの小さな机で契約書の束を揃えている。
「明里ちゃん」
「はい」
「少し太った?」
契約書を揃える音が、ぴたりと止まった。
窓の外で、路面電車のベルが小さく鳴った。
「片桐さん」
「うん」
「今、何て言いました?」
「少し太ったかと」
「繰り返さなくていいです」
「顔色が良くなったから、食事量か睡眠時間が改善したのかと思って」
「だったら最初から、顔色良くなりましたねって言ってください」
「なるほど」
「なるほどじゃないです」
明里は静かに息を吐いた。
「女性にそれを言う時は、遺書を書いてからにしてください」
「そこまで?」
「そこまでです」
「心配したんだけど」
「心配だけ受け取っておきます。言い方は返却します」
「返却された場合、どうすればいい?」
「捨ててください」
「分かった」
片桐は素直に頷いた。
明里は呆れたように、けれど少しだけ笑って、契約書を日付順に並べ直した。
彼女がここに来るようになってから、事務所には物の置き場所ができた。契約書は棚の右端。領収書は青いファイル。依頼料は封筒に日付を書いて金庫。便利屋仕事と、噂の方の仕事は別。
片桐が決めたわけではない。
明里が来てから、そうなっていた。
「片桐さん」
「うん」
「また、領収書が工具箱に入ってました」
「入れた覚えはないな」
「じゃあ、領収書が自分で歩いて工具箱に入ったんですか」
「その可能性は低い」
「低いじゃなくて、ないです」
「はい」
「最初から、素直に白状して下さい」
明里は領収書をファイルに戻した。
「今日は午後から、喫茶店の椅子修理でしたよね」
「二時に」
「それまでにお昼、食べてくださいね」
「食べるよ」
「ほんとですか」
「たぶん」
「たぶんは禁止です」
明里は机の端に置いていた紙袋から、小さな包みを取り出した。
「コンビニのおにぎりでよければ」
「いつの間に」
「片桐さんが食べないと思ったので」
「用意がいいね」
「信用がないんです」
その言い方が少しだけ楽しそうで、片桐は返事に困った。
ドアベルが鳴ったのは、その時だった。
ちりん、と乾いた音がした。
明里が先に顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
入ってきた女は、入口のところで立ち止まった。
二十代後半くらい。淡い色のブラウスに、細身のパンツ。肩にかかる髪はきれいに巻かれている。手に持った小さなバッグも、靴も、きちんとしていた。
けれど、顔の半分を覆う大きなサングラスだけが、少し浮いていた。
室内なのに、外さない。
「あの」
女は入口のドアを背にしたまま、小さな声で言った。
「ここで、合ってますか」
明里は一瞬だけ片桐を見た。
ただの便利屋仕事ではない。
そういう顔だった。
片桐は椅子から立ち上がった。
「片桐です。どうぞ」
女は遠慮がちに事務所へ入った。
明里がソファへ案内する。紙コップではなく、湯呑みにお茶を注いで持ってくる。その仕草はまだ少しぎこちないが、来客を迎える人間のものになっていた。
片桐が向かいに座る。
「お名前を伺っても?」
女はバッグの持ち手を握りしめた。
「鈴木、です。鈴木凛」
「鈴木さん。今日は、どういったご依頼で」
凛はすぐには答えなかった。
サングラスの奥で、目が動いた気配だけがあった。
明里が静かに湯呑みを置く。
「熱いので、気をつけてください」
「あ、ありがとうございます」
凛は湯呑みに手を伸ばしたが、持ち上げはしなかった。両手で包むように触れただけだった。
片桐は待った。
待つことには慣れている。
後悔を持ってくる人間は、たいてい最初の一言に時間がかかる。
「あの」
凛がようやく口を開いた。
「ひとつだけ、なかったことにできるって、聞いたんです」
「はい」
片桐は頷いた。
「そういう依頼も受けています」
「本当に、できるんですか」
「できます。ただし、現状を変えるわけではありません」
凛の指が、湯呑みの縁で止まった。
「え?」
「なかったことにできるのは、あなたがした選択です。起きたことは変わりません。」
凛は黙っていた。
片桐は言葉を足しすぎないようにした。
詳しい説明は必要だ。けれど、説明しすぎると、人は自分の傷口から目を逸らせなくなる。
「後悔として刺さっている部分だけを抜く。そう考えてください」
「それって」
凛は唇を噛んだ。
「気持ちだけは楽になる、そういう事ですか」
片桐は小さく頷いてから、微笑みを浮かべて答える。
「望んだ通りになるとは限りません。仲直りできるかもしれないし、逆に、もういいと思えるようになるかもしれません」
凛が顔を上げる。
「”やり直す”というより、”動けるようにする”、という方が近いと思います」
凛は湯呑みから手を離した。
「動けるように」
「でも」
明里が口を挟んだ。
「でも、もう起きたことは変わりません。それでも、いいんですか?」
凛は湯呑に視線を落とし、数秒言葉を探していた。
「動けるように」
凛はその言葉を飲み込むように、ゆっくり俯いた。
しばらくして、彼女はサングラスを外した。
目元が赤かった。
泣き腫らしている。化粧で隠そうとした跡もある。けれど、隠しきれなかったのだろう。
片桐は一瞬、口を開きかけた。
明里が横から小さく言った。
「片桐さん」
「……はい」
「言わなくていいです」
「まだ何も言ってないけど」
「たぶん、言わない方がいいことでした」
「そうかな」
「そうです」
凛が、少しだけ不思議そうに二人を見た。
明里は何事もなかったように微笑む。
「すみません。続けてください」
凛は小さく頷いた。
「昨日、彼氏に言ったんです」
「はい」
「もういい。別れるって」
声は小さかった。
けれど、その言葉だけははっきりしていた。
「本当は、そんなこと言いたかったわけじゃないんです。ただ、ずっと我慢してて。向こう、仕事が忙しいのは分かってるんですけど、約束を忘れるの、何回目だろうって思ったら、もう止まらなくなって」
凛はサングラスを両手で握った。
「昨日も、会う約束してたんです。私、店も予約してて。なのに、時間になっても来なくて。電話したら、まだ会社だって言われて」
明里の表情が少し曇った。
凛は早口になっていく。
「たぶん、向こうも疲れてたんだと思います。謝ってはくれたんです。でも、声が面倒くさそうで。私が怒ったら、黙って。何か言ってよって言ったら、今は無理って言われて」
そこで、凛は一度息を詰まらせた。
「それで、私が言ったんです。もういい、別れるって」
路面電車の音が、窓の外を通り過ぎた。
乾いた車輪の響きが、事務所の沈黙の底をなぞっていく。
「向こう、何て言ったんですか」
明里が静かに尋ねた。
凛は苦しそうに笑った。
「分かった、って」
それだけです、と彼女は言った。
「電話、切れて。そのあと私、腹が立って、もう知らないってメッセージ送って。朝になったら既読だけついてて」
凛はスマートフォンを取り出した。
画面を開くわけではない。ただ、握りしめる。
「私、あの一言さえ言わなければ、まだ大丈夫だったと思うんです」
「やり直したいんですか」
片桐が尋ねると、凛はすぐには答えなかった。
それが答えだった。
「分からないです」
彼女は言った。
「やり直したいと思うけど、どうせもう無理だったと思ってる自分もいて。分からないんです。でも、昨日からずっと、その言葉だけが頭の中に残ってて」
凛は目元を指で押さえた。
「私が壊したんだって」
ありふれた、男女の別れだ。
少なくとも、他人から見ればそうだ。
若い恋人同士の喧嘩。売り言葉に買い言葉。翌日には謝れるかもしれないし、一週間後には笑い話になるかもしれない。
けれど、後悔は他人が測るものではない。
本人の中に刺さったものは、小さくても抜けない。
片桐は契約書を取り出した。
「依頼料は先払いです」
凛は少し驚いたように瞬きをした。
「あ、はい」
「説明を受けたこと、事実は変わらないこと、望んだ結果が保証されないこと。その確認として、契約書にサインをいただきます」
明里が封筒と万年筆を用意した。
「ゆっくり読んでください。分からないところがあれば聞いてください」
「ありがとうございます」
凛は契約書を読んだ。
目で文字を追いながら、何度か唇を引き結ぶ。
その間、明里は黙っていた。
片桐も黙っていた。
この時間は、依頼者のものだった。
やめるなら、ここでやめた方がいい。
凛は財布から現金を出し、封筒に入れた。
明里が受け取り、金額を確認する。
「お預かりします」
封筒に日付と名前を書いて、金庫へ入れる。
鍵の回る音がした。
凛は契約書にサインをした。
鈴木凛。
字は少し震えていた。
片桐は契約書を受け取り、確認した。
「最後に、もう一度伺います」
「はい」
「あなたが、なかったことにしたいのは何ですか」
凛はサングラスを膝の上に置いた。
目は赤い。
けれど、声はさっきより落ち着いていた。
「昨日、彼に『もういい、別れる』って言ったことです」
「その言葉を、なかったことにする」
「はい」
「本当にいいですね」
凛は頷いた。
「お願いします」
片桐は目を閉じた。
明里が、一歩下がる気配がした。
この瞬間だけ、事務所の空気が変わる。
騒がしいわけでも、静かすぎるわけでもない。ただ、何かがこちらを見ているような感覚がある。
片桐は、凛の言葉を頭の中でなぞった。
昨日、彼に言った。
もういい、別れる。
それを、なかったことにする。




