零章 あのときのきみ②
その三日後、ドアベルが鳴るまでは。
昼前のことだった。
片桐は脚立を抱えて事務所に戻ってきたばかりだった。午前中は、近所の古い喫茶店で照明の交換をしていた。
汗を拭きながらドアを開けると、そこに明里が立っていた。
今度は傘を持っていなかった。
代わりに、紙袋を二つ持っている。
「こんにちは」
片桐は少しだけ瞬きをした。
「瀬尾さん」
「覚えてましたか」
「三日前なので」
「よかったです」
明里は勝手に事務所の中を覗いた。
机の上には工具が出しっぱなしになっている。契約書のファイルは棚から半分飛び出し、昨日の領収書がコーヒーの空き缶の下敷きになっていた。
明里は眉を寄せた。
「ここ、人手足りてませんよね」
「足りています」
「嘘ですね」
「嘘ではありません」
「じゃあ、どうしてこんなに散らかっているんですか」
「分類前です」
「散らかっている人は、だいたいそう言います」
「統計ですか」
「経験です」
明里は紙袋を机の上に置いた。
中から、ファイルボックスと、付箋と、未開封の布巾が出てきた。
「何ですか、これは」
「差し入れです」
「差し入れに布巾を持ってくる人は珍しいですね」
「必要そうだったので」
片桐は困った。
困ったが、なぜか少しだけ可笑しかった。
「瀬尾さん」
「はい」
「依頼ですか」
「いいえ」
「では、何をしに」
「働きに来ました」
片桐は黙った。
明里は平然としている。
「募集していません」
「でしょうね」
「給料も出せません」
「最初は試用期間でいいです」
「そういう問題では」
「金庫、ありますよね」
片桐は眉をひそめた。
「ありますが」
「依頼料、先払いなんですよね。契約書もある。だったら、管理する人がいた方がいいです」
「自分でできます」
明里は机の上を見た。
コーヒーの空き缶の下で、領収書が少し湿っている。
「できてません」
片桐は言い返せなかった。
明里は上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。
「お茶、どこですか」
「給湯室に」
「湯呑みは」
「紙コップが、棚に」
「紙コップ?」
明里は給湯室へ向かった。
戸棚を開ける音がする。
しばらくして、低い声が聞こえた。
「片桐さん」
「はい」
「紙コップ、ほとんど潰れてます」
「そうでしたか」
「そうでしたか、じゃないです」
片桐は脚立を壁に立てかけた。
給湯室から戻ってきた明里は、潰れた紙コップを選別していた。まるで、ずっと前からここで働いていた人のような手つきだった。
「瀬尾さん」
「はい」
「どうしてですか」
明里の手が止まった。
「どうして、ここに来たんですか」
明里は少しだけ考えた。
それから、片桐を見た。
「ひとつだけ、なかったことにしたいことがありました」
「はい」
「でも、やめました」
「はい」
「あの時、帰ってから思ったんです」
明里は潰れた紙コップをまとめ、ゴミ箱の横に置いた。
「私は、忘れたら楽になるかもしれない。でも、その分を誰かが覚えるなら、それは私のものじゃなくなる気がしました」
片桐は何も言わなかった。
「後悔って、嫌ですけど」
明里は少し笑った。
「嫌ですけど、たぶん、私のものなので」
彼女の声は、強くはなかった。
けれど、不思議と逃げ道のない言葉だった。
「だから、依頼はしません」
「それなら、なおさらここに来る理由はないでしょう」
「あります」
「何ですか」
「片桐さんを一人にしておくと、よくなさそうです」
片桐は思わず黙った。
明里は、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「すみません。失礼なことを言ってるのは分かってます」
「かなり」
「でも、ほんとのことです」
窓の外から、路面電車の音が届いた。
昼の光が、ブラインドの隙間から斜めに入っている。
机の上の埃が、その光の中でゆっくり舞っていた。
「仕事なら、何回でも痛がっていいんですか」
明里がぽつりと言った。
その言葉に、片桐は三日前の夕方を思い出した。
仕事なら、痛くないんですか。
同じ声だった。
「私は、片桐さんの力のことは分かりません」
明里は続けた。
「何ができて、何ができないのかも、まだよく分かりません。でも、片桐さんが痛いのに平気な顔をする人だっていうのは、分かります」
「それは、買いかぶりです」
「買いかぶりじゃないです」
「瀬尾さん」
「はい」
「ここにいたら、嫌なものを見ることになります」
「たぶん、そうでしょうね」
「忘れた方がいいことも、あります」
「でも、片桐さんは忘れないんでしょう」
片桐は返事をしなかった。
明里は笑った。
「なら、せめてお茶くらい出す人がいてもいいと思います」
片桐は、なぜかそれ以上、強く断れなかった。
明里はファイルボックスを棚に並べ始めた。
「契約書はここ。領収書はこっち。依頼料は封筒に日付を書いてから金庫。便利屋仕事と、噂の方の仕事は分けた方がいいです」
「噂の方」
「看板に書けない仕事の呼び方です」
「勝手に決めないでください」
「じゃあ、他に呼び方ありますか」
片桐は考えた。
「……ありません」
「じゃあ、決まりです」
明里は少し得意そうに笑った。
その笑顔で、事務所の空気がほんの少しだけ変わった。
古い机も、色褪せたソファも、埃っぽいブラインドも、何かが足りないまま長く放置されていた場所のようではなくなった。
片桐は窓の外を見た。
路面電車が交差点を曲がっていく。
雨上がりの街に、薄い光が差していた。
「あの」
明里が言った。
「何ですか」
「コーヒー派ですか。お茶派ですか」
「どちらでも」
「そういう答えが一番困ります」
「では、コーヒーで」
「分かりました。でも、今日はお茶にします」
「聞いた意味は」
「私が飲みたいので」
片桐は小さく息を吐いた。
笑ったつもりはなかった。
けれど、明里がこちらを見て、少しだけ嬉しそうにした。
「今、笑いました?」
「笑っていません」
「笑いました」
「気のせいです」
「そういうことにしておきます」
給湯室で湯を沸かす音がした。
その音は、ひどく生活じみていた。
片桐の事務所には、似合わない音だった。
けれど、悪くなかった。
明里が紙コップを二つ持って戻ってくる。
彼女はそれを机の上に置いた。
「これから、よろしくお願いします」
片桐は紙コップを見た。
それから、明里を見た。
「まだ、雇うとは言っていません」
「はい」
「試用期間です」
「はい」
「給料は、あまり出せません」
「はい」
「嫌になったら、すぐ辞めてください」
明里は首を横に振った。
「それは、その時に決めます」
「今、決めてください」
「嫌です」
片桐はもう一度、息を吐いた。
雨上がりの光が、窓から差し込んでいる。
「まずは、来客用に湯飲みかカップを用意しましょう」
「いりますか、それ」
「当然です」
「うすうす、そうかなって思ってました」
今度は、自分でも少し笑ったのが分かった。
明里も笑った。
机の上には、まだ片付いていない領収書があった。濡れた傘の匂いも、古い建物の湿った空気も残っている。
明里の昨日も、片桐の中に積もった誰かの昨日も、なかったことにはなっていない。
それでも、その日からしばらくして、事務所には湯呑みが二つ並ぶようになった。
そして、紙コップが潰れていたことを理由に、明里は本当に湯呑みを買ってきた。
白地に青い線が入った、どこにでもありそうな湯呑みだった。
「片桐さん」
「はい」
「これ、来客用です」
「分かりました」
「こっちは片桐さん用です」
「来客用と同じでは」
「同じですけど、片桐さんはたぶん来客用を自分で使います」
「使ってはいけないんですか」
「いけないというより、分けてください」
「分ける意味は?」
「気持ちです」
「気持ち」
「人間には、気持ちがあります」
「知っています」
「本当にですか?」
片桐は湯呑みを見た。
それから、明里を見た。
「努力します」
「そこは知っていてください」
明里は楽しそうに笑った。
紙コップしかなかった事務所に、湯呑みが二つ並んでいる。
片方は片桐のもの。
もう片方は、いつの間にか明里のものになっていた。
外では、雨上がりの街を路面電車が走っていた。
世界は何も変わっていない。
明里がなかったことにしなかった昨日も、片桐の中に積もった誰かの昨日も、そのまま残っている。
それでも、この事務所には、前より少しだけ人の気配が増えた。
湯呑みが二つ。
紙袋から出された布巾。
日付順に並んだ領収書。
そして、片桐が余計なことを言うたびに、明里がため息をつく音。
その音を、片桐は悪くないと思った。




