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零章 あのときのきみ①

短め連載ですが定期投稿します

夕方の紙屋町には、雨の匂いが残っていた。

降ったり止んだりを繰り返した雨が、路面電車の線路を黒く濡らしている。交差点を渡る人たちは傘を閉じたり開いたりしながら、どこか少しだけ急いでいた。

片桐亮介は、事務所のブラインドを半分だけ下ろした。

古い雑居ビルの二階。窓の外には、大通りから一本外れた細い道が見える。昼間はそれなりに人通りがあるが、夕方を過ぎると急に静かになる場所だった。

事務所内は殺風景で、必要なもの以外見当たらない。

来客用のカップすら、紙コップという始末だった。

机の上には、古いノートパソコンと、修理依頼のメモと、飲みかけの缶コーヒーがある。

便利屋と名乗ってはいるが、仕事の内容はばらばらだった。

棚の組み立て。網戸の張り替え。引っ越し前の荷物整理。犬の散歩。庭の草むしり。電球の交換。

そして、ごくたまに。

後悔を持て余した人間が来る。

ドアベルが鳴ったのは、片桐が缶コーヒーを捨てようと立ち上がった時だった。

ちりん、と乾いた音がした。

「まだ、やってますか」

ドアの隙間から、女が顔を出した。

三十代前半くらいだろうか。濡れた傘を片手に持っている。肩にかかる髪の先が、雨で少しだけ湿っていた。

薄いグレーのコート。黒いパンプス。小さな鞄。

特別目立つ格好ではない。

けれど、目だけがひどく疲れていた。

「どうぞ」

片桐は缶コーヒーを机の端に置き直した。

「依頼ですか」

「たぶん」

女はそう言ってから、自分の答えが変だと気づいたように、小さく笑った。

「すみません。依頼です」

「こちらへ」

片桐はソファを示した。

女は傘を入口の傘立てに入れ、遠慮がちに腰を下ろした。背筋は伸びているが、両手は膝の上で固く結ばれている。

片桐は向かいに座った。

「片桐です」

「瀬尾、です。瀬尾明里と申します」

「瀬尾さん。今日は、どういったご依頼で」

明里はすぐには答えなかった。

窓の外を、路面電車が通り過ぎる音がした。濡れた線路を車輪がこする音は、晴れた日よりも少し重く響く。

明里はその音が消えるまで待ってから、口を開いた。

「あの、ここって」

「はい」

「ひとつだけ、なかったことにできるって、聞いたんですけど」

片桐は頷いた。

「そういう依頼も、受けています」

明里の指が、膝の上で少し動いた。

「本当に、できるんですか」

「できます」

片桐は淡々と答えた。

驚かせる必要はない。期待させすぎる必要もない。

この手の依頼に必要なのは、奇跡の演出ではなく、最初の説明だった。

「ただし、過去を変えるわけではありません」

明里が顔を上げる。

「過去を、変えるわけじゃない?」

「はい。起きた事実は変わりません」

片桐は机の上に置いてあった白い紙を一枚取った。

契約書ではない。ただのメモ用紙だった。

「たとえば、昨日、誰かにひどいことを言ったとします」

明里の目が、わずかに揺れた。

片桐は気づいたが、触れなかった。

触れない方がいいことは分かる。

ただ、分かっていても、余計なことを言わないとは限らない。

「瀬尾さんの場合も、おそらくそれに近い内容ですね」

明里が瞬きをした。

「……どうして分かるんですか」

「目の動きが変わったので」

「そういうの、言わなくていいです」

「事実確認として」

「しなくていい事実確認もあります」

片桐は少し黙った。

「分かりました」

「たぶん、分かってませんよね」

「努力します」

「努力してください」

明里は少しだけ困ったように笑った。

さっきまでの張り詰めた表情が、ほんの少しだけほどけた。

片桐はメモ用紙を机に置き、説明に戻った。

「その言葉をなかったことにしても、昨日という日は消えません。会った事実も、連絡した履歴も、相手との距離も、残ります」

「じゃあ、何が変わるんですか」

「記憶の中にある意味です」

明里は黙って聞いていた。

「その一言のせいで全部壊れた。あの時の自分が間違えた。あれさえなければ。そういう、後悔として刺さっている部分だけが抜けます」

「忘れるってことですか」

「近いですが、完全に忘れるわけではありません」

片桐は少し考え、言葉を選んだ。

「思い出せなくなることもあります。別の意味に置き換わることもあります。自分の中で、大したことではなかったように感じることもある。相手や周囲の記憶も、それに合わせて辻褄を取ります」

「都合よく、ですか」

「都合よくとは限りません」

明里の眉がわずかに寄った。

「たとえば、喧嘩して別れたことをなかったことにした場合、喧嘩の記憶や、そのせいで別れたという後悔は薄れます。でも、別れた事実は残ります」

「……喧嘩してないのに、別れてることになるんですか」

「そうです」

「変ですね」

「変です。だから記憶は辻褄を合わせます」

「どういう風に」

「自然と距離が遠くなった。相性が悪かった。気づいたら終わっていた。そういう形になることが多いです」

明里は俯いた。

雨粒が窓ガラスに残っている。ブラインドの隙間から、外の光が細く差し込んでいた。

「じゃあ、元に戻してくれるわけじゃないんですね」

「はい」

片桐は頷いた。

「幸せにする力でもありません」

明里はゆっくり息を吐いた。

「後悔だけを、消すんですね」

「はい」

「それって、救いなんですか」

片桐は答えなかった。

救いだったこともある。

救いにならなかったこともある。

ただ、その人が、明日を迎えるために必要だったことはある。

「人によります」

片桐はそう答えた。

「依頼者が決めることです」

明里は小さく頷いた。

「料金は」

片桐は机の引き出しを開け、料金表を出した。

「先払いです」

「先払い」

「依頼後に、依頼した理由を忘れる可能性があるので」

明里はその説明に、少しだけ目を丸くした。

すぐに納得したように頷く。

「なるほど」

「それから、契約書にサインをいただきます。説明を受けたこと、事実は変わらないこと、望んだ結果になる保証はないこと。その確認です」

「ずいぶん現実的なんですね」

「便利屋なので」

片桐が言うと、明里はほんの少しだけ笑った。

それは初めて見せる、柔らかい表情だった。

けれど、すぐに消えた。

「私が、なかったことにしたいのは」

明里はそこで言葉を止めた。

言うべきか迷っている。

言えば楽になるかもしれない。けれど、言った瞬間に、それは誰かに渡ってしまう。

そういう顔だった。

片桐は待った。

明里は膝の上で手を握り直した。

「昨日のことです」

「はい」

「私が、言ったことです」

「誰かに?」

「はい」

明里はそれ以上、詳しく言わなかった。

片桐も聞かなかった。

依頼に必要なのは、内容のすべてではない。

どの出来事を、どの後悔を、なかったことにするのか。

それだけが分かればいい。

「その言葉を、なかったことにしたい」

「……はい」

「相手との関係は、戻らないかもしれません」

「分かっています」

「あなたが傷つけた事実も、傷ついた相手の現在も、変わりません」

「はい」

「ただ、あなたの中から、その言葉を言った後悔だけが抜ける」

明里は静かに頷いた。

片桐は契約書を取り出した。

その時だった。

「ひとつ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「本当にそれは、ただなくなってくれる、それだけなんですか」

片桐の手が止まった。

明里は、まっすぐこちらを見ていた。

よくある質問ではなかった。

依頼者の多くは、そこを聞かない。

聞けないのではない。考えないのだ。

自分の後悔で手一杯だから。

けれど、明里は違った。

片桐は机の上に置いた契約書の一文を、指でこつんと叩いた。

「消えるわけではありません」

「じゃあ」

「僕に残ります」

事務所が、少しだけ静かになった。

外の雨音も、電車の音も、遠くに退いたように感じた。

明里は瞬きをした。

「あなたに」

「はい」

「私が忘れたことを?」

「はい」

「私が後悔しなくなったことを?」

「はい」

「あなたが、覚えるんですか」

「そうです」

片桐は、できるだけ平坦に言った。

怖がらせるためではない。

ただ、必要な説明だった。

「だから、料金をいただいています」

「そういう問題じゃないです」

明里の声が、少し強くなった。

片桐は意外に思った。

ここで怒る依頼者は、初めてではない。けれど、その多くは「あなたに記憶を知られるのはリスクじゃないか、聞いていない」と、自分の依頼の不利益として怒る。

明里の怒りは、それとは違った。

「それ、あなたが全部覚えるんですか」

その声は、責めるというより、痛がっているようだった。

片桐は答えた。

「仕事ですから」

「仕事なら、痛くないんですか」

片桐は黙った。

明里も黙った。

窓の外で、車の水はねの音がした。

片桐は、こめかみに残る古い痛みを思い出した。

誰かの怒鳴り声。誰かの泣き声。誰かが閉めたドア。誰かが送らなかったメッセージ。誰かが手放した小さな手。

それらはもう、本人の中では薄れている。

けれど、片桐の中ではまだ、昨日のことのように残っている。

明里は契約書を見た。

料金表を見た。

それから、自分の手元を見た。

長い沈黙のあと、彼女は言った。

「やめます」

片桐は頷いた。

「分かりました」

止める理由はない。

依頼を受けることより、受けないことの方が正しい場合もある。

明里はバッグを持ち、立ち上がった。

「すみません。説明してもらったのに」

「構いません」

「料金は」

「まだ依頼前なので、不要です」

「そうですか」

明里は少し迷ってから、深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

「はい」

彼女は傘を取って、ドアへ向かった。

ドアベルが鳴る。

ちりん、と軽い音。

そのまま帰ると思った。

けれど、明里はドアの前で一度だけ振り返った。

「片桐さん」

「はい」

「今まで、何人分くらい覚えてるんですか」

片桐は答えなかった。

明里も、それ以上は聞かなかった。

「……そうですか」

気を抜くと聞き逃してしまいそうな小さい声で、彼女は呟いた。

そして、雨の残る夕方の中へ出ていった。

ドアが閉まる。

事務所には、湿った空気だけが残った。

片桐はしばらく、机の上の契約書を見ていた。

サインのない紙。

空白のままの氏名欄。

瀬尾明里。

その名前は、どこにも残らなかった。

残らないはずだった。


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