幕間 次の仕事
瀬尾明里は、求人サイトを眺めていた。
画面には、事務職、受付、経理補助、一般事務、営業アシスタントという文字が並んでいる。
どれも、できなくはなさそうだった。
けれど、どれも、自分がそこに座っているところをうまく想像できなかった。
テーブルの上には、マグカップがひとつ。
白地に青い線が入った、安いマグカップだった。
昨日、帰り道に買った。
本当は、買うつもりはなかった。
ただ、店先で見かけて、なぜか手に取ってしまった。
「…似てる」
何に似ているのかは、よく分からなかった。
明里は画面を閉じ、椅子の背にもたれた。
片桐亮介。
デリカシーがない人だった。
女性に「少し太った?」などと平気で言う人だった。
領収書を工具箱やペン立ての下に紛れ込ませる人だった。
お茶請けを頼むと、世界をせんべいで埋めようとする人だった。
濡れていると指摘すると、「雨だから」と返す人だった。
そして、急に首にする人だった。
「最低じゃん」
明里は小さく呟いた。
最低な人だった。
そう思うのが、一番簡単だった。
デリカシーもない。
お金もないらしい。
説明も下手。
人の気持ちも分かっていない。
最低な人だった。
そう思えば、腹も立つ。
腹が立てば、忘れやすい。
次の仕事を探せばいい。
普通に働けばいい。
普通に朝起きて、普通に電車に乗って、普通に給料をもらえばいい。
それだけのことだ。
けれど。
「本当に、お金なかったっけ」
明里は、ふと呟いた。
事務所には金庫があった。
封筒もあった。
日付を書いて、名前を書いて、しまっていた気がする。
何の封筒だっただろう。
普通の便利屋仕事で、あんなに丁寧に封筒を分ける必要があるだろうか。
契約書もあった。
説明を受けたこと。
事実は変わらないこと。
望んだ結果になる保証はないこと。
「……何の契約書?」
明里は眉を寄せた。
思い出そうとして、仕事の契約書だったのだろう、と納得してしまう。
明里はマグカップを手に取った。
お茶はもう冷めていた。
片桐の事務所には、湯呑みが二つあった。
片方は片桐のもの。
もう片方は、自分のものだった。
自分のもの。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
「あの人が、そんな嘘つくわけないし」
明里は自分に言い聞かせるように呟いた。
運営が厳しい。
人を雇う余裕がない。
そう言っていた。
なら、そうなのだろう。
片桐は嘘が下手だった。
下手すぎて、腹が立つほどだった。
けれど、悪意のある嘘をつく人には見えなかった。
じゃあ、どうして。
何かあったのだろうか。
そう考えた瞬間、明里は首を振った。
「駄目駄目」
もう関係ない。
首になったのだ。
試用期間は終わった。
自分は次の仕事を探さなければならない。
明里はノートを開いた。
求人の条件を書き出そうとして、ペンを止めた。
白いページの隅に、なぜか先に文字を書いていた。
余計なことを言う前に、三秒待つ。
明里は、その文字を見つめた。
「…」
字を見ていると、少しだけ腹が立って、少しだけ懐かしくなった。
明里はページを破ろうとして、やめた。
ノートを閉じる。
窓の外では、雨上がりの道路を車が走っている。
遠くから、路面電車の音が聞こえた気がした。
ここから紙屋町は、少し離れている。
それでも、その音を知っている気がした。
明里は求人サイトをもう一度開いた。
「私は次の仕事、探さなきゃな」
声に出して言うと、少しだけ現実になった。
画面の中の求人一覧を、明里はゆっくり下へ送った。
けれど、指は何度も止まった。
白地に青い線の入ったマグカップを見ていると、胸の奥が落ち着かなかった。
明里は、小さく息を吐いた。
「最低な人だった」
もう一度、そう言ってみた。
今度は、少しだけ声が弱かった。




