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六章 なかったこと③

明里が瞬きをした。

「……あれ」

その声は、さっきまでと違っていた。

明里は事務所の中を見回した。

片桐。

机。

金庫。

契約書の棚。

湯呑み。

透明なファイル。

何も変わっていない。

けれど、明里の目の奥から、ひとつの灯りが消えていた。

「私、何を……」

明里は眉を寄せた。

「片桐さん」

「うん」

「今、何の話してましたっけ」

「仕事の話」

「仕事」

「うん」

「私、何か怒ってました?」

「少し」

「そうですか」

明里は自分の手元を見た。

青いファイルにしまいかけた領収書。

机の上の予定表。

金庫の横に置かれた封筒の束。

「これ」

明里は金庫を見た。

「この封筒って、何でしたっけ」

「古い依頼のもの」

「私が管理してたんですよね」

「うん」

「便利屋の依頼料って、金庫に入れるんでしたっけ」

片桐は答えるのに、少しだけ間が空いた。

「高額なものもあるから」

「そう、でしたっけ」

「うん」

明里は首を傾げた。

納得していない顔だった。

けれど、何に納得していないのか、自分でも分かっていないようだった。

「私、少し疲れてるのかもしれません」

「そうだね」

「片桐さんに言われると、腹立ちますね」

「ごめん」

「いえ、事実かもしれないので」

明里は小さく息を吐いた。

「今日は、帰ります」

「送るよ」

「大丈夫です」

「送る」

「……はい」

明里は素直に頷いた。

それが、片桐にはつらかった。

事務所の電気を消す。

鍵をかける。

二人で階段を下りる。

雨は、まだ細く降っていた。

片桐は明里を家の近くまで送った。

道中、明里はほとんど話さなかった。

ときどき何かを言いかけて、やめる。

自分の中の空白を確かめるように、歩いていた。

別れ際、明里は振り返った。

「片桐さん」

「うん」

「石田さんって、なんであんなに怖いんでしょう」

「……」

「変なこと聞いてますよね」

「いや」

「怖かったのは覚えてるんです。でも、何がそんなに怖かったのか、うまく思い出せなくて」

片桐は何も言えなかった。

明里は困ったように笑った。

「疲れてますね、私」

「そうかもしれない」

「じゃあ、今日は寝ます」

「うん」

「明日、行きますね」

「……うん」

明里は小さく頭を下げて、雨の中を歩いていった。

片桐は、その背中が見えなくなるまで立っていた。


翌朝。

事務所には、薄い光が差していた。

雨は上がっていたが、窓の外の線路はまだ濡れている。

路面電車の音が、いつもより硬く響いた。

明里はいつも通りに来た。

「おはようございます」

「おはよう」

彼女は鞄を置き、湯呑みを二つ並べた。

片方は片桐のもの。

もう片方は、明里のもの。

「今日は午前中、雨樋の確認でしたよね」

「うん」

「午後は」

「明里ちゃん」

片桐が呼ぶと、明里は予定表から顔を上げた。

「はい」

「ちょっと、ここ座って」

「どうしましたか」

明里は不思議そうにしながら、ソファへ腰を下ろした。

「昨日のことですか」

「……」

「片桐さん、昨日からずっと変です。石田さんのこと、まだ何か」

片桐は、そっと目を閉じた。

明里が、石田宗一郎と会ったこと。

あの男がこの事務所に来たこと。

良い職場だといいですね、と言われたこと。

長く続けられる職場は、貴重ですから、と言われたこと。

その言葉に、明里が怖がったこと。

それでも、明日も来ると言ったこと。

それを、なかったことにする。


昨日ほど強い痛みではなかった。

けれど、鈍く重い痛みが、こめかみの奥で広がった。

石田の声が、片桐の中へ沈む。

明里が感じた冷たさが、片桐の中へ沈む。

彼女が握りしめた手の感覚。

怒り。

怖さ。

それでも残ると決めた、細い意志。

それらが、明里の中から抜けていく。

残るものだけが、形を変えていく。


あの日、事務所に嫌な来客があった。

片桐が、珍しく固い顔をしていた。

電話が増えた。

仕事がいくつか流れた。

管理会社から、妙に丁寧な確認が入った。


それだけが残る。

石田宗一郎という男の声は、明里の中で輪郭を失っていく。

良い職場ですね、という言葉も。

長く続けられる職場は、貴重ですから、という言葉も。

夜道を怖いと思った理由も。

それでも明日も来ると決めた、自分の声も。

ただ、片桐が何かを隠している、という感触だけが残った。

名前のない不安。

理由のない腹立たしさ。

言いかけた言葉を、どこかに置き忘れたような違和感。

それだけが、明里の中に残った。


数秒後、明里が瞬きをした。

「あれ」

彼女はソファに座ったまま、事務所を見回した。

「私、何か…」

「明里ちゃん」

「はい」

「話がある」

明里の表情が、少しだけ固まった。

「何ですか」

片桐は、明里を見た。

今ならまだ、やめられると思った。

能力を知っていたことは、もう消した。

石田と会ったことも、もう消した。

明里の中にある危険は、ほとんど抜いた。

ここで何も言わなければ。

このまま雇い続ければ。

彼女はまた、事務所に通ってくるだろう。

湯呑みを二つ並べて、領収書を整理して、片桐の失言に眉を吊り上げるだろう。

そして、石田宗一郎はまた来る。

片桐は口を開いた。

「今日で、終わりにしたい」

「何をですか」

「ここで働いてもらうこと」

明里は、すぐには答えなかった。

湯呑みから、薄い湯気が上がっている。

「……急ですね」

「うん」

「理由を聞いてもいいですか」

「運営が厳しい」

「運営」

「人を雇う余裕がない」

「給料、ほとんどもらってませんけど」

「それでも」

「試用期間だから、ですか」

「うん」

片桐は明里を見なかった。

見たら、言えなくなる気がした。

「片桐さん」

「うん」

「本当に、お金が理由ですか」

片桐は答えた。

「そう」

明里は、机の上を見た。

金庫。

封筒。

契約書。

青いファイル。

予定表。

「そう、ですか」

声は静かだった。

怒っているのか、傷ついているのか、片桐には分からなかった。

たぶん、どちらもだった。

「私、何かしましたか」

「してない」

「じゃあ、どうして」

「運営が厳しい」

「それ、さっき聞きました」

「うん」

明里は唇を引き結んだ。

「片桐さん」

「うん」

「そういうところ、本当に駄目です」

「……」

「理由を一つしか言わないところ。しかも、たぶん半分くらいしか本当じゃないところ」

「本当だよ」

「嘘が下手です」

片桐は黙った。

明里は鞄を手に取った。

けれど、すぐには帰らなかった。

「でも、片桐さんがそう言うなら、分かりました」

「ごめん」

「謝られると、余計に腹が立ちます」

「ごめん」

「だから」

明里はそこで言葉を止めた。

事務所の中を見回す。

古い机。

色褪せたソファ。

ブラインド。

金庫。

湯呑み。

観葉植物。

「私の湯呑み」

「……」

「置いていっていいですか」

「持っていってもいい」

「置いていきます」

明里はそう言った。

「来客用にでもしてください」

「分かった」

「でも、片桐さんは使わないでください」

「どうして」

「気持ちです」

「気持ち」

「人間には、気持ちがあります」

「知ってる」

「本当にですか」

片桐は答えられなかった。

明里は少しだけ笑った。

笑った顔は、泣くのを我慢しているようにも見えた。

「努力してください」

それだけ言って、明里は頭を下げた。

「お世話になりました」

片桐は何も言えなかった。

ドアベルが鳴った。

ちりん。

明里が出ていく。

ドアが閉まる。

事務所には、湯呑みが二つ残った。

片方は片桐のもの。

もう片方は、明里のものだった。

片桐はしばらく、それを見ていた。

外では、路面電車が濡れた線路の上を走っていく。

世界は何も変わらない。

石田宗一郎に脅されたことも。

明里が片桐の力を知っていたことも。

それを片桐が勝手になかったことにしたことも。

石田と会った記憶まで奪ったことも。

明里を首にしたことも。

すべて、残っている。

明里の中には、もう同じ形では残っていない。

けれど、片桐の中には残っている。

彼女が怒った顔も。

心配した声も。

湯呑みを二つ並べた手も。

全部。


その日から、事務所には湯呑みが二つ並ばなくなった。

片桐は、明里の湯呑みを棚の奥にしまった。

捨てることは、できなかった。

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