終章 ひとつだけ①
明里が去ってから、二年が経った。
便利屋片桐は、もう紙屋町にはない。
古い雑居ビルの三階。
雨の日になると湿った匂いのする階段。
窓の外を路面電車が通るたび、少しだけガラスが震える事務所。
そこに掛かっていた看板は、ある日、ひっそり外された。
今、片桐亮介がいるのは、宇品へ向かう通り沿いの小さなビルの二階だった。
窓を開けると、少しだけ潮の匂いがする。
紙屋町ほど人通りは多くない。
夕方になると、港の方へ向かう車の音が遠くに聞こえる。
新しい事務所の入口には、白い看板が掛かっていた。
便利屋ラリアット。
片桐は、その看板を見るたびに少しだけ後悔している。
プロレスが特別好きなわけではない。
前の名前を使う気になれなかった。
けれど、あまり深く考えずに変えるのもよくないと思った。
強そうだから。
そう思って決めた。
看板屋に文字を入れてもらった時点で、少し嫌な予感はしていた。
実際に壁に掛けてみると、思っていたよりも攻撃的だった。
しかし、外すのも面倒だった。
片桐は、そういうものをこの二年でいくつも増やした。
事務所の中には、机が一つ。
ソファが一つ。
工具棚が一つ。
金庫が一つ。
湯呑みは、一つだけ机に出ている。
もう一つは、棚の奥にしまってあった。
白地に、青い線の入った湯呑み。
瀬尾明里が置いていったものだった。
来客用にでもしてください。
でも、片桐さんは使わないでください。
気持ちです。
あの日の声は、今でも片桐の中に残っている。
何もなかったことには、なっていない。
その日、片桐は古いラジオを修理していた。
近所の老人から預かったものだった。
もう音が鳴らないが、亡くなった妻が使っていたものだから、直せるなら直してほしいという。
普通の便利屋仕事だった。
片桐は、小さなネジを外しながら、ラジオの裏蓋を開けた。
細かな埃がついている。
古い部品の匂いがした。
普通の仕事だけをしている時間は、まだ息がしやすかった。
誰かの昨日を預からなくていい。
誰かの後悔が、自分の中へ流れ込んでこない。
その代わり、事務所は静かだった。
予定表の隅に「昼食」と書く人間はいない。
領収書を青いファイルにしまう人間もいない。
濡れてます、タオル使ってください、と怒る人間もいない。
片桐は、ラジオの基板を覗き込んだ。
「…これは、買い替えた方が早いな」
そう呟いてから、顔をしかめた。
明里がいれば、たぶん怒る。
思い出のある物に、早いとか遅いとか言わないでください。
そういうところです。
余計なことを言う前に、三秒待ってください。
片桐はドライバーを置いた。
一秒。
二秒。
三秒。
「…直せるところまで、見るか」
誰も返事をしなかった。
その時、ドアベルが鳴った。
ちりん。
前の事務所から持ってきた古いベルだった。
少し軽い音がする。
新しい事務所には合っていない。
けれど、替えられなかった。
「はい」
片桐は顔を上げた。
入口に、一人の女性が立っていた。
薄いベージュのカーディガン。
肩にかかるくらいの髪。
手には小さな鞄を持っている。
片桐は、ドライバーを持ったまま固まった。
女性は入口で立ち止まり、まず看板の方を振り返った。
それから、事務所の中を見た。
机。
ソファ。
工具棚。
金庫。
古いベル。
片桐。
その女性、瀬尾明里は、目を丸くした。
「…あれ?」
片桐は答えられなかった。
「片桐さん?」
「…うん」
「え、何してるんですか」
「仕事」
「いや、それは見れば分かりますけど」
明里はもう一度、入口の外を見た。
「便利屋ラリアット?」
「うん」
「片桐さん、プロレスラーだったんですか?」
「違う」
「ですよね」
明里は眉を寄せた。
「じゃあ、何でラリアットなんですか」
「強そうだから」
「二年ぶりに会って最初に言うのも何ですけど」
「うん」
「そういうところ、本当に駄目です」
片桐は、何も言えなかった。
その言い方が、あまりにも昔のままだったからだ。
明里は事務所の中へ一歩入った。
どこか警戒して室内に目を走らせている。
「ここ、片桐さんの事務所ですよね」
「うん」
「やっぱり。工具箱から領収書がこんにちはしてるから、そうかと思って」
「相変わらず、手厳しいね」
「移転したんですか」
「二年前に」
「そうですか」
明里は小さく息を吐いた。
「びっくりしました。変な名前の便利屋だなと思って来たら、片桐さんがいるので」
「変な名前」
「変です」
「そうかな」
「変です」
明里はきっぱり言った。
片桐は、ドライバーを机に置いた。
「今日は、普通の依頼?」
「あ、はい」
明里は少しだけ姿勢を正した。
「普通じゃないかもしれません」
片桐の胸の奥が、わずかに沈んだ。
「普通じゃない」
「はい」
明里は鞄の持ち手を握った。
「ここで、ひとつだけ、なかったことにできるって聞いたんです」
片桐は黙った。
窓の外を、路面電車が通り過ぎていく。
線路の音が、部屋の中まで細く届いた。
「誰から聞いたの」
「知人です。詳しくは言えないんですけど」
「そう」
「半信半疑でした。でも、住所を聞いたらここで」
明里は困ったように笑った。
「まさか、片桐さんがいるとは思いませんでした」
「僕も、来るとは思わなかった」
「ですよね」
明里は、ソファを見る。
「座ってもいいですか」
「もちろん」
明里はソファに腰を下ろした。
座る前に、事務所の中をもう一度見た。
「前の事務所と、少し似てますね」
「物を持ってきたから」
「ベルも?」
「うん」
「湯呑みも?」
「……うん」
片桐は立ち上がった。
「お茶を淹れます」
「あ、いえ、お構いなく」
「熱すぎないようにする」
「……」
明里が、少しだけ目を細めた。
「聞いたことがある気がします、それ」
「何が」
「熱すぎない方がいいとか」
片桐は答えに詰まった。
「誰にでもそうしてる」
「そうですか」
明里は納得したような顔をした。
けれど、完全には納得していないようにも見えた。
片桐は給湯室へ向かった。
湯呑みは一つしか出ていない。
もう一つは、棚の奥だった。
白地に青い線の入った湯呑み。
片桐は、しばらくそれを見つめた。
来客用にでもしてください。
でも、片桐さんは使わないでください。
片桐は湯呑みを取り出した。
二年分の埃は、それほどなかった。
時々、出して拭いていたからだ。
布巾で丁寧に拭き、お茶を淹れる。
少し冷ます。
湯呑みを二つ並べて戻ると、明里は机の上を見ていた。
片桐の湯呑み。
明里の湯呑み。
明里の視線が、そこで止まった。
「これ」
「うん」
「私のですね」
「君が置いていった」
「ちゃんと、残してたんですね」
明里は湯呑みにそっと触れた。
熱すぎない温度だった。
「使っていいんですか」
「君のだから」
「…そういうこと、さらっと言うんですね」
「駄目だった?」
「駄目ではないです」
明里は湯呑みを両手で包んだ。
「でも、なんか、変です」
「何が」
「懐かしい感じがします」
片桐は向かいに座った。
「今日は、何をなかったことにしたいんですか」
その言葉は、思っていたより自然に出た。
自然に出てしまったことが、片桐には少しつらかった。
明里は湯呑みを置いた。
「昨日、言いすぎたんです」
「誰に」
「今の職場の上司に」
「はい」
「事務の仕事をしてるんです。悪い職場じゃありません。人間関係も、そこまで悪くないです。給料も普通ですし、前よりちゃんとしてます」
「前より」
「…片桐さんのところより、という意味です」
「そうだね」
「そこは反論してください」
「ごめん」
「本当にそういうところです」
明里は小さく息を吐いた。
「でも、ずっと落ち着かないんです。何をしてても、ここじゃない気がして。なのに、どこならいいのか分からなくて」
「うん」
「昨日、それを上司にぶつけました」
「何て」
「私、ここにいる意味ありますか、って」
明里は苦笑した。
「相手は困ってました。当たり前ですよね。意味なんて、自分で探すものなのに」
「それを、なかったことにしたい」
「そう思って来ました」
明里は、湯呑みの中を見た。
「でも、相手が片桐さんだったら、話が変わります」
「どう変わるの」
「分かりません」
明里は正直に言った。
「私、片桐さんのこと、最低だと思ってました」
「うん」
「急に首にされたので」
「うん」
「運営が厳しいって言われました」
「うん」
「でも、たぶん、嘘でしたよね」
片桐は答えなかった。
明里は顔を上げた。
「片桐さん、嘘が下手なので」
「よく言われた」
「誰にですか」
「君に」
明里は、少しだけ黙った。
「そういう会話、した気がします」
「うん」
「でも、よく思い出せません」
「……」
「私は片桐さんのことを覚えてます。ここで働いていたことも、首になったことも覚えてます。デリカシーがなくて、領収書をすぐなくして、お茶請けを任せるとせんべいばかり買ってくる人だったことも覚えてます」
「ひどい記憶だね」
「事実です」
「うん」
「でも」
明里は、机の上の湯呑みを見た。
「何か、足りない気がするんです」
片桐は静かに目を伏せた。




