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ひとつだけ 〜後悔を消す便利屋と、依頼しなかった助手の話〜  作者: 八汐


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17/23

幕間 静かな圧力

最初に変だったのは、電話だった。

翌日の午前中。

明里が領収書を整理していると、事務所の電話が鳴った。

「はい、便利屋片桐です」

電話の相手は、以前から何度か依頼をくれている老夫婦だった。

今週末に、物置の整理を頼まれていた。

「ああ、瀬尾さん?すみませんねえ。今度の物置の件なんだけど、いったん取り消しでお願いします」

明里はペンを止めた。

「取り消し、ですか」

「ええ。ちょっと家族と相談してね」

「日程変更でも大丈夫ですよ」

「ああ、いや。今回は、いいです」

声は申し訳なさそうだった。

けれど、どこか急いでいた。

「何か、不備がありましたか」

「いやいや。片桐さんにはいつも良くしてもらってるんだけどね。ただ、ほら、最近は色々うるさいから」

「色々」

「うん。まあ、また何かあったらお願いします」

電話は切れた。

明里は受話器を置いた。

しばらく、予定表を見つめる。

物置整理。

赤ペンで書いた予定に、斜線を引く。

「片桐さん」

「うん」

「物置整理、キャンセルです」

「そう」

「理由、なんだと思います?」

「解らないな」

「最近は色々うるさいから、だそうです」

「そう」

片桐は机の上の工具を見ていた。

「偶然でしょうか」

「偶然だといいね」

明里はその返事が嫌だった。

でも、怒る言葉がすぐには出てこなかった。

その日の昼過ぎには、ビルの管理会社から電話が来た。

消防設備の点検。

共用部分の荷物。

契約上の使用目的。

事務所への来客頻度。

これまで一度も聞かれたことのない確認が、急にいくつも並んだ。

「確認ですので」

管理会社の担当者は、何度もそう言った。

「念のためです」

「最近、指導が厳しくなっていまして」

明里はメモを取りながら、指先が冷たくなるのを感じた。

夕方には、市役所の窓口から折り返しの電話が来た。

以前、片桐が問い合わせた不用品回収の件について、追加で確認したいことがあるという。

収集運搬にあたるかどうか。

処分費用の受け取り方。

依頼者の所有物の扱い。

業務範囲。

電話の内容自体は、どれも間違ってはいなかった。

正しい確認だった。

ただ、その正しさが、やけに重かった。

明里は受話器を置いた。

「片桐さん」

「うん」

「これ、偶然ですか」

「偶然が続く日もある」

「偶然って、便利な言葉ですね」

「うん」

「怒ってます」

「僕に?」

「はい」

明里は予定表を机に置いた。

キャンセルの斜線が、一本増えている。

「どうするんですか」

「普通に仕事をする」

「それだけですか」

「それだけ」

「本当に?」

「今できるのは、それだけ」

片桐の声は落ち着いていた。

けれど、明里には分かった。

片桐は平気ではない。

湯呑みに手を伸ばした指が、ほんの少しだけ止まっていた。

「片桐さん」

「うん」

「私、明日も来ますからね」

「まだ何も言ってない」

「言いそうな顔してました」

「そうかな」

「そうです」

明里はきっぱりと言った。

「危ないから来るな、とか。人件費がどうとか。そういうこと、絶対言わないでください」

「人件費は実際」

「言わないでください」

「はい」

片桐は素直に頷いた。

「石田さん、怖いです」

明里は正直に言った。

「それは、昨日も聞いた」

「今日も怖いです」

「…うん」

「でも、怖いから来ない、にはなりません」

片桐は何も言わなかった。

「怖いから、片桐さんのこともちゃんと見てます」

「僕を?」

「はい」

明里は机の上の領収書をまとめた。

「片桐さん、すぐ自分だけでどうにかしようとしますから」

「そうかな」

「そうです」

「明里ちゃんは厳しいね」

「心配してるんです」

片桐は、その言葉に返事をしなかった。

明里は少しだけ声を落とした。

「それに」

「うん」

「私がいないと、片桐さん、領収書をなくします」

「そこ?」

「大事な事です」

「命綱みたいだね」

「そうです。片桐さんの社会性の命綱です」

「重い」

「重く受け止めてください」

片桐は少しだけ笑った。

明里も、少しだけ笑った。

笑えたことに、ほっとした。

外では、雨が上がりかけていた。

濡れた線路の上を、路面電車がゆっくり走っていく。

車輪の音が、夕方の街に細く伸びていった。

世界は何も変わっていない。

石田宗一郎が来たことも。

近藤史郎という記者が何かを知ったことも。

机の上に置かれかけた厚い封筒も。

市役所からの電話も。

キャンセルされた予定も。

すべて、残っている。

なかったことには、ならない。

ただ、その日から片桐は、事務所のブラインドを半分ではなく、全部下ろすようになった。

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