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六章 なかったこと①

雨は、夕方になっても止まなかった。

紙屋町から少し離れた住宅街で、片桐亮介は段ボールの束を軽トラックの荷台に積み終えた。

依頼主は、古い一軒家に住む老夫婦だった。

押し入れの奥にしまい込まれていた本や衣類、使わなくなった食器を、処分するものと残すものに分けるだけの仕事だった。

普通の便利屋仕事。

それは、片桐にとってずいぶん分かりやすい仕事だった。

誰かの昨日を預かる必要がない。

誰かの泣き声も、怒鳴り声も、言えなかった言葉も、頭の奥に沈んでこない。

段ボールは重い。

古い本も重い。

けれど、重さが手の中にあるものだけで済む仕事は、まだ扱いやすかった。

「片桐さん、ありがとうねえ」

依頼主の老婦人が、玄関先で何度も頭を下げた。

「助かりました。うちの人じゃ、もう腰がね」

「無理をすると危ないので」

「あ、これ、お茶でも」

老婦人が封筒を出そうとしたので、片桐は首を横に振った。

「料金はいただいています」

「いいのよ、少しだけ」

「お気持ちだけで」

「そう?じゃあ、また何かあったらお願いするわね」

「はい」

片桐は軽トラックのドアを閉めた。

雨は細かい。

作業着の肩に、じわじわと染み込んでくる。

空は暗く、夕方というより夜の始まりに近かった。

明里なら、戻ったらすぐに言うだろう。

濡れてます。

タオル使ってください。

領収書は。

作業着、ちゃんと干してください。

あと、お昼ちゃんと食べました?

その声を思い浮かべて、片桐は少しだけ息を吐いた。

今日、明里は事務所に残っている。

石田宗一郎が来てから、普通の仕事に明里を連れていくことが減った。

明里は不満そうだった。

けれど、何も言わなかった。

言わない代わりに、朝からずっと怒っていた。

片桐はエンジンをかけようとして、手を止めた。

前方の道に、黒い車が停まっていた。

住宅街には似合わない車だった。

磨かれた黒い車体。雨粒を弾く窓。ライトはついていない。

けれど、こちらを待っていたことは分かった。

後部座席のドアが、静かに開いた。

中から、先日の秘書が降りてきた。

黒い傘を差している。

「片桐さん」

秘書は丁寧に頭を下げた。

「少し、お時間をいただけますか」

「仕事の帰りです」

「承知しております」

「事務所に戻るところです」

「先生がお待ちです」

片桐は黒い車を見た。

後部座席の中は暗く、顔は見えない。

けれど、そこに誰がいるのかは聞くまでもなかった。

「断ったはずですが」

「依頼の話ではありません」

「では、何の話ですか」

「今後の話です」

秘書は傘を傾けた。

「雨も降っています。どうぞ」

片桐はしばらく黙っていた。

軽トラックの荷台には、処分場へ運ぶ段ボールが積まれている。

事務所には、明里がいる。

片桐は軽トラックの鍵を抜いた。

黒い車の後部座席に乗り込むと、革の匂いがした。

雨の匂いは、ドアが閉まるとすぐに消えた。

隣に、石田宗一郎が座っていた。

濃紺のスーツ。

落ち着いた色のネクタイ。

膝の上には薄い書類封筒が置かれている。

石田は、前を見たまま言った。

「お疲れのところ、すみませんね」

「本当に思っていますか」

「ええ。便利屋の仕事は体力がいるでしょう」

「そうですね」

「段ボールの運び出しでしたか」

「調べたんですか」

「町のことを知るのが仕事です」

車がゆっくり動き出した。

片桐は窓の外を見た。

知らない住宅街が、雨に濡れながら後ろへ流れていく。

「どこへ行くんですか」

「少し走るだけです」

「降ろしてください」

「話が終わったら」

石田は静かに笑った。

「そう怖い顔をしないでください。私は怒っているわけではありません」

「では、何を」

「残念に思っているんです」

車内は静かだった。

雨が窓を叩く音も、外よりずっと遠い。

「あなたは、あの力をどう考えていますか」

「仕事です」

「便利な答えだ」

「便利屋なので」

「そういうところは、嫌いではありません」

石田は前を向いたまま続けた。

「人は、事実で壊れるわけではない。事実に与えた意味で壊れる。あなたはそれをよく知っている」

「知っているつもりです」

「ならば、私の依頼がどれほど現実的なものかも分かるでしょう」

「分かりません」

「分かっているはずです」

石田の声は、事務所で聞いた時よりも低かった。

「近藤君が何かを知った。その意味を消すだけでいい。事実は残っても構わない。資料を見たことも、誰かに会ったことも、すべて残っていい。ただ、彼がそれを記事にする価値があると感じなくなればいい」

「それで、近藤さんから何が残るんですか」

「記憶は残るでしょう」

「意味を奪うんでしょう」

「あなたは、ずいぶん言葉にこだわる」

「仕事なので」

「その仕事を、私は頼んでいるんです」

片桐は黙っていた。

「それで、誰が傷つきますか」

「近藤さんです」

「彼は忘れるだけです」

「違います」

「何が違う?」

「自分が知ったことの重さを奪われる」

「それで救われる人間もいます」

「あなたが救われる」

「私だけではありません」

石田はそこで初めて片桐を見た。

「政治は、一人でやるものではありません。秘書がいる。支援者がいる。家族がいる。関係者がいる。私一人の問題では済まない」

「なら、最初からしなければよかった」

「正論ですね」

「はい」

「正論は、人を守るには細すぎる」

車は大通りへ出た。

濡れた車道に、信号の赤が滲んでいる。

路面電車の線路が、雨に黒く光っていた。

「片桐さん」

「はい」

「あなたにも、守りたいものがあるでしょう」

片桐は答えなかった。

「事務所」

「……」

「仕事」

「……」

「町での信用」

「……」

「それから」

石田はほんの少しだけ間を置いた。

「瀬尾明里さん」

片桐の指が、膝の上で止まった。

石田はそれを見逃さなかった。

「いい助手ですね」

「彼女は関係ありません」

「関係がない人間ほど、巻き込まれると弱い」

「脅しですか」

「心配です」

石田は穏やかに言った。

「最近、この辺りは物騒ですからね」

片桐は石田を見た。

石田の表情は変わらない。

笑っているようにも見える。

何も言っていないようにも見える。

「従業員、可愛い子だね」

石田は窓の外へ視線を戻した。

「夜道、暗いから気をつけないとね」

車内の空気が止まった。

片桐は、拳を握った。

強く握りすぎて、爪が掌に食い込んだ。

「石田さん」

「はい」

「それ以上言うなら」

「何をしますか」

石田は静かに尋ねた。

「殴りますか」

「……」

「警察に言いますか」

「……」

「それとも、私の記憶をなかったことにしますか」

片桐は答えなかった。

石田は少しだけ笑った。

「できないでしょう。あなたは、そういう使い方をしない」

「……」

「だから私は、あなたを評価しています」

「ふざけるな」

「ふざけてはいません」

石田の声から、笑みが消えた。

「片桐さん。私はあなたを敵に回したいわけではありません。できれば、手を組みたい」

「断ります」

「でしょうね」

石田は封筒を軽く叩いた。

「近藤君の記事は、まだ出ていません。出れば、厄介なことになる。こちらも手を打たざるを得ない」

「勝手にすればいい」

「しますよ」

車が静かに止まった。

見覚えのある通りだった。

事務所のある雑居ビルから、二本ほど離れた道。

雨の向こうに、紙屋町の灯りが滲んでいた。

「降りていただいて結構です」

「話は終わりですか」

「ええ」

石田は前を向いたまま言った。

「ただ、覚えておいてください」

「何を」

「人は、正しいことをしたからといって、大切なものを守れるわけではありません」

片桐はドアに手をかけた。

「それから」

「まだ何か」

「瀬尾さんは、あなたの力を知っている」

片桐は動きを止めた。

「彼女は、あなたの弱点です」

「……」

「同時に、あなたの秘密を知る人間でもある」

石田は穏やかに続けた。

「世の中には、知っているだけで危ないことがあります」

「あなたが危なくしている」

「そうとも言えます」

石田は否定しなかった。

「では」

ドアのロックが外れた。

片桐は車を降りた。

冷たい雨が、すぐに肩へ落ちてきた。

黒い車は、音もなく走り去った。

尾灯の赤が、雨の中で小さくなっていく。

片桐はしばらく、その場に立っていた。

石田の声が耳に残っている。

従業員、可愛い子だね。

夜道、暗いから気をつけないとね。

片桐は拳を開いた。

掌に爪の跡が残っていた。


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