五章 政治家の男②
「ひとつだけ、なかったことにできる。そう聞きました」
「そういう依頼も受けています」
「本当にできるのですか」
「できます」
片桐はいつもと同じように答えた。
「ただし、過去を変えるわけではありません。起きた事実も、残った結果も変わりません」
「承知しています」
石田はすぐに言った。
片桐の目が、わずかに細くなった。
「ご存じなんですね」
「多少は調べましたから」
明里は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
調べた。
その一言が、妙に重かった。
「なかったことにできるのは、その出来事が人の中でどう意味づけられているか。後悔として刺さっている部分だけが抜ける。そういう理解で合っていますか」
石田は、片桐の説明をなぞるように言った。
片桐はすぐには答えなかった。
「だいたいは」
「素晴らしい力だ」
「便利とは限りません」
「便利ですよ」
石田は静かに笑った。
「人間というものは、事実よりも意味で動きますからね」
事務所の外で、車が水を跳ねる音がした。
「今日は、何をなかったことにしたいんですか」
片桐が尋ねた。
石田は背もたれに軽く寄りかかった。
「昨日、ある男と会いました」
「はい」
「新聞記者です。近藤史郎という」
明里は、その名前にも聞き覚えがあった。
地元紙で、政治や行政の記事を書いている記者だったはずだ。
「近藤さんと会ったことを、なかったことにしたい」
「正確には」
石田は指先を軽く組んだ。
「彼が、知る必要のないことを知ってしまった。そのことを、なかったことにしたい」
「知る必要のないこと」
「世の中には、出さなくていい話があります」
片桐は黙っていた。
「誰も幸せにならない話です。騒ぎになれば、関係のない人間まで傷つく。支援者も、職員も、家族もね」
「何を知ったんですか」
石田は少しだけ口角を上げた。
「それを聞く必要がありますか」
「あります」
「あなたの仕事に必要なのは、何をなかったことにするかだけでは?」
「何を消そうとしているのかは、確認します」
石田は、初めて笑みを薄くした。
「慎重なんですね」
「仕事なので」
「いいことです」
石田は視線を湯呑みに落とした。
「後援会の人間が、少し軽率なことをしました」
「軽率なこと」
「金の流れです」
「贈賄ですか」
明里は息をのんだ。
石田は片桐を見た。
柔らかかった目が、少しだけ冷たくなっていた。
「言葉を選んだ方がいい」
「事実確認です」
「なるほど。噂通り、事実確認がお好きなようだ」
明里は思わず片桐を見た。
いつもの片桐なら、ここで余計なことを言いそうだった。
けれど、片桐は何も言わなかった。
石田は続けた。
「近藤君は、昨日、その件に関わる資料の一部を見た。まだ記事にはしていない。まだ、誰にも渡していない。今なら間に合う」
「それをなかったことにしたい」
「そうです」
片桐は、静かに石田を見ていた。
「あなたが昨日、近藤さんに会ったことをなかったことにしたいんですか」
「それでも構いません」
「構わない?」
「結果として、彼がその資料に意味を見出さなくなればいい」
石田は平然と言った。
「見たことを忘れる。あるいは、大したものではなかったと思う。別の意味に置き換わる。あなたの力なら、そういうことも起こるのでしょう」
「起こる可能性はあります」
「では、お願いします」
石田は内ポケットから封筒を取り出した。
厚みのある封筒だった。
「依頼料です。通常より多く入っています」
「まだ受けるとは言っていません」
「不足なら、言ってください」
「金額の話ではありません」
片桐は言った。
事務所が、雨の音だけになった。
「石田さん」
「はい」
「あなたが消したいのは、後悔ではありません」
「ほう」
「証人です」
石田の表情から、笑みが消えた。
明里は、思わず息を止めた。
片桐の声は大きくなかった。
怒っている声でもなかった。
ただ、妙に静かだった。
「うちは、後悔を持て余した人の依頼は受けます。昨日の自分に縛られて、動けなくなった人の依頼は」
「私にも後悔はありますよ」
「そうは見えません」
「見た目で判断するのは危険だ」
「では、聞きます」
片桐はまっすぐ石田を見た。
「あなたは、何を後悔しているんですか」
「信用する人間を間違えたことです」
「違います」
「では?」
「ばれそうになったことです」
空気が、さらに冷えた。
石田はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり笑った。
「若い頃の私なら、怒っていたかもしれません」
「今は?」
「歳を取ると、面倒なことに怒る体力がなくなる」
石田は封筒を机の上に置いた。
「受けていただけませんか」
「受けません」
「理由は?」
「罪の意味を軽くする仕事はしていません」
「罪と決まったわけではない」
「なら、近藤さんに記事を書かせればいい」
「あなたは、世の中を知らない」
「そうかもしれません」
「正しければ人が救われると思っていますか」
「思っていません」
「では、なぜ断る」
「あなたを救う仕事ではないからです」
石田の指が、封筒の上で止まった。
雨音が強くなった。
窓の外を、路面電車が通り過ぎていく。
「片桐さん」
石田は静かに言った。
「はい」
「あなたのような仕事は、町の信用で成り立つのでしょう」
「便利屋なので」
「古いビルですね」
「はい」
「消防設備、避難経路、契約関係。古い建物には、いろいろあります」
「そうですね」
「役所との付き合いもあるでしょう。便利屋という仕事は、思っているより手続きが多い」
「詳しいですね」
「町のことを知るのが仕事ですから」
片桐は黙っていた。
石田は湯呑みに触れた。
飲みはしなかった。
「市役所に問い合わせれば、親切に教えてくれますよ。どの仕事に何の許可が必要か。どこまでが普通の手伝いで、どこからが業として問題になるのか」
「ご心配ありがとうございます」
「心配しています」
石田は笑った。
「町の人の暮らしを守る立場ですから」
明里の背中に、冷たいものが走った。
「最近は、何でもすぐ問題になります。廃棄物の処理。運搬。古い建物の安全管理。人を雇う時の契約。税務。保険。小さな事務所ほど、足元を見られやすい」
「そうですね」
「そうならないように、気をつけてください」
石田は封筒を内ポケットに戻した。
「それから」
「はい」
「人の噂というものは、面白い」
石田は事務所の中をゆっくり見回した。
「一度悪い噂が立つと、普通の仕事もやりにくくなる。網戸の張り替えも、家具の移動も、犬の散歩も。頼む方は、相手の評判を気にしますからね」
「勉強になります」
「ええ。覚えておくといい」
石田は立ち上がった。
秘書の男が傘を差し出す。
「残念です」
石田は言った。
「あなたは、もう少し賢い方だと思っていました」
「よく言われます」
「でしょうね」
石田はドアへ向かった。
その途中で、ふと明里を見た。
「瀬尾さん」
「はい」
名前を呼ばれて、明里は反射的に背筋を伸ばした。
「良い職場ですね」
ただそれだけだった。
柔らかい声だった。
けれど、明里は返事が少し遅れた。
「…はい」
石田は微笑んだ。
「長く続けられる職場は、貴重ですから」
ドアベルが鳴った。
ちりん。
石田宗一郎と秘書は、雨の中へ出ていった。
ドアが閉まる。
事務所には、湿った空気だけが残った。
明里は、しばらく動けなかった。
「片桐さん」
「うん」
「今の」
「脅しだね」
「さらっと言わないでください」
明里の声は、自分でも分かるくらい震えていた。
「警察に」
「証拠がない」
「録音」
「してた?」
「…できませんでした」
明里は自分の手を見た。
指先が震えている。
スマートフォンは机の上に置いたままだった。
「すみません」
「謝ることじゃない」
「でも」
「明里ちゃん」
片桐は、さっきまで石田が座っていたソファを見た。
「怖かった?」
「怖かったです」
明里はすぐに答えた。
「すごく、怖かったです」
片桐は黙った。
三秒ではなかった。
もっと長い沈黙だった。
「そう」
「そう、じゃないです」
「ごめん」
「謝るのも違います」
明里は深く息を吸った。
胸の奥がまだざわついている。
怖い。
石田の声が耳に残っている。
良い職場だといいですね。
長く続けられる職場は、貴重ですから。
あれは、ただの言葉ではなかった。
この場所を奪える、と言われたような気がした。
それでも、明里は片桐を見た。
「私、怒ってるんだと思います」
「石田さんに?」
「それもです」
「僕に?」
「それもです」
片桐は少しだけ目を伏せた。
「断ったのは、間違ってないと思います」
「うん」
「でも、片桐さん、今、私を帰らせようとしましたよね」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てました」
「そんなに?」
「はい」
明里はぎゅっと手を握った。
「私を守るために、ここに来るなとか、辞めろとか、そういうこと言いそうでした」
「危ないから」
「危ないなら、危ないって言ってください。勝手に決めないでください」
「明里ちゃんを巻き込んだ」
「もう巻き込まれてます」
明里の声が少し強くなった。
「私、ここで働いてます」
「試用期間だけど」
「そこは今どうでもいいです」
「はい」
片桐は素直に頷いた。
明里は一度目を閉じた。
まだ怖い。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、それだけではなかった。
「石田さんは怖いです」
「うん」
「あの人が何をするのか分からないし、正直、夜道も少し怖くなりました」
片桐の表情が、わずかに強張った。
「なら」
「でも」
明里は片桐の言葉を遮った。
「怖いから、離れたいんじゃありません」
片桐は何も言わなかった。
「怖いから、片桐さんを一人にしたくないんです」
明里は、机の上に置かれた湯呑みを見た。
石田の湯呑みには、少しも口がつけられていなかった。
湯気はもう消えている。
「噂の方の仕事も、そうです」
「明里ちゃん」
「片桐さんの中に、何かが残るんですよね」
片桐は黙った。
「それが積もって、片桐さんを変えているんじゃないですか」
「…そうとは限らない」
「限らなくても、私はそう見えます」
明里はまっすぐ片桐を見た。
「だから、勝手に一人で決めないでください」
片桐は何も言わなかった。
「怖いなら怖いって言います。危ないなら一緒に考えます。逃げる必要があるなら、ちゃんと相談してください」
「明里ちゃん」
「でも、私を守るためって言って、私のいないところで決めないでください」
片桐のこめかみの奥で、鈍い痛みがした。
まだ何もしていない。
まだ何も決めていない。
それなのに、すでに責められているような気がした。
「今日は、送るよ」
片桐が言った。
「子供じゃないです」
「従業員だから」
「じゃあ、今日は従業員として送られます」
明里はそう言った。
言ってから、自分が少しだけ笑えたことに気づいた。
片桐も、わずかに息を吐いた。
「ありがとう」
「今のは何に対してですか」
「怒ってくれたこと」
「怒りますよ」
「うん」
「私、けっこう怒りますから」
「知ってる」
「知ってるなら、勝手に決めないでください」
片桐は何も言わなかった。
明里は石田の湯呑みを持ち上げた。
給湯室で中身を捨てる。
水の音がした。
その音が、今日は少しだけ頼りなく聞こえた。
午後の段ボール運び出しには、片桐一人で向かった。
明里は事務所に残った。
本当は一緒に行くと言いたかった。
けれど、その日は言えなかった。
片桐が出ていったあと、明里は鍵をかけた。
ブラインドを半分下ろす。
机の上には、予定表と領収書と、古い依頼記録の入った透明なファイルがある。
――泣いている間は、結論を急がせない。
――「前を向け」とは言わない。
――正しさより先に、座れる場所を用意する。
明里は、その文字を思い出した。
「片桐さん」
誰もいない事務所で、明里は小さく呟いた。
「自分にも、それ、向けてくださいよ」
返事はなかった。
雨は、まだ降っていた。




