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ひとつだけ 〜後悔を消す便利屋と、依頼しなかった助手の話〜  作者: 八汐


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五章 政治家の男①

雨は、降ったり止んだりを繰り返していた。

六月の雨は、街全体を湿らせる。

紙屋町の通りも、路面電車の線路も、古い雑居ビルの階段も、どこか薄く水を含んでいるようだった。

瀬尾明里は、窓際の観葉植物を見下ろしていた。

「片桐さん」

「うん」

「この子、持ち直しました」

片桐亮介は、机の上で修理依頼票を確認していた手を止めた。

「水を控えたからかな」

「片桐さんに水やりを禁止したからです」

「禁止されてたのか」

「されてました」

「知らなかった」

「知ってください」

明里は小さくため息をついた。

萎れた葉は、まだ完全に元気とは言えない。

それでも、少し前よりは色が戻っている。

「植物って、見てないとすぐ弱るんですよ」

「人間もそうだね」

「…急にまともなこと言わないでください」

「駄目?」

「駄目じゃないですけど、調子が狂います」

明里はそう言って、少しだけ笑った。

五十嵐麻美の依頼から、まだ数日しか経っていない。

あの日以来、事務所には噂の方の依頼者は来ていなかった。

普通の便利屋仕事だけの日が続いた。

換気扇の点検。雨樋の掃除。家具の移動。古い棚の処分相談。

片桐は出先から戻るたびに、工具を違う棚に戻したり、領収書を胸ポケットに入れたまま忘れたりした。

明里はそのたびに怒った。

それくらいでいい、と明里は思っていた。

誰かの後悔が持ち込まれない日。

片桐が頭痛をこらえずに済む日。

湯呑みにお茶を淹れて、領収書を整理して、片桐に「余計なことを言う前に三秒待ってください」と言える日。

それくらいでいい。

明里は観葉植物の鉢を少しだけ回した。

葉が、窓の方へ向く。

「片桐さん」

「うん」

「噂の方の仕事なんですけど」

片桐は、修理依頼票から顔を上げた。

「噂の方?」

「ひとつだけ、なかったことにする方です」

「ああ」

「しばらく、やめませんか」

片桐はすぐには答えなかった。

雨音だけが、窓の外で細く続いている。

「どうして」

「心配だからです」

「お金、回らなくなるかもしれないよ」

「私が帳簿を見てます。回らないほどではありません」

「厳しいね」

「片桐さんの方が、厳しそうです」

片桐の表情が、ほんの少しだけ止まった。

「僕が?」

「はい」

明里は、観葉植物から片桐へ視線を移した。

「なかったことにするたびに、片桐さんの中に何かが残るんですよね」

「説明した通りだよ」

「説明で聞くのと、見ているのは違います」

片桐は何も言わなかった。

「五十嵐さんの時も、その前も。片桐さん、平気な顔をしますけど、平気じゃないですよね」

「頭痛くらいはある」

「頭痛だけですか」

片桐は、少しだけ視線を逸らした。

それが答えのように見えた。

「昔の片桐さんの話を、何度か聞きました」

「昔の?」

「はい」

明里は、机の端に置かれた透明なファイルを見た。

古い依頼記録の入ったファイルだった。

「今の片桐さんが悪い人だとは思ってません」

「それはどうも」

「でも、何かが削れてる気がします」

片桐は、少しだけ困ったように笑った。

「年を取ったからじゃないかな」

「加齢で済ませないでください」

「便利な言葉なんだけど」

「便利に使わないでください」

明里は一歩、机に近づいた。

「片桐さんの中の、柔らかいところが、少しずつ減ってる気がするんです」

片桐は黙った。

雨が少し強くなった。

窓ガラスに、細かい水滴が増える。

「だから、しばらくやめませんか」

「明里ちゃん」

「はい」

「その話は――」

その時、ドアベルが鳴った。

ちりん。

雨の音に混じって、軽い音が事務所に響いた。

明里は扉の方を見た。

片桐も、同じように見る。

呼び鈴は、もう一度鳴った。

ちりん。

片桐は椅子から立ち上がった。

「その話は、今度にしよう」

「片桐さん」

「依頼人かもしれない」

そう言って、片桐は扉へ向かった。

「いらっしゃいませ」

入口に立っていたのは、黒いスーツの男だった。

三十代半ばくらいだろうか。

髪はきっちり撫でつけられ、革靴には泥ひとつついていない。

濡れた傘を持っているのに、本人だけが雨に触れていないように見えた。

「片桐亮介さんの事務所はこちらで間違いありませんか」

男は丁寧に頭を下げた。

声は低く、整っていた。

「片桐です」

片桐が立ち上がる。

「ご依頼ですか」

「私、石田宗一郎の秘書を務めております、安田と申します。石田がお目にかかりたいと申しております」

明里の手が止まった。

石田宗一郎。

その名前は、明里も知っていた。

テレビで見たことがある。選挙ポスターでも見たことがある。街頭演説の声を、紙屋町の交差点で聞いたこともあった。

地元では、知らない人間の方が少ない政治家だった。

片桐は表情を変えなかった。

「石田さんが、うちに何の用でしょう」

「先生が直接お話ししたいとのことです」

「予約は受けていません」

「承知しております」

男がそう言って、一歩横へ退いた。

その後ろから、もう一人の男が入ってきた。

六十代前半。

濃紺のスーツに、落ち着いた色のネクタイ。白髪の混じった髪はきちんと整えられている。テレビで見るより小柄だったが、背筋は伸びていた。

顔には柔らかい笑みが浮かんでいる。

けれど、その男が事務所に入ってきた瞬間、部屋の空気が少し狭くなったような気がした。

「突然すみませんね」

石田宗一郎は、傘を秘書らしき男に預けながら言った。

「近くまで来たものですから」

「そうですか」

片桐は短く答えた。

明里は一瞬迷ってから、湯呑みを用意した。

来客である。

ただ、普通の来客ではない。

「お茶をお持ちします」

「ああ、どうぞお気遣いなく」

石田は穏やかに笑った。

「長居するつもりはありませんので」

そう言いながら、彼は自然な動作でソファに腰を下ろした。

長居するつもりのない人間の座り方ではなかった。

片桐は向かいに座った。

明里は湯呑みにお茶を淹れた。

熱すぎないように、少しだけ冷ます。

お茶請けを添えるか迷ったが、やめた。

何を出しても、違う気がした。

石田は湯呑みを見て、目を細めた。

「丁寧にされていますね」

「従業員が優秀なので」

「ほう」

石田の視線が明里に向いた。

「瀬尾明里と申します」

明里は頭を下げた。

「助手の方ですか」

「はい」

「若いのに、しっかりしている」

石田は感心したように言った。

柔らかい声だった。

けれど、明里はなぜか肩に力が入った。

褒められているはずなのに、値踏みされているような気がした。

「それで」

片桐が言った。

「ご依頼ですか」

「ええ」

石田は湯呑みに手を伸ばさなかった。

「こちらでは、少し変わった仕事も受けていると聞きましてね」

「噂ですね」

「噂は、馬鹿にできませんよ」

石田は笑った。

「選挙も商売も、噂で動くことがある」

片桐は黙っていた。

「ひとつだけ、なかったことにできる。そう聞きました」

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