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四章 嘘をついた男②

「ひとつだけ、なかったことにします」

片桐は目を閉じた。

音が遠くなる。

雨上がりの車の音。

湯呑みの縁に残った小さな湯気。

明里が立っている気配。

矢野誠司という男の、握りしめた拳。

それらが薄くなり、別の景色が流れ込んでくる。

喫茶店の窓際。

曇ったガラス。

向かいに座る男。

高校時代からの親友。名前は、坂井徹。

矢野は、嘘をついていた。

父が入院する。

検査でまとまった金が必要だ。

会社には言えない。

必ず返す。

来月には返せる。

坂井は、疑わなかった。

けれど、嘘はばれた。

同じ喫茶店。

同じ窓際。

坂井は封筒を置いた。

「持っていけよ」

声が冷えていた。

「徹、違うんだ」

「何が違うんだよ」

「俺、どうしても」

「親父さんのことまで嘘に使ったのか」

矢野は何も言えない。

「見損なった」

その一言は、思っていたより短かった。

短いから、深く刺さった。

「返さなくていい。手切れ金だと思え」

封筒が、矢野の方へ押し出される。

「もう、連絡してくるな」

そこで、景色が揺れた。


喫茶店の窓が、少しだけ明るくなる。

置かれていた封筒は同じだった。

五十万円。

金額は変わらない。

差し出された結果も変わらない。

けれど、そこに至る言葉が変わっていく。

「投資で失敗した」

矢野が言う。

声は情けなかった。

見栄も、嘘も、残っていなかった。

「馬鹿なことした。カードローンも使った。もう、どうにもならない。助けてほしい」

坂井は、しばらく黙っていた。

怒っていた。

当然だった。

「お前、何やってんだよ」

「ごめん」

「ごめんで済む額じゃないだろ」

「分かってる」

「分かってないから、こうなってんだろ」

坂井は封筒を置いた。

「貸す」

矢野は顔を上げる。

「でも、勘違いするなよ」

坂井の声は、やはり冷たかった。

ただし、それは断絶の冷たさではなかった。

「返すまで、俺はお前と対等な友達だとは思えない」

矢野は何も言えない。

「金ができたら連絡しろ。それまでは、こっちからは連絡しない」

「徹」

「返してから話せ」

封筒が、矢野の前に置かれる。

「逃げんなよ」

その言葉は、痛かった。

けれど、終わりではなかった。


片桐は目を開けた。

頭の奥に、鈍い痛みがあった。

誰かに見損なわれた記憶と、誰かにまだ見捨てられていない記憶が、同じ場所で重なっている。

吐き気に似た感覚があった。

「片桐さん」

明里の声がする。

片桐は片手でこめかみを押さえた。

「大丈夫」

「大丈夫じゃない時の言い方です」

「少しだけ」

「少しだけ大丈夫じゃない、ですね」

明里は水を汲みに行った。

矢野は、椅子に座ったまま、ぼんやりとしていた。

自分がなぜここにいるのか、すぐには分からないようだった。

「あれ」

矢野が呟く。

「俺、相談しに来たんですよね」

片桐は何も言わなかった。

矢野は膝の上の封筒を見る。

そして、はっとしたようにそれを鞄に戻した。

「返さないと」

小さな声だった。

明里が戻ってきて、片桐の前に水を置いた。

それから、矢野の方を見た。

「矢野さん」

「はい」

「大丈夫ですか」

「…分かりません」

矢野は正直に言った。

「でも、返さないといけないのは、分かります」

彼は鞄からスマートフォンを出した。

画面をつけ、連絡先を開く。

そこには、坂井徹の名前があった。

消されていなかった。

矢野は、その名前をしばらく見つめた。

「連絡、しないんですか」

明里が尋ねる。

矢野は首を振った。

「返してからにします」

それから、自分でも驚いたように息を吐いた。

「そう言われたんです。金ができたら連絡しろって」

片桐は、机の上の水に手を伸ばした。

指先が少し冷えている。

「怒っていましたか」

矢野が聞いた。

「友人の方ですか」

「はい」

片桐は、少し考えた。

「怒っていたと思います」

明里が片桐を見る。

片桐は三秒待った。

「でも、終わりとは言っていないんでしょう」

矢野は、その言葉を聞いて、目を伏せた。

「はい」

長い沈黙のあと、矢野は小さく頷いた。

「終わりとは、言ってませんでした」

その声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。

矢野は立ち上がった。

最初に来た時よりも、背中が少しだけ伸びていた。

「依頼料、必ず持ってきます」

「友人への返済が先です」

片桐が言う。

「はい」

「それから、投資は」

片桐が言いかける。

明里が、鋭く片桐を見た。

三秒。

「……相談できるところに、相談した方がいいと思います」

矢野は少しだけ笑った。

「はい」

「消費生活センターとか、法テラスとか」

「片桐さん」

明里が小声で言う。

「今のは、まともです」

「そうか」

「はい。珍しく」

「珍しくは余計だな」

「余計なことを言う前に三秒待ってください」

「それは君もだろう」

矢野が、そこで初めて少し笑った。

それは弱い笑いだった。

けれど、事務所に入ってきた時よりは、人の顔に近かった。

「ありがとうございました」

矢野は深く頭を下げ、事務所を出ていった。

扉が閉まる。

外ではまた、車が水たまりを踏む音がした。

明里はしばらく扉を見ていた。

「お金って」

ぽつりと言う。

「返せば、元通りってわけじゃないんですね」

片桐は水を飲んだ。

冷たくない水だった。

「そうだな」

「返すまで対等じゃないって、きついですね」

「貸した側にも、残るからな」

明里は、ゆっくり片桐の方を向いた。

「片桐さんが言うと、少し重いですね」

「そうかな」

「重いです」

片桐は湯呑みを見た。

中の茶は、もうほとんど冷めている。

「距離を置くことにも、いろいろある」

「そうですね」

「相手を思って、離れることもある」

明里は、少しだけ眉を寄せた。

「ありますね」

「なら」

「でも」

明里は片桐の言葉を遮った。

「離される側が、それを望んでいたかは別です」

片桐は、明里を見た。

明里は真っ直ぐに片桐を見返していた。

「相手を思ってって、便利な言葉ですけど」

窓の外で、雲の切れ間から薄い光が差した。

濡れた道路が、少しだけ白く光る。

「相手側の気持ちまで、勝手に決めていいわけじゃないと思います」

明里はそう言って、机の上の領収書を手に取った。

「だから片桐さんも、私の為とか言って、勝手に何か決めないでくださいね」

「善処する」

「それは勝手に決める人の返事です」

「努力する」

「それも微妙です」

「…決めないようにする」

「今のところ、仮合格です」

明里は領収書を日付順に並べ直す。

片桐は、それを見ながら、頭の奥に残った痛みをやり過ごした。

明里は知らない。

矢野が本当は嘘をついていたことを。

父の入院費だと言って、金を借りたことを。

それがばれて、見損なった、と言われたことを。

手切れ金だ、と押し出された封筒。

もう連絡してくるな、という短い終わり。

それらは、もう矢野の中にはない。

坂井の中にも、明里の中にも残っていない。

片桐の中でだけ、なかったことにならない。

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