四章 嘘をついた男①
雨は、昼前に上がった。
窓の外では、まだ濡れた道路を車が走っている。
タイヤが水を踏むたびに、しゃっ、という薄い音が事務所まで届いた。
明里は、窓際に置いた観葉植物の鉢を少しだけ動かした。
葉の先に残っていた水滴が、ぱたりと受け皿に落ちる。
「片桐さん」
「うん」
「この子、前より元気になってきましたよ」
「そうかな」
「そうです。毎朝、私が水をあげてますから」
「じゃあ、明里ちゃんがいないと枯れるね」
「自分の駄目さを当然にしないで下さい」
明里が振り向くと、片桐は机の上に広げた領収書を見ていた。
見ているだけで、整理している様子はない。
「それ、見てるだけですよね」
「確認している」
「確認したあと、どこに置くんですか」
「そこに」
「そこってどこですか」
片桐は机の左側を指差した。
そこには、昨日の新聞と、古いボールペンと、なぜか乾電池が二本転がっている。
明里は小さく息を吐いた。
「片桐さん」
「うん」
「真人間計画、第二段階に入ります」
「まだ続いてたのか」
「一生続きます」
「重いな」
「片桐さんの生活力の方が重いです」
明里は領収書を回収し、日付順に並べた。
片桐はそれを黙って見ている。
余計なことを言う前に、三秒待つ。
最近の片桐は、それを少しだけ守るようになっていた。
少しだけ、である。
その時、事務所の扉の向こうで、呼び鈴が鳴った。
明里が顔を上げる。
片桐も領収書から視線を外した。
「ご依頼ですかね」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、ちゃんと出てください」
片桐は立ち上がり、扉へ向かった。
開けると、そこには男が立っていた。
三十代半ばくらいだろうか。
薄いグレーのスーツを着ている。けれど、肩のあたりに変な皺が寄っていて、ネクタイも少し曲がっていた。
靴は磨かれているが、つま先だけが濡れている。
雨上がりの道を、急いで歩いてきたのだと分かった。
男は、片桐を見るなり、小さく頭を下げた。
「あの」
「はい」
「ここで、ひとつだけ、なかったことにしてもらえるって聞いたんですが」
明里の手が、領収書の上で止まった。
片桐は、男を見た。
その目の下には、はっきりとした隈があった。
「どうぞ」
片桐は一歩下がり、男を中へ通した。
男は、事務所に入ってからも、落ち着かなかった。
椅子に座る前に一度立ち止まり、壁の時計を見て、窓を見て、それから机の上の湯呑みを見た。
明里が湯を淹れようと立ち上がる。
「熱いの、大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫です」
「じゃあ、少し熱めで」
明里が給湯室へ向かう。
男はその背中を見送ってから、片桐へ向き直った。
「矢野誠司といいます」
男はそう名乗った。
「片桐です」
片桐は向かいに座る。
机の端には、明里が整えかけた領収書が積まれていた。
「それで、矢野さん」
「はい」
「なかったことにしたいのは、何ですか」
矢野は、膝の上で両手を握り合わせた。
指先が白くなっている。
少しの間、事務所には雨上がりの車の音だけが入ってきた。
「嘘を、ついたんです」
矢野は、そう言った。
片桐は黙って続きを待った。
「親友に、嘘をついて、金を借りました」
明里が湯呑みを二つ持って戻ってきた。
片桐の前と、矢野の前に置く。
矢野はそれに気づき、慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どうぞ。熱いので、少し待ってください」
明里は片桐の隣に座らず、少し離れた棚の近くに立った。
依頼者が話しやすい距離を、最近の明里はよく分かっていた。
矢野は湯呑みを両手で包む。
けれど、口はつけなかった。
「投資で、失敗しました」
矢野は言った。
「最初は、少し増えたんです。だから、調子に乗りました。貯金も入れて、カードローンも使って。それで、戻せなくなった」
「いくらですか」
片桐が尋ねる。
明里が一瞬だけ片桐を見た。
聞き方が直球すぎたからだ。
片桐は、少し遅れて口を閉じた。
三秒待つことには、まだ慣れていない。
「…すみません。答えにくければ」
「いえ」
矢野は首を振った。
「四百万円くらいです」
事務所の空気が、少しだけ重くなった。
「親友に借りたのは、五十万です」
「親友の方には、何と」
「父が、入院することになったって言いました」
矢野は、湯呑みに視線を落とした。
「検査で、急にまとまった金が必要になった。会社にも言えない。今月だけでいい。必ず返す。そう言いました」
「実際は」
「父は元気です」
矢野の声は、そこで少しだけ掠れた。
「親友は、信じてくれました。昔からの友達なんです。高校の時からで。俺が金にだらしないことも、見栄っ張りなことも知ってて、それでも…たぶん、信じようとしてくれたんです」
明里は黙って聞いていた。
「でも、ばれました。親友が、俺の父に電話したんです。入院するなら見舞いに行きたいって。父は何も知らないから、そんな予定はないって言ったそうです」
矢野は、そこで小さく笑った。
笑いにはなっていなかった。
「親友に呼び出されました。喫茶店でした。あいつ、もう封筒を持ってました。五十万、入ってるやつです」
「渡されたんですか」
「はい」
矢野は頷いた。
「受け取れって言われました。返さなくていい。手切れ金だと思えって」
明里の眉が少し動いた。
「見損なったって言われました。親父さんのことまで嘘に使うやつだったんだなって。俺、何も言い返せませんでした」
矢野は、両手で湯呑みを握りしめた。
「本当のことを言っていたら、違ったと思うんです」
片桐は矢野を見ている。
「投資で失敗した。馬鹿だった。助けてほしいって、最初から言えていたら。たぶん、怒られたとは思います。でも、終わりにはならなかったと思うんです」
矢野の声が、細くなった。
「だから、その嘘を、なかったことにしてほしいんです」
窓の外で、路面電車の音が遠くに聞こえた。
低い金属音が、雨上がりの空気を渡っていく。
片桐は、しばらく黙っていた。
「矢野さん」
「はい」
「結果は変わりません」
矢野が顔を上げる。
「あなたが投資に失敗したこと。お金を必要としたこと。親友から五十万円を受け取ったこと。それを返さなければいけないこと」
片桐は一つずつ確かめるように言った。
「それから、親友との関係に距離ができたことも、変わりません」
矢野の喉が動いた。
「はい」
「嘘をついたことをなかったことにしても、何もなかったような友人関係には戻りません」
「…はい」
「お金も、消えません」
「分かっています」
矢野はすぐに答えた。
けれど、その返事は、分かっている人間の声ではなかった。
分かろうとしている人間の声だった。
「それでも、です」
矢野は言った。
「嘘をついて、見損なわれたままでは、返せないんです」
「返せない?」
「どこに返せばいいか、分からないんです」
矢野は湯呑みから手を離し、膝の上で拳を作った。
「返さなくていいって言われたんです。返したいって言っても、もう連絡するなって。俺が悪いんです。全部、俺が悪い。でも、あのままだと、金も、あいつとの関係も、俺が全部盗んだみたいで」
明里は、棚のそばで手を握った。
「返したいんです。返せるようになりたいんです。でも、手切れ金だって言われたままだと、どうしても、終わったことに甘えそうになるんです」
矢野は顔を歪めた。
「最低なのは分かってます。でも、俺、多分、このままだと逃げます。返さなくていいって言われたからって、自分に言い訳すると思います」
片桐は、何も言わなかった。
「嘘をつかなかったことにしたいです」
矢野は言った。
「怒られてもいい。軽蔑されてもいい。距離を置かれてもいい。でも、嘘で終わったことだけは、なかったことにしたいんです」
片桐は、机の上の契約書を一枚取った。
明里がゆっくりと片桐を見る。
「受けるんですか」
「受ける」
片桐は言った。
矢野が息を呑む。
「ただし、もう一度言います。お金は消えません。友人との距離も消えません。都合のいい形にはなりません」
「はい」
「あなたの中にある、嘘をついた後悔。その意味だけが、変わります」
「はい」
「変更前の記憶は、僕に残ります」
矢野はそこで、初めてはっきりと片桐を見た。
「あなたに?」
「はい」
「俺が嘘をついたことも?」
「残ります」
「親友に、見損なわれたことも?」
「残ります」
矢野は黙った。
その顔に、少しだけ迷いが浮かぶ。
当然だった。
自分が手放したいものを、目の前の男が持つと言っているのだから。
明里は、その迷いを見ていた。
矢野はしばらく俯き、それから、鞄の中から茶色い封筒を取り出した。
角が折れて、何度も握られた跡があった。
「これ、依頼料です」
片桐は封筒を見た。
「そのお金は」
「借りた金の、一部です」
明里の目が細くなる。
矢野はすぐに頭を下げた。
「分かってます。これも、最低です。でも、これを払ってでも、戻りたいんです。返すところから、逃げないところまで」
片桐は封筒を受け取らなかった。
「返すつもりの金ではありませんか」
「返します」
「なら、ここに使っていいお金ですか」
矢野は答えられなかった。
事務所の中が、静かになる。
明里が一歩前に出た。
「矢野さん」
「はい」
「そのお金、返すためのお金ですよね」
「…はい」
「じゃあ、それは受け取れません」
片桐が明里を見る。
明里は、片桐を見返した。
目が少し怒っている。
「片桐さんも、受け取らないでください」
「まだ何も言ってない」
「顔が少し受け取ろうとしてました」
「顔で分かるのか」
「分かります」
片桐は封筒から視線を外し、矢野へ向き直った。
「依頼料は、後でかまいません」
「え」
「金ができたら、持ってきてください」
明里が少し驚いた顔をした。
「ただし」
片桐は続ける。
「その友人への返済より先にはしないでください」
矢野の目が揺れた。
「…いいんですか」
「よくはありません」
片桐は言った。
「うちは慈善事業ではないので」
「そこは言わなくていいです」
明里がすぐに言った。
片桐は一度口を閉じる。
三秒。
「でも、今回はそれでいいです」
明里は小さく息を吐いた。
少しだけ、笑っていた。
矢野は、封筒を膝の上に戻した。
その手が震えている。
「ありがとうございます」
「契約書には、サインを」
「はい」
矢野は契約書に名前を書いた。
筆圧が強く、紙が少しへこんだ。
片桐はその契約書を確認し、机の引き出しにしまった。
明里は金庫の方を見たが、今日はそこへ行かなかった。
それが少しだけ、不思議だった。
依頼料を入れない依頼。
けれど、依頼は成立した。
片桐は椅子に座り直す。
「では」
矢野が息を止めた。
「ひとつだけ、なかったことにします」
片桐は目を閉じた。




