幕間 古い依頼記録
五十嵐麻美の依頼から数日後、明里は事務所の棚を整理していた。
雨が降っていた。
梅雨らしい、細かくて長い雨だった。窓ガラスには水滴がいくつも流れ、紙屋町の路面電車の音も、いつもより少しぼやけて聞こえる。
片桐は外に出ている。
古いアパートの換気扇を見てほしいという、普通の便利屋仕事だった。
今日は、普通の仕事だけの日だった。
明里はそういう日が、少し好きになっていた。
誰かの後悔が事務所に持ち込まれない日。
片桐が帰ってきても、頭痛をこらえずに済む日。
ただ、工具箱が汚れて、領収書を変な場所に入れて帰ってくる日。
それくらいでいい。
「さて」
明里は棚の一番下にある古いファイルを引き出した。
背表紙には何も書かれていない。
埃を払うと、指先が少し黒くなった。
「片桐さん、こういうところなんですよ」
独り言を言いながら、明里はファイルを開いた。
中には、古い依頼票が入っていた。
日付は数年前のもの。
普通の便利屋仕事の記録もあれば、噂の方らしき契約書も混じっている。
明里は勝手に深く読むつもりはなかった。
依頼者の名前や内容には、できるだけ目を滑らせる。
必要なのは、保管場所の確認と、分類だけだ。
けれど、一枚の紙の端に書かれたメモが、目に入った。
片桐の字だった。
今より少し丁寧な、細い字。
――泣いている間は、結論を急がせない。
明里の手が止まった。
その下にも、いくつか短い言葉が並んでいた。
――水は冷たすぎないものを。
――「前を向け」とは言わない。
――正しさより先に、座れる場所を用意する。
明里は、しばらくその文字を見つめていた。
「……なんですか」
誰もいない事務所で、明里は小さく呟いた。
「できてたんじゃないですか」
片桐は、できていた。
少なくとも、昔の片桐は。
人が泣いている時に、どうすればいいか。
どんな言葉を言ってはいけないか。
どんなものを先に用意すればいいか。
ちゃんと、知っていた。
今だって、まったく知らないわけではない。
五十嵐麻美の話を、片桐は遮らなかった。
死者は戻らないと、ちゃんと告げた。
嘘の救いを与えなかった。
けれど、時々、ずれている。
言わなくていいことを言いそうになる。
痛がっているのに、痛くない顔をする。
仕事だからと言って、何でも自分の中にしまおうとする。
明里は、古いメモを指でなぞらないように、そっと紙の端を持った。
「まったく」
ため息が出た。
「どこに置いてきたんですか」
デリカシー。
優しさ。
それとも、余裕。
どれなのかは分からない。
分からないから、明里は簡単に結論を出さないことにした。
ただ、そのメモを新しい透明なファイルに入れた。
捨ててはいけないものの場所に。
前に見つけた古い手紙と、同じ場所に。
その時、ドアベルが鳴った。
ちりん。
明里は顔を上げる。
片桐が、濡れた傘を持って立っていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。濡れてます」
「雨だから」
「そういう返事が駄目なんです」
「三秒待てばよかった?」
「今のは待っても同じです」
片桐は傘立てに傘を入れた。
作業着の袖が少し濡れている。髪もわずかに湿っていた。
「換気扇は直りました?」
「直った」
「領収書は?」
片桐は胸ポケットから領収書を出した。
明里は目を丸くした。
「ちゃんと持ってる」
「真人間に近づいた?」
「まだです。でも、初級編合格に近づきました」
「厳しいね」
「期待してるんです」
明里はそう言ってから、自分で少し驚いた。
片桐も、少しだけ黙った。
「そう」
片桐は言った。
「それは、どうも」
「今の返事も、もう少し何とかしてください」
「ありがとう、かな」
「はい」
「ありがとう」
「よろしい」
明里は領収書を受け取り、青いファイルにしまった。
その隣には、古い手紙と、古い依頼記録のメモが入った透明なファイルがある。
片桐はまだ、それに気づいていない。
明里も、今は言わなかった。
外では雨が続いている。
事務所には、湯呑みが二つ並んでいる。
片方は片桐のもの。
もう片方は、明里のものだった。




