表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/23

幕間 古い依頼記録

五十嵐麻美の依頼から数日後、明里は事務所の棚を整理していた。

雨が降っていた。

梅雨らしい、細かくて長い雨だった。窓ガラスには水滴がいくつも流れ、紙屋町の路面電車の音も、いつもより少しぼやけて聞こえる。

片桐は外に出ている。

古いアパートの換気扇を見てほしいという、普通の便利屋仕事だった。

今日は、普通の仕事だけの日だった。

明里はそういう日が、少し好きになっていた。

誰かの後悔が事務所に持ち込まれない日。

片桐が帰ってきても、頭痛をこらえずに済む日。

ただ、工具箱が汚れて、領収書を変な場所に入れて帰ってくる日。

それくらいでいい。

「さて」

明里は棚の一番下にある古いファイルを引き出した。

背表紙には何も書かれていない。

埃を払うと、指先が少し黒くなった。

「片桐さん、こういうところなんですよ」

独り言を言いながら、明里はファイルを開いた。

中には、古い依頼票が入っていた。

日付は数年前のもの。

普通の便利屋仕事の記録もあれば、噂の方らしき契約書も混じっている。

明里は勝手に深く読むつもりはなかった。

依頼者の名前や内容には、できるだけ目を滑らせる。

必要なのは、保管場所の確認と、分類だけだ。

けれど、一枚の紙の端に書かれたメモが、目に入った。

片桐の字だった。

今より少し丁寧な、細い字。

――泣いている間は、結論を急がせない。

明里の手が止まった。

その下にも、いくつか短い言葉が並んでいた。

――水は冷たすぎないものを。

――「前を向け」とは言わない。

――正しさより先に、座れる場所を用意する。

明里は、しばらくその文字を見つめていた。

「……なんですか」

誰もいない事務所で、明里は小さく呟いた。

「できてたんじゃないですか」

片桐は、できていた。

少なくとも、昔の片桐は。

人が泣いている時に、どうすればいいか。

どんな言葉を言ってはいけないか。

どんなものを先に用意すればいいか。

ちゃんと、知っていた。

今だって、まったく知らないわけではない。

五十嵐麻美の話を、片桐は遮らなかった。

死者は戻らないと、ちゃんと告げた。

嘘の救いを与えなかった。

けれど、時々、ずれている。

言わなくていいことを言いそうになる。

痛がっているのに、痛くない顔をする。

仕事だからと言って、何でも自分の中にしまおうとする。

明里は、古いメモを指でなぞらないように、そっと紙の端を持った。

「まったく」

ため息が出た。

「どこに置いてきたんですか」

デリカシー。

優しさ。

それとも、余裕。

どれなのかは分からない。

分からないから、明里は簡単に結論を出さないことにした。

ただ、そのメモを新しい透明なファイルに入れた。

捨ててはいけないものの場所に。

前に見つけた古い手紙と、同じ場所に。

その時、ドアベルが鳴った。

ちりん。

明里は顔を上げる。

片桐が、濡れた傘を持って立っていた。

「ただいま」

「おかえりなさい。濡れてます」

「雨だから」

「そういう返事が駄目なんです」

「三秒待てばよかった?」

「今のは待っても同じです」

片桐は傘立てに傘を入れた。

作業着の袖が少し濡れている。髪もわずかに湿っていた。

「換気扇は直りました?」

「直った」

「領収書は?」

片桐は胸ポケットから領収書を出した。

明里は目を丸くした。

「ちゃんと持ってる」

「真人間に近づいた?」

「まだです。でも、初級編合格に近づきました」

「厳しいね」

「期待してるんです」

明里はそう言ってから、自分で少し驚いた。

片桐も、少しだけ黙った。

「そう」

片桐は言った。

「それは、どうも」

「今の返事も、もう少し何とかしてください」

「ありがとう、かな」

「はい」

「ありがとう」

「よろしい」

明里は領収書を受け取り、青いファイルにしまった。

その隣には、古い手紙と、古い依頼記録のメモが入った透明なファイルがある。

片桐はまだ、それに気づいていない。

明里も、今は言わなかった。

外では雨が続いている。

事務所には、湯呑みが二つ並んでいる。

片方は片桐のもの。

もう片方は、明里のものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ