第九話 切っても、まだ立ってくる
——あれは、十日ほど前のことだった。
夜明け前から城門に集合するよう、通達が来た。
到着すると、正騎士団がすでに並んでいた。十名ほど。フル装備だ。鎧の合わせ目が朝靄の中で鈍く光っている。空気がまだ冷たく、吐いた息がはっきりと白く残っていた。石畳は夜露でわずかに湿っていて、鋲打ちの長靴が踏みしめるたびに短い音を立てる。街のほとんどはまだ眠っていて、パン屋の窓にだけ橙色の明かりがひとつ灯っていた。その中に、場違いなほど元気のいい存在がいた——武器や防具を積んだ大きなカートを引っ張っている若い男で、荷物の重さでカートが傾くたびに体を張って支えている。まだ二十そこそこか。細身の体に不釣り合いなほど大量の荷物で、肩に食い込んだロープの跡が、襟の隙間から赤く覗いていた。
「トッド、そっちのロープ締めとけ」
騎士の一人が声をかけた。横柄な口調だ。用件だけを投げて、返事を待たない言い方だった。
「あ、はい!今やってます!」
トッドと呼ばれた若者は明るく返事をした。ロープを締め、カートの均衡を直しながら、隣の騎士に何かを喋りかけた。騎士が顔をそらした。別の騎士がため息をついた。三人目が何か囁いた。笑い声が起きた。
トッドは笑い声に気づいていないのか、気づいていても気にしないのか——次の騎士にまた話しかけていた。その顔は屈託がない。笑われた、という事実が本人のどこにも届いていないように見える。セレニティーはそれを、鈍いとも、強いとも決めかねた。
横にいた冒険者のグロームが、セレニティーの袖を引いた。
「エルフ、何食べる?」
グロームは緑の肌をした巨漢のオークで、セレニティーの倍ほどの体積がある。声が大きい。今は小声のつもりらしいが、十分すぎるほど響いている。耳元で岩が喋っているような感覚だ。助詞が抜けていて、言葉が岩の塊のまま転がってくる。
「森の食材はいろいろあるけど」
「木の実? 葉?」
「肉も食べる」
「肉、何肉?」
「鹿、猪、時々川魚——」
「川魚!」グロームの目が輝いた。「どう料理? 内臓、使う? 鱗、とる? 塩漬け? 干す?」
後で気づいたのだが、グロームの料理への興味は底なしだった。集合から出発までの三十分、セレニティーは川魚の調理法について話し続けた。内臓の扱い一つ答えるたびに、グロームは真顔で頷き、次の質問を繰り出してくる。答えを忘れるまい、という顔だった。
街道を歩くこと四十分ほどで、森の入り口に着いた。
隊列の先頭には、エルウィン王子が歩いていた。
若い。二十になるかならないかか。赤い外套を着て、腰の剣をすでに抜いている。まだ脅威の気配もない街道の上で、剣を引き抜いた状態で、先頭を張り切って歩いている。その背中は、これから何か立派なものを成すのだ、という姿勢に満ちていた。後ろでノーマンが一定の間隔を保ちながら、おとなしく続いていた。王子が剣を抜いたことにも、歩幅の速さにも、何も言わない。ただ、王子の一歩と自分の一歩の距離が崩れないように、黙って合わせている。
「ベイルの森」正式名称はそれだ——「魔の森」というのは子供向けの昔話から来た俗称で、セレニティーが生まれる前からそう呼ばれている。深くに行くほど確かに雰囲気は不気味だが、入り口付近なら何ということもない、ただの森だ。
だが入った瞬間に、セレニティーはわかった。
今日は違う。
エルフとしての感覚が、これまで感じたことのない寒気を拾っていた。肌ではない——体の芯のあたりで、何かが静かに警告を出している。森の呼吸が止まっている、というような感覚だ。森は生きものだ。風が通り、鳥が鳴き、湿り気がゆっくり上下する——その当たり前の呼吸が、入ってすぐに消えた。声に出して伝えたが、騎士団は特に反応しなかった。「エルフの勘」は、彼らの任務報告書には載らない類の情報だった。
森に入ってさらに三十分ほど進んだところで、商人が襲われた現場が見つかった。
荷車が一台、道の端に放置されていた。積み荷はそのままだ。何も取られていない。強盗ではない。
人の痕跡があった。二人分か、三人分か。
ただし、普通の痕跡ではなかった。
地面に血がある。しかしその血のまわりに、腐敗の痕跡がある——血と同じ場所に、腐食したような黒い染みが広がっている。土が腐っている。草が枯れている。普通の攻撃ではこうはならない。さらに、森の木の根元にも同じ腐敗が点々と広がっていた。点々と、というより、何かが通った軌跡のように、規則性を持って続いていた。商人の死体が一つあったが、傷口が武器や牙によるものではない——ちぎられている。ちぎられた断面から、同じ腐敗が染み出していた。肉が黒く変色し、縁のほうから静かに土のほうへ溶け落ちていくように見えた。
森の深い方向へ、腐敗の跡が続いていた。
エルウィン王子が剣を構えながら一歩踏み出した。
「確認する」
「殿下、まだ状況の把握が——」
騎士の制止を聞かなかった。エルウィン王子はすたすたと森の奥に向かって歩き出した。その歩幅に迷いはない。迷いがないぶん、怖さの種類が違うのだと、セレニティーは後ろから見ていて思った。
慌てて騎士団が追った。セレニティーはグロームを見た。グロームは腐敗の跡を調べながら頷いた。二人はもう少し現場を確認することにした。荷車の中身を一度だけ検め、それから先を追う。
しばらくして、前方から音がした。
金属が打ちつけられる音。叫び声ではない——鉄が固いものに当たる音が、連続している。何かを切っているのに、切れていない音だ。
セレニティーとグロームは走った。
◆
見えてきたのは、物語の中にしかいないはずのものだった。
人の形をしている。だが人ではない。皮膚が黒ずんでいる。服の名残のような布きれが所々にぶら下がり、もとは人であったのだろうと推測させる。目がない——目のあるべき場所に、くぼんだ闇があるだけだ。その闇は、光を吸い込んでいるのか、それとも反射しないだけなのか、見分けがつかない。動いている。走ってはいない、ゆっくりと前に出る。だが止まらない。剣で切っても、腕を失っても、止まらない。倒れても、また起き上がろうとする。立ち上がる動作は、人がやるそれとはどこかが違っていた。関節の順番が違う、というような違和感がある。膝から先に立つのではなく、胴のどこかから折れるようにして起き上がる。
三十体ほどいた。
エルウィン王子と騎士団が囲まれている。正確には、囲むように押し寄せられている。騎士たちは切り込んでいるが、撃退するたびに別の方向から来る。腐敗の臭いが森に充満していた。息を吸うたびに、何か重いものが肺に入ってくる感覚がある。口の中に鉄と土が混ざったような後味が残った。
何人かの騎士が掴まれていた。アンデッドの手が皮膚に触れた箇所から、腐敗が広がっていく。広がりはゆっくりだった——致命的ではない。しかしその騎士は顔色を変え、腐敗した部分を庇いながら戦い続けた。剣の柄を握り直す手が、少し震えていた。震えを本人も自覚している、そういう握り方だ。
グロームが前に出た。
グロームの戦い方はシンプルだ。大きな斧を振り回す。当たったアンデッドが吹き飛ぶ。吹き飛んでも起き上がろうとするから、グロームはもう一度振り下ろす。また吹き飛ぶ。これを繰り返す。グロームは食事の話をするときと同じ顔で戦っていた。淡々と、しかし手は止めない。良い素材を前にした料理人の手つきだ、とセレニティーは思った。
セレニティーは弓を引いた。
矢が刺さる。アンデッドは止まらない。頭を正確に射抜いた——それで動かなくなった。つまり、頭だ。頭を潰せば倒せる。セレニティーは情報をグロームに伝えながら、矢を射続けた。弓を引くたびに腕の筋肉が軋む。三十体、それぞれの頭に当てていく作業は、精度の問題だ。疲れても精度は落とさない。呼吸を細く保ち、肩の力を抜き、引き絞った瞬間だけ全身の神経を弦に集める。それを三十回繰り返す。
矢筒の中身が減っていく。残りの本数を数える余裕はない。足りなくなったら別の手段、と頭の隅に置いた。
一時間かかった。
最後の一体が倒れたとき、森の中は静まり返っていた。
静寂は不気味だった。普通の戦闘後の静けさとは違う——森が静かすぎた。鳥がいない。虫の音もない。生き物の気配がない。木の幹が腐食で黒ずんでいた。地面は黒い。戦いの前から枯れかけていた草が、今は完全に干からびている。風が木の間を抜けるはずの音も、聞こえなかった。森がこちらの様子を窺っている、という感覚だけがあった。
騎士たちは疲弊していた。装備が傷んでいた——鉄が錆びていた。一時間で、使い込んだ武器が錆びた。腐敗の影響だ。何人かの騎士は腕や足に腐敗の痕を負っていた。動けないほどではないが、傷口が普通ではない色をしていた。緑に近い、という色でもない。黒にほんの少し、青が混じっている。見ていると視線がそこに吸い寄せられる種類の色だった。
「トッド」
騎士の一人が呼んだ。トッドがカートから予備の武器と防具を取り出した。傷ついた騎士たちに配る。その手際は良かった——誰が何を必要としているか、素早く判断して動いていた。まだ会話する余裕のある騎士には軽い装具を、息を整えるだけで精一杯の騎士にはそっと水筒を差し出す。先ほどまで邪険にしていた騎士たちが、今は誰も文句を言わなかった。言う余裕がなかったのか、それとも別の何かか。
「トッドさん、ありがとう」
セレニティーが礼を言うと、トッドは照れながら頭を掻いた。
「いや、これが仕事なんで。——あの、少しいいですか」
トッドは懐から手帳を取り出した。手帳の表紙は角が擦り切れていて、中身のほうが本人より重要なものに見えた。
「報告用に、描いておきたくて。さっきのあれ——アンデッドを、できるだけ正確に」
「今描くの?」
「見たものを忘れないうちに」
トッドは鉛筆を握って、迷いなく描き始めた。線が確かだった。アンデッドの輪郭、体の比率、目のない目。先ほどまで足元がおぼつかないように見えた若者が、鉛筆を持った瞬間から別人のように静かになっていた。呼吸も浅くなり、瞬きの回数が減った。見たものをそのまま写す能力は、天性のものだとセレニティーは思った。カートを引く係として連れてこられた若者が、この遠征で一番重要なものを残すことになった。
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