第八話 本題は、騎士団が帰ってからだ
看板を掛けようとしていた。
朝だった。陽が路地の端からようやく差し込んできた頃で、石畳はまだ夜の冷たさを手放していない。空気に湿り気があって、吐く息が白く残るほどではないが、指先は鈍い。アルダーは梯子に登り、木の板の位置を調整していた。板の表面には「炉は問わない。何者であれ」と彫ってある。昔から使っている看板だ。文字の溝には、前の街の煤がまだ残っていた。指でなぞれば、黒い粉がわずかに浮く。拭えばすぐ落ちるが、拭わない。誇りがあるわけではない——ただこの看板を見てくる顧客が自分に合っている、という話だ。壁に打ちつけたフックに引っかけるだけでいい。板を傾けて、角度を確かめる。真っ直ぐかどうかは、一歩引いて見ないとわからない。釘の位置は昨日のうちに打ってある。朝のうちに掛けておけば、最初の通行人の目に触れる。
「そこの者」
背後から声がした。
アルダーは急がなかった。看板をフックに掛けてから、梯子を降りた。板が壁にきちんと収まった音を確かめてから、振り返った。
路地が埋まっていた。
武装した人間が、何人もいる。鎧を着ている。剣を下げている。全員が整列しているわけではないが、統率の取れた立ち方をしている——軍の足並みだ。歩幅が揃っていないのに、空気の詰まり方が揃っている、そういう立ち方だ。その先頭に、痩せた男が立っていた。五十がらみか。鋭い目が、アルダーの顔から店の扉まで流れて、それから戻ってきた。胸に指揮官の紋章がある。何かを値踏みする目だ。値踏みして、だいたい結論が出ている目だ。結論を覆すために話を聞きに来たのではなく、結論を確認するために来たのだと、アルダーは見た。
男の少し後ろに、別の人物が立っていた。王家の紋章の入った仕着せを着ている六十代の男。歳を感じる背筋の曲がり方をしている。表情がない、というわけではないが、顔の筋肉が常に制御されているような顔をしている。呼吸も浅い。そこに立っていること自体が、すでに仕事の一部になっているような、そういう静けさがあった。
「ご用件は」とアルダーは言った。
痩せた男は答えなかった。視線がアルダーの後ろの扉に向いた。
「中を見せてもらおう」
返事を待たずに歩き出した。部下が続いた。アルダーは梯子を路地の壁に立てかけてから、扉を開けた——すでに痩せた男が手をかけていたが。
◆
店の中が騒がしくなった。
五人の騎士が散らばって、棚を検める。在庫の瓶を手に取り、工具を動かし、素材の箱の蓋を開ける。丁寧ではない。落としはしないが、元の位置には戻さない。瓶を傾けて中身を覗き、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ者もいる。素材の名を知らない目だ。何を探しているのかは、おそらく、彼ら自身もはっきりとは決めていない。怪しいものがあれば見つかるだろう、程度の手つきだ。見つかっても、それが何かを判じる者は、この中にはいない。
アルダーは冷ややかに見ていた。止めようとは思わなかった。止めても意味がない——止める権限が自分にあるかどうか、この場で確かめるつもりはない。
「ご用件は」とアルダーはもう一度、痩せた男に言った。今度は男がアルダーを見た。
「聞いているだろう」男の声は低く、ぶっきらぼうだ。「物騒になってきた、最近」
「聞いている」
「新しく出店したというので、視察に来た」男の視線がまた店内を流れた。「それにしても、一夜にして出店とは。面白いことだ」
「場所が空いていた」
「名前は」
「アルダー」
「アルダー」男は繰り返した。品定めするように、ゆっくりと。「どこから来た」
「南の山を越えた先の、泉のそばの漁村にいた」
「なぜここへ」
「需要がなくなった。仕事を探しに」
「どこの生まれだ」
アルダーは少し間を置いた。「わからない。気づいた時には、孤児として商人に拾われていた。転々とした」
男の目が細くなった。細くなったが、特に何かを言わなかった。『——嘘と取るか、本当と取るか、まだ決めていない顔だ』とアルダーは観察した。『決めていないのではなく、決める必要がないと判断した顔、とも言えるか』
「エルウィン王子の失踪は知っているか」
「客から聞いた範囲は」
「エドバー王の倒れたことは」
「これも客から」
「最近、森に行ったか」
「この街に来てから鍛冶屋を出ていない」
男はまたしばらく黙った。後ろで、仕着せの若い男——いや、年寄りだが、痩せた男の基準では若い、という意味か——が口を開いた。
「やや、お答えになる際は相手を——」
「構わん、ノーマン」男が遮った。
ノーマンと呼ばれた老人は口を閉じた。しかし口元がわずかに動いていた。何か言いたいことがあるが、言えない顔だ。言葉を飲み込んで、それでも表に出てしまう類の、訓練された筋肉の下にある小さな漏れ。
アルダーはノーマンを見た。細い。背は高いが、体に肉がない。髪を後ろで縛っていて、前に一本だけ垂れている。目が灰色だ。何かを観察しているような目をしている。じっとしているが、注意が散っていない——常に周囲を把握しているタイプの静けさだ。視線がアルダーに止まる時間は短いが、止まっている間に、いくつかのことを数え終えている、そういう種類の目だ。手は体の前で軽く組まれている。指は長く、節が目立つ。ペンを持つ手というより、何十年も誰かの斜め後ろに立ち続けた手だ、とアルダーは見た。
『王室の侍従、か』
アルダーは見当をつけた。王のすぐ背後に立つ人間の気配は、こういうものだろう。
「アンデッドの噂は本当か」
アルダーが訊いた。
男の眉が少し動いた。初めて、この問答の主導権がわずかに揺れた。
「お前に答える義務はない」
「そうか」
短い沈黙があった。その間に、部下の一人が痩せた男に近づいて、何かを耳に囁いた。男は頷いた。
「怪しいものはないか」
「特に。ただの鍛冶屋です」
男はアルダーに向き直った。顎をわずかに上げた。
「ヴォルター・グライフ。正騎士団の団長だ。この街の安全を守っている」
名乗りが短い。役職を添えるのは威圧ではなく手順だ、という言い方だった。名乗ったことで会話が終わる、と本人が決めている。
「アルダーだ。この店の鍛冶屋だ」
「知っている」ヴォルターは踵を返した。「見張っているからな」
部下を連れて出ていった。ノーマンが最後に続いた。ドアを開けたまま出て、一度だけ振り返った。
「アルダー殿」
「何だ」
「ヴォルター様は、この街を守るためにこちらへ来られた。ご理解のほど」
「理解した」
ノーマンは一瞬だけ何かを言おうとして、やめた。口が開きかけて、閉じた。出ていった。ドアは開いたままだった。
アルダーは近くの棚から道具を拾い、元の場所に戻した。いくつかの瓶がずれている。直した。瓶の列の間隔を、指一本分ずつ揃えていく。作業台の上に誰かが触れた痕跡があった。指の油が板に薄く残っている。布でひと拭きすれば消える。特に問題はない。
開いたままの扉を閉めた。扉の軋みが短く鳴って、止まった。
看板は、ちゃんと掛かっていた。
◆
「あの人、嫌い」
声がした。
アルダーが顔を上げると、開いたばかりの扉の前に人が立っていた。女だ。背が高い。鎧をつけている——金属製ではなく、革と布を組み合わせたもので、動きやすさを優先した造りだ。腰に剣がある。背中には弓を背負っているが、その弓が——少し、くたびれている。長く使い込まれた弓で、弦が変色し、木部には細かい傷がある。ただ、握り手のあたりだけは深い艶がある。毎日、同じ手で握られ続けた証だ。
顔立ちが鋭い。耳が長い——エルフだ。金色の髪が短く切られていて、顔の輪郭がはっきりしている。切り方が雑に見えて、実は首筋の線を邪魔しないように調整されている、そういう短さだ。目も金色だ。フェンリルの目とは違う金色で、こちらはもっと涼しく、澄んでいる。その目がヴォルターたちの去っていった方向を追ってから、アルダーに戻ってきた。視線の切り替えが早い。迷わない目だ。
「知り合いか」
「知り合いじゃない」女は言った。「ただ、やなやつ、ってことは一回見ればわかる。やなやつだけど、街の安全は確かに守ってる。物騒な出来事が起きてるから、仕方ないとは思う」
「そうか」
アルダーは床に落ちていた工具をもう一本拾って棚に戻した。それからカウンターに向かった。「いらっしゃい」
「あ、仕事中だったの。悪かった」女はドアを閉めながら入ってきた。閉めるときの手の動きは静かだったが、踏み込む足音には迷いがなかった。「セレニティー。冒険者ギルドに登録していて、主に街の依頼をこなしてる」
「アルダー」
「知ってる、さっきの会話少し聞こえた。私、耳がいいの」エルフの長い耳が、一度だけ、ぴくりと動いた。
「そうか」
「口数が少ないわね」セレニティーはカウンターの前に立った。店の中を見回した。視線が棚から天井に移り、炉を確かめ、また正面のアルダーに戻った。「看板の『炉は問わない。何者であれ』ってどういう意味?」
「注文は何でも作る、過去は詮索しないって意味だ」
「本当になんでも作れるの?」
「あぁ」
セレニティーはアルダーをじっと見た。冗談を言っているかどうか確かめるような目だ。確かめた結果、冗談ではなさそうだと判断したのか、一度だけ頷いた。頷き方が早い。判断を後に残さない性格が、その一つの動作に出ていた。決めたあとで揺り戻さない、というタイプだ。一度決めたら、それを前提に次の話に移る。
「それじゃ、話を聞いて……魔の森で商人が襲われた件、知ってる?」
「聞いた」
「エルウィン王子も、正騎士団と一緒に派遣されて、調査に行ったでしょ」
「聞いている」
セレニティーは一拍置いた。話す前に、どこまで話すかを自分の中で決めている、そういう間だった。カウンターに肘をついて、視線を一度だけ天井の梁に向け、それから戻した。
「アンデッドって噂が流れてる」
セレニティーは少し笑った。からかうような笑いではなく、なにかを面白がる笑いだ。口の端だけが上がり、目はまったく笑っていない、という種類の笑みだった。自分が何を知っているかを、相手に先に気づかせる笑い方だ。
「やっぱり、もう耳には入ってるんだね。——実はね、私もあの派遣パーティーに参加してた。冒険者として」
アルダーは腕を組んだ。「続けろ」
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