第七話 誰にも見られないのは、少し自由だ
鍛冶屋からの帰り道。夕暮れ時の街は、それなりに賑わっていた。
露店が並び、子どもが走り、買い物籠を持った女たちが立ち話をしている。日がかたむくにつれて商いの声は少しずつ高くなり、売り子が余り物を押し出す言葉が通りの奥まで届いていた。エルウィン王子失踪の騒ぎも、六日経てば庶民の生活には混じり込んでいる。話題にはなるが、足を止めるほどではなくなった。夕日の赤が石畳に長く伸びて、露店の布天蓋が橙色に染まっていた。どこかで肉を焼く匂いがして、その少し先では甘い果実の皮を剥く女の手元が、ちらりと光に反射した。
修道服の女が、フードをかぶって歩いていた。誰も見なかった。
ミラは人の波を抜けながら、視線が自分に向かないことを確かめた。隣を通り過ぎる人が、ほんのわずかに目を逸らす。逸らされている、という意識もないだろう。ただ、そちらを見ようとしない。肩が触れるほどの距離ですれ違っても、相手の目は自分を素通りした。通り過ぎたあと、振り返る人もいない。記憶の上に自分という痕跡が残っていない、ということが、歩幅の端々から伝わってくる。
不思議な感覚だった。
目立ちたくない、と思うようになったのはいつからだったか。修道院に入ったのは十五の年だ。それ以来ずっと、壁の中にいた。外に出るときは常に集団で、顔を見られる機会は少なかった。今回の役割——儀式への代理出席——は、正直、気が重かった。人の前に立つこと、人の目に映ること、そのすべてが、自分の中にある薄い殻を剥がすような気がしていた。剥がれた先に何が残っているのか、自分でもよく知らないまま、日だけが迫ってきていた。
でも今は、少し軽い。
ミラは露店の前を通った。花を売っている老人が、ミラの横をちらりと見て、また花に視線を戻した。視線が合わなかった。老人の指は花茎を束ねる動作に戻り、ミラの存在はもうそこにはない、というように、店先の静けさに吸い込まれた。
引き留められない。
呼び止められない。
そういう自由が、こんなに楽だとは知らなかった。肩に降りていた重さが、フードの布越しに少しずつほどけていくのを感じた。息を吐くとき、胸の奥で小さな何かが一緒に抜けていくような、そういう軽さだった。
路地に差し掛かったとき、男の子がこちらに向かって走ってきた。小さな子で、急いでいた。袖口に粉のようなものがついていて、帰り道の途中で何かを手伝わされていたのかもしれない。ミラの足元に何かを落として、そのまま走り過ぎようとした。
ミラは拾って、声をかけた。
布に包まれた小さな包み。木の実のような固い感触が、掌に伝わった。
「あの、落としましたよ」
男の子が足を止めた。振り返った。ミラを見た——見た。
珍しかった。
男の子は不思議そうな顔をしていた。フードをかぶった女が突然話しかけてきた、という表情だ。一瞬、目を細めるようにしてミラを見てから、それでも受け取った。小さな手が、ミラの掌に触れた。指先の熱が、ほんの一瞬だけミラに届いた。昼間ずっと走り回っていた手の、少し汗ばんだ熱だった。
「ありがとう」
その一言が、思いのほか、ミラの心に落ちた。
見えているときに受け取る「ありがとう」とは、少し違った。相手が自分を認識して、意思を持って言ってくれた言葉だ。向こうから自分の方に、まっすぐに差し出された言葉だった。それが、ちゃんと届いた。ミラはフードをかぶったまま、少しだけ微笑んだ。
誰にも見えなかったかもしれないが、構わなかった。男の子はもう路地の向こうに消えていた。夕日がその小さな背中を橙色に染めて、角を曲がった瞬間に影だけが残った。ミラはしばらくその角を見ていた。それから、歩き出した。足取りは、来たときよりも軽かった。石畳を踏む音も、来たときより一拍短くなっていた。
◆
同じ夕暮れの空の下、街の端にある教会の尖塔の先端に、犬の影があった。
フェンリルは四つん這いの姿勢で尖塔の頂点に腰を落とし、城壁の向こうを見ていた。つばの大きな古い帽子は風で後ろに落ちかけており、帽子の破れ目から垂れていた犬の耳が、今は風の方向に向けて立ち上がっている。尾だけが時折、短く揺れていた。尻尾の揺れ方は、いつもの気まぐれなものとは違う。一定の間隔で、短く、低く、用心深く。鼻先は、何度か小さく上下に動いた。
街の外には、ベイルの森が広がっている。
昼間は緑だが、今は暗い。夕暮れの光の中で、森はただ黒い塊として存在している。動いてはいない。音も聞こえない。だが。
フェンリルは鼻をひくつかせた。
風が来た。
城壁を越えて、街の空気に混じって、森の匂いが流れてきた。土と木と、それ以外の何か。もっと古いもの——生きているが、生きていない何かの匂い。獣がこの匂いを嗅げば、間違いなく身を引く。犬であれば、なおさらだ。フェンリルは、身を引かなかった。身を引く代わりに、鼻の奥で匂いを噛み砕き、喉の奥に落とした。味のある匂いだ。忘れてはならない種類の。
懐から骨の剣を取り出した。
白い刃が夕暮れを反射した。フェンリルはしばらくそれを見てから、刃の腹を舐めた。鉄の味はしない。骨の味がした。古い、深い、何かの記憶の味。舌の先に残る味を、もう一度確かめるように、ゆっくりと口を閉じた。口の中で、味が少しずつ広がっていく。甘くはない。苦くもない。ただ、深い。
『これで、よい』
胸の中で、低く唸るような声がした。それは彼自身の声ではなかった。骨の剣が、持ち主を得て、静かに呼吸を始めていた。剣の冷たさは、懐の布を通しても感じられた。冷たい、というより、こちらの体温を引き取って、静かに鎮まっていく、そういう冷たさだった。
尖塔の上で、犬の王は静かに夕暮れを見ていた。目は森の一点に据えられていた。何も見えない。何も動いていない。それでも、そこにいる。視線で触れれば、向こうも触れ返してくる——そんな気配が、たしかにあった。
城壁の向こう、ベイルの森の中に、何かがいる。
それはいつか、この街に来る。
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