第六話 千年前の話では、済まなくなった
——あれは、二日前のことだった。
王城の大広間。昼食の時間。
磨かれた長い食卓の中央には、白いクロスの上に今日の昼餉が並んでいた。スープの湯気が静かに立ち上り、焼いた鶏の香りが広間に満ちている。窓の外から差し込む昼の光が、磨かれた銀の食器に反射してちかちかと揺れていた。高い天井には陽が斜めに差し込み、柱の彫刻が長い影を床に落としている。広間の静けさは、重い布のように垂れていた。
食卓を囲む椅子には、十名ほどの人間が座っていた。
上座には国王エドバーがいた。五十を超えた年齢だが、背筋は真っ直ぐで、声には張りがある。白いひげを短く整えた顔つきは、老いても威厳を失っていない。その右隣には正騎士団団長ヴォルターが、書類を脇に置きながら椅子に座っていた。鋭い目を持つ痩せた男で、食事の最中にも何かを考え続けているような表情を崩さない。二人の背後には、王室侍従のノーマンが控えていた。六十歳。背は高いが、体には肉がなく、細身の影のように立っている。髪は後ろで縛られ、前に一本だけ、顔の横に細い束が垂れていた。目は灰色で、顔の筋肉は常に制御されているように、表情がほとんど動かない。動くことなく、ただそこに立っている。影そのもののように、静かに。
残りの椅子には大臣や顧問官が座り、誰もが適度な間隔で料理を口に運びながら、同時に言葉を交わしていた。城の昼食とは、そういうものだ——食事でもあり、会議でもある。匙の立てる音ひとつにも、序列がある。
「ヴォルター」エドバー王は匙をスープに沈めながら、正騎士団団長の方を見た。「エルウィン王子について、何か新しい報告はあったか」
ヴォルターは一瞬だけ視線を落とした。匙を皿の縁に置き、指を組んでから顔を上げた。
「……残念ながら、いまだ有力な手掛かりには至っておりません」
「そうか」
「ただ、捜索隊の範囲をさらに南方まで広げております。民間の情報提供についても、報奨金を増額したことで問い合わせが増えてきました。時間はかかりますが、必ずや」
「必ずや、か」エドバーは静かに繰り返した。責める声ではなかった。ただ、その言葉を確かめるように。「頼むぞ」
食卓の空気がわずかに重くなった。誰も言わなかったが、全員が同じことを考えていた——五日が経った。そして未だに何もない。時が経つほどに、返ってくる答えは少なくなる。それが捜索というものの現実だ。
大臣の一人が咳払いをして、話題を変えた。
「陛下、もうひとつご報告が」
男が脇から布を取り出して、卓の上に広げた。紙だ。大きな紙で、その上に精密な絵が描かれている。広げる手の動きがぎこちなかった。紙を卓の中央まで滑らせるとき、隣の皿に肘が当たりそうになって、慌てて直す。
一瞬、食卓の空気が変わった。
絵の中に描かれているものを、全員が見た。人のような形をしているが、人ではない。肉が腐り、骨が透けているような体。目のあるべき場所に空洞がある。それでも——立っていた。動いていた。絵の中でそれは、確かに何かに向かって動こうとしていた。筆致は震えていた。描いた者の手が落ち着かなかったことが、そのまま線に現れていた。
「これは」エドバーが低く言った。
「先日の襲撃事件に同行した、正騎士団のトッドという者が描いたものです。自身の目で見たものを、できる限り正確に写したと申しております。派遣組に同行していたノーマンの見たものと一致しています」
後ろでノーマンが頷いた。影のような位置から、一度だけ。その頷き方は、はい、と口で言う以上の重さを持っていた。目撃者の肯定は、絵の上の線を現実に引き寄せる。
食卓の全員が絵を見ていた。誰も皿に手を伸ばしていない。
ヴォルターが絵を引き寄せて、細い目でじっと見つめた。紙の端を指で押さえ、動かないように固定してから、顔を近づける。
「……やはりアンデッド、か」
その言葉が広間に落ちた。重い石のように。
「記録に残っているのは」一人の大臣が口を開いた。「一千年以上前のことです。大陸の北方で確認された、という記述がいくつか。それ以降は、文献上にも現れていない」
「一千年」エドバーは絵から目を離さず、静かに呟いた。「それが今、城壁の外にいると」
「ベイルの森の付近で、との報告です。新たに派遣した調査隊の目撃情報では、森の奥深くには千、もしくは万の数がうろついている可能性があります」
一瞬、誰かが息を呑む音がした。向かいの席に座っていた年配の顧問官が、匙を持ったまま動きを止めた。反対側の若い大臣は、無意識に襟元を緩めた。千、もしくは万。数字そのものが、脳が処理しきれる範囲を越えていた。
エドバーは視線をヴォルターに移した。
ヴォルターはすでに頷いていた。すでに次に打つべき手を考えていた、という顔だ。
「城壁の警備を増強いたします。外郭の巡回間隔を縮め、夜間は松明の数を倍にする。民がベイルの森に近づかないよう、通達も出しましょう」
「それで十分か」
「街を襲うかの確証がない以上、今は過剰に騒ぎ立てるより、静かに備えるほうが賢明かと。民が混乱すると、別の問題が生まれます」
エドバーはしばらく黙った。絵を見ていた。一千年前に文献の中だけに存在していたはずのものを、今の騎士が紙の上に写し取っている。その事実を、噛み締めるように。匙を持つ指が、ごく僅かに力を入れ直した。
「——わかった。ヴォルター、任せる」
「かしこまりました」
エドバーは匙を持ち直した。冷めかけたスープを一口飲んだ。食事を続けようとした。平時であることを、自ら示すように。
——そのとき。
右手が、止まった。
最初に気づいたのはノーマンだった。
エドバー王のすぐ背後に立っていた侍従は、エドバーの肩が小さく揺れるのを見た。ほんの僅かな動きだったが、それは食事の動作ではなかった。長年、この背を後ろから見続けてきた人間にしか、見分けられない類の揺れだった。ノーマンが「陛下」と声をかけようとした瞬間、エドバーの右手がゆっくりと胸元に向かった。
服を掴むように。
何かを押さえるように。
「陛下——?」
声が出た。しかしエドバーは答えなかった。顔色が変わっていた——血の気が引き、灰色に近い色になっている。口が少し開いた。何かを言おうとした、かもしれない。言葉は出なかった。その代わり、吐息だけが短く漏れた。まるで、何かを吸い込もうとして、吸い込めなかったような。
そのまま、椅子から崩れ落ちた。
「陛下!」
ノーマンが支えようとしたが、間に合わなかった。エドバーの体は椅子を滑り、床に倒れ込んだ。重い音がした。銀の食器が揺れ、スープが白いクロスの上に溢れた。白いクロスの上で、スープは黄色い池を作って広がっていく。
食卓が騒然となった。
椅子を蹴って立つ音。誰かが叫ぶ声。侍従たちが扉から飛び込んできた。近衛が剣の柄に手をかけながら前に出た。大臣たちが立ち上がり、われ先にとエドバー王の側に駆け寄った。皿の上に置かれた匙が、落ちて乾いた音を立てた。
ヴォルターだけが、一瞬動かなかった。冷静なのではない——あまりのことに、体が止まった。戦場で何度も修羅場をくぐってきた男が、食卓の上で起きた一つの倒壊に、追いつけなかった。それは一瞬のことで、次にはもう彼も立っていた。立ち上がるその動作は、しかし、いつもより一拍遅れていた。
「息はあるか」
「……はい、しております! でも意識が——」
「医師を呼べ。すぐに。侍女も呼べ。——エドバー王を寝室に運べ、この場で騒ぐな」
指示が飛んだ。人が動いた。エドバーは数人の近衛に抱えられ、広間の外へ運ばれていった。
人の波が引いた後、広間には食べかけの料理だけが残った。
スープはすっかり冷えていた。白いクロスの上のシミが、静かに広がっている。焼いた鶏の香りも、もう広間の中で居場所を失っていた。
誰も席に戻らなかった。誰も料理に手をつけなかった。ヴォルターは床を見ていた——エドバー王が倒れた場所を。そこには何もない。ただ、白い石の床があるだけだ。少し前までそこに王が座っていた、というだけで、その場所が持つ意味は変わっていた。
エドバー王は、それ以来目を覚ましていない。
◆
「……エドバー王は、大丈夫なのか」
ミラはしばらく答えなかった。答えを選んでいるのか、あるいは自分でもうまく言葉にできないのか。指が胸の前で一度組み直された。
「命に別状はないと聞いています、ただ……起きる気配がない、と」
「何が原因か、わかっているのか」
「わかっていないから、困っているのだと思います」
ミラの言葉には、伝聞以上のものが混じっていた。修道院に届く話というのは、城下で流れる噂よりも一歩早く、一歩深い。
アルダーは腕を組んだ。医師が診ても原因が掴めない、ということか。毒でも傷でも熱でもない何かで倒れた——そういうことになる。そういう類のものを、アルダーは知っている。体の外から来るのではなく、体の内側の、もっと奥のほうで何かが決まってしまう種類の不調。珍しくはない。ただ、王がそれに倒れるのは、尋常なことではない。
「アンデッドの話は、本当なのか」
ミラは少し間を置いた。目が一度だけ壁の張り紙の方を見てから、戻った。
「噂、かもしれません。ただ——」ミラは目を伏せた。「噂だとしても、ここ最近、城の外の様子がおかしいと言う人が増えています。夜に変な音がするとか、獣が近寄ってこなくなったとか。何もないとも言い切れない、という感じで」
アルダーは返事をしなかった。炉の奥で火が一度だけ爆ぜる音がした。火を見た。火は答えを返さない。ただ、燃えている。いつも通りの赤だ。だが、その赤の中にいる炉の精が、今日は妙に黙っていた。それが、アルダーには気になった。
アンデッド、エルウィン王子の失踪、そして今度はエドバー王が倒れた。点と点が何かを示そうとしているが、まだ線にはなっていない。『仕事と関係がない限り、線は引かない』——アルダーはそう自分に言い聞かせた。だが、頭の片隅にその三つが並んだまま、しばらく消えなかった。
それがいつか線になることを、この時のアルダーはまだ知らない。
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