第五話 火だけが、骨の扱いを知っている
夜になった。
街の音が遠のいて、炉の音だけが工房に残った。鉄が熱を吸う、ゆっくりとした呼吸のような音。外では風が石畳を舐めている。時折、遠くの通りで扉の閉まる音が一度だけ響き、また静けさに吸い込まれた。
アルダーは二つの素材を作業台の上に並べた。ミラの依頼の素材と、フェンリルの骨。どちらも今夜中に仕上げる。作業台の板は、長年の油と鉄粉で黒く染まっていた。その上に白い骨が置かれると、闇に浮かぶ三日月のように見えた。
「起きているか」
アルダーは炉の奥に向かって言った。
炉の中から、小さな光がぽっと灯った。赤い光。それが揺らいで、何かの形になった——小さな人影のような、炎のような、その中間のような何か。手足のようなものが時折見えるが、次の瞬間には消えている。輪郭は決して定まらない。
炎の精だ。アルダーの工房に住み着いている。名前は聞いたことがない。そもそも、この精は声を持たない。口のようなものはあるのに、そこから音が出たことは一度もない。代わりに、揺れる。炎の指で指し、輪郭を変え、揺れ方の強弱で伝える。アルダーは、それを会話として読む。慣れないと仕草とは思えない。アルダーは慣れていた。いつからそこにいたのかも、アルダーは覚えていない。ただ、炉を使い始めた頃から、火は少しだけ聞き分けがよかった。
「骨を鍛えてくれ」
精は炉の中でゆらりと揺れた。炎の指先のようなものが伸びて、骨の形をなぞる仕草をした。それから自分を指さし、小さく首を傾げるように揺れた。
「素材がわからん。感触を見てほしい」
精は骨の前に近づいた。炉から離れると光が弱くなる。陰の中で小さく光りながら、骨に触れた。指のようなものが骨の表面をなぞり、それから引かれる。
長い沈黙。炉の奥の炎が一度だけ大きく揺れて、また静かに戻った。
精が炎の腕で、骨の背をそっと撫でた。それから自分の胸のあたりを押さえ、ゆっくりと首を横に振るように揺れた。続いて、宙に長い弧を描いた。遠い時間を指し示すような動きだった。
「古い?」
精は頷くように上下に揺れた。それから犬のような形を一瞬だけ作り、すぐに崩した。骨を指さし、自分の頭のあたりに指を当てて、何かを抱くような動きをした。
「古い犬の命?」
精の揺れは、いつもより少しだけ低かった。炎がほんの僅かに沈み、赤の色が深くなっていた。
アルダーは腕を組んだ。何を覚えているのかは訊かなかった。骨の記憶は骨のものだ。訊いてしまえば、作業の手つきがそれに引きずられる。素材に情を寄せれば、鍛える温度が狂う。
「鍛えられるか」
精は骨を離れた。炎の指先を交差させ、一度だけ小さく揺れた。それから炉の炎を指さし、骨を指さし、両手を合わせるような仕草をして、最後に一度、頷くように揺れた。
「頼む」
精は炉に戻った。骨を持ち帰り、じっと座り込む——炎が一箇所に集まって、低く静かに燃える形になった。炉の奥で、赤い光が一つの点になった。
アルダーはフードの作業に移った。
目立たなくなるフード。材料は四つ。
帳根の繊維<とばりねのせんい>——深い森の底に生える苔の根から採れる繊維で、光を吸収する性質がある。触ると少し冷たく、絹よりも細い。これが布の基礎になる。束ねた繊維は、炉の明かりの下でも黒く沈んで見える。
月蛾の粉<げつがのこな>——月蛾は夜だけ飛ぶ蛾で、翅の粉が微弱な幻惑の魔力を持つ。直接食べると眠くなるが、布に混ぜると視線を逸らす効果がある。採取が難しい——月蛾は傷つけずに粉だけを採らなければならない。アルダーは先月、それを三匹分集めた。瓶の中で粉は微かに銀色に光っている。
囁きの影<ささやきのかげ>——これは物質ではなく、影そのものだ。暗い場所に長く置かれた布は、ときに影の記憶を宿す。その布から丁寧に影を剥がし取ったものを、縫い込む。影を剥がすのは繊細な作業で、強引にやると影が消える。アルダーは小さな鏡と先細りの針を使って、光の角度を計算しながら剥がした。剥がした影は黒い糸のように見えるが、触ると手応えがない。
煌鰻絹<こうまんけん>——川に棲む発光する鰻の腹から採れる絹状の素材。通常は光るのだが、他の三素材と合わさると光を消す。存在感を打ち消す働きをする。単独では使いものにならない素材で、これを混ぜる技を知る鍛冶屋は多くない。
アルダーは帳根の繊維を切って、月蛾の粉を少量ずつ撫でるように塗り込んだ。粉が繊維に染み込むまで、一針ごとに間を置く。急ぐと粉が飛ぶ。飛んだ粉は風に乗って散り、しばらくすると工房にいる者の視界が少しぼやける。アルダーは慣れているが、慣れていない者にはきつい。
次に囁きの影を縫い込む。
影は縫い針を嫌う。金属の冷たさを感じると、逃げようとする。アルダーは骨の針を使った。骨の針は影に対して中立だ——フェンリルが持ってきた骨を削ったわけではなく、別に保存してあった魚の骨を加工したものだ。細い。折れやすい。だから一本一本、慎重に。息を詰めて、布の織り目の中へ影を滑り込ませていく。
縫いながら、アルダーは考えた。ミラという女が何者かは知らない。修道院から、断れない公の役割のために出てくる。目立ちたくない理由がある。それだけだ。
『なぜ目立ちたくないのか——儀式への参加を強制されたが、自分がそこにいることを誰かに知られたくないのか。あるいは逆に、誰かに狙われているから顔を隠したいのか』
どちらの線でも、修道院の人間が表に出る理由としては大仰すぎる。そこが少し、引っかかった。
訊かなかった。
訊く必要はない。フードを頼んだ。作る。それだけだ。仕事の外側に踏み出す線を、今日もアルダーは引かない。
炉の前で、低い震えが空気に走った。精が骨を抱え込む炎の中から響く、骨が熱に反応している音だ。アルダーは手を止めずに耳を澄ませた。悲鳴のような音ではなかった——むしろ、眠っていた何かが目を覚ます音のように聞こえた。長く伏せていた獣が、ゆっくりと首をもたげるような、そういう気配。
最後に煌鰻絹を使って端を縫う。この絹は細工が面倒だ——つかもうとすると、微弱に発光する性質がある。光っている間は縫えない。光が収まるのを待って、また縫う。それを繰り返す。まるで気まぐれな生き物の機嫌を伺う作業だった。
アルダーは夜中の三時まで縫い続けた。
完成したフードは、作業台の上に置くとほとんど見えなくなった。布があることはわかるが、ある種の視線を持っていないと、目が素通りしてしまう。アルダーは確認のために、炉の精を呼んで指さした。
「見えるか」
精はフードの方を見た。ゆらゆら揺れた。目のようなものが一度瞬いた。それから、首を傾げるように小さく左右に揺れ、炉の方を見てから、また作業台を見た。見失っている。
「フードだ。見えるか」
精は再び作業台を見た。その瞬間、何かを思い出したように、一度だけ大きく燃え上がった。炎の指先が、何もないように見える空間を指さした。
合格だ。
◆
骨の剣が完成したのは夜明け前だった。
炉の精が、細長い光の固まりを作業台の前に運んできた。冷えると光は引いて、白い刀身が現れた。静かに、何かが形を決めたような現れ方だった。
骨の剣は金属に似た密度と硬さになったが、形は骨のままだ。刃は鋭い——アルダーは指先で軽くなぞって確かめた。切れる。切れるが、金属の剣とは何かが違う。叩いた音が違う。刃の揺れ方が違う。振ったときに、空気を切るのではなく、空気に受け入れられているような、そういう違いだ。
「うまくいったか」
精が炉の中で応えた。一度だけ、炎がちらりと立ち上がった。それから、首を傾げるように揺れ、両手を広げるような仕草をした。続いて骨の剣を指さし、自分の胸のあたりを撫でるように、柔らかく何度か揺れた。
「そうか」
アルダーは剣を布に包んだ。布越しに、まだ微かな冷気が残っている。布目を通して、冷たさが指に染みる。普通の刃物にはない感触だった。フェンリルは夜明けに来ると言った。
◆
夜明けに来た。
扉の外でしばらく躊躇している気配があって、それから三回扉が激しく叩かれた。足を使ったのであろう。木の板を下から突き上げるような、妙な叩き方だった。アルダーが扉を開けると、フェンリルは扉の外に立っていた。まだ薄暗い。空の端が白くなり始めている。夜の冷気がまだ石畳に残っていた。
「来た」
「見ればわかる」
アルダーは布包みを渡した。フェンリルは受け取って、布を解いた。骨の剣が朝の薄明かりに晒された。
フェンリルはしばらく無言だった。
金色の目が剣の白い刃を見ている。その目に何か複雑なものが混じっているのを、アルダーは見た。嬉しさではない。懐かしさでも、たぶん、ない。
もっと深いところにある何かだ。
『この男は、この骨が誰のものだったかを知っている』
尻尾は揺れていなかった。耳もぴんと立ったままだった。口を閉じて、剣の刃に落ちる朝の光を、ただ見ていた。
「……これで、よい」
低い声だった。さっきまでの威勢のよさとは違う、落ち着いた声。
「使い方は自分で考えろ」
「ああ」
フェンリルは剣を懐にしまった。それからアルダーを見た。金色の瞳が、朝の光の中でいっそう金色に見えた。
「名は何という」
「アルダー」
「アルダー」フェンリルは繰り返した。口の中で味を確かめるような繰り返し方だった。「覚えた。儂はフェンリル。約束は守る。お主が困ったときには来い」
「結構だ」
「遠慮するな」
アルダーは扉を閉めかけた。フェンリルが尻尾を振りながら去っていくのが、扉の隙間から見えた。さっきまでの静けさは消えて、また犬の尻尾だった。街の石畳に足音が響いて、路地の角を曲がったところで音が途切れた。朝の光が、その石畳を少しずつ白く染めていく。
◆
ミラが来たのは昼近くだった。
「おはようございます」
「昼だ」
「ああ、そうですね。すみません」
ミラは昨日と同じ修道服だったが、帯のあたりが少し変わっている。昨日より少しだけ、かしこまった格好だ。今日が例の公の役割の日なのかもしれない、とアルダーは思った。訊かなかった。ヴェールの下の表情も、昨日より少しだけ張り詰めていた。
アルダーはフードを渡した。
ミラは受け取って、広げた。見えなくなりかける。布の輪郭が、光の中で曖昧に揺らいだ。
「……あら」
「かぶってみろ」
ミラはフードをかぶった。
それだけで、ずいぶん印象が変わった。いる。確かにいる。だが視線が滑る。意識的に探そうとしなければ、存在を認識できない。顔の輪郭に霧がかかったように、焦点が合わなくなる。
「どうだ」
「……不思議な感じです」アルダーを見つめた目が、少し細くなった。「私が見えますか」
「見える」
「みなさんには?」
「みなさんとは何だ」
「あの、通りを歩いている方々には」
「それはやってみなければわからん」
ミラはフードをかぶったまま、店の外に一歩出た。通りを馬車が通っていく。御者が前を向いたまま通り過ぎた。ミラを見なかった。次に通りを歩いていた老婦人が、ミラの二歩前を通り過ぎた。それでもミラを見なかった。視線が一度もミラの方に向かないまま、老婦人は角を曲がって消えた。
ミラは店に戻ってきた。フードをずらして、顔を出した。顔を出すと、先ほどの「消えていた」状態が嘘のように、はっきりと目の前に現れた。
「すごい」
「試してみるといい。効果が出やすい時間帯と出にくい時間帯がある。正午前後は影が薄くなるから、効果が落ちる。夕方から夜にかけてが一番よく効く」
ミラはうなずいた。少しだけ、安堵の色が顔に差した。肩の力が、ほんのわずかに抜けたように見えた。
「ありがとうございます。それと——昨日の、犬の方ですが」
「犬の王、フェンリルだ」
「フェンリル様。あの方は、今日は」
「夜明けに扉を蹴ってきた。三回」
ミラがほんの少し笑った。口元だけの、短い笑みだった。
「あの方、骨のことをとても大切にしているようで」
「大切なのはそれだけではなさそうだが」
ミラは答えなかった。代わりに、壁に目をやった。視線が一点で止まった。
張り紙がある。エルウィン王子失踪の知らせだ。先週から貼ってある。アルダーは貼りかえていない。剥がす理由もない。
ミラはしばらく張り紙を見ていた。報奨金の額を示す数字の上で、目が動かなくなっていた。それから、ふと、声の調子を変えずに言った。先ほどの安堵が消え、最初に店に入ってきたときの、あの薄い気配が戻っていた。
「エドバー王が倒れたこと、ご存じですか」
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