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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四話 目立たないだけでは、足りない

扉が開いた。


アルダーは金床の上で鉄片の向きを確かめながら、入口の方を見た。誰もいない。通りの方に目をやっても、人影はない。


——風か。


そう思って視線を戻しかけたとき、カウンターの向こうに人影が立っているのに気づいた。いつの間に入ったのかわからない。足音も聞こえなかった。扉の鈴も鳴らなかった。それなのに、そこにいる。息を整える音も、衣擦れの音もなく、ただそこに立っている。


女だった。


年のころは二十半ばか。修道服のようなものを着て、頭には白いヴェールをかぶっている。手を前で組み、目を伏せていた。顔立ちは整っているが、その整い方が主張しない。見ようとしなければ、視線が滑って通り過ぎてしまいそうな——そういう顔だ。肩の線はまっすぐで、背筋も伸びているのに、不思議と存在そのものが薄い。


『……気配を消している。意図して、ではなさそうだが』


アルダーは布で手を拭きながら、一度だけ女の立ち位置を確かめた。扉から三歩、カウンターまで一歩。逃げるにも、踏み込むにも、ちょうどいい位置。本人が選んだのか、習慣でそうなっているのかは分からない。


「……いらっしゃいますか」


声は小さかった。質問というより確認のように聞こえた。


「いる」


アルダーは金床を布で拭いながら答えた。「で、何が入用だ」


女は少し間を置いた。前で組んだ手の指が、一度だけ動いた。言葉を選んでいる、というより、言葉そのものを探している動きだった。


「目立たなくなるものを作っていただけますか」



店の壁には、昨日から貼り紙がひとつ増えていた。


王都の各所に貼られている、例の紙だ。エルウィン王子失踪から五日。捜索への協力を求める内容に、ここ数日で報奨金の額が書き加えられた。金貨二十枚。それなりの額だが、手がかりはいまだにない、ということでもある。貼り紙の端は、すでに何度も人の指に触れられてめくれかけていた。


アルダーはその紙を一瞥して、視線を女に戻した。


「目立たなくなる、というのは」


「見えなくなる、ということではありません。ただ……その場にいても、誰かの記憶に残らないような。視線が自然に流れていくような。そういうものを」


女の目がちらりと上がった。伏せられた視線が、一瞬だけアルダーを捉えて、また落ちた。その一瞬だけ、瞳の色がはっきりと見えた。澄んだ、暗い緑。


アルダーは腕を組んだ。


『記憶に残らない、か。見えないより、そっちの方が難しい』


見えないものを作るのは、視線を反射させるか、像を歪ませるか、方法の問題だ。しかし「そこにいたのに覚えていない」は、もっと奥の仕組みに触れる。相手の認識のほうに働きかけるものになる。素材は限られる。


「修道院の者か」


「……はい、ミラと申します」


「アルダーだ。修道院なら目立つ必要もないだろう。塀の中にいれば」


「それが、今回は外に出なければならない用事がありまして」


「用事」


「公の、断れない役割がございます」


公の役割、断れない。アルダーはその言葉をしばらく転がした。修道院から誰かが表に出るとき、それが「断れない」ものであるなら——儀式か、証人か、あるいは何かの代役か。訊かなかった。客の事情を訊くのは仕事ではない。知ってしまえば、手の動きが鈍る。


「フードでいいか」


「はい、それで充分です」


「明日来い」


ミラはわずかに顔を上げた。今度はちゃんとアルダーの顔を見た。視線の合わせ方に、長く人と目を合わせずに生きてきた者の慎重さがあった。


「……ありがとうございます」


口角が少し上がった。それだけだったが、その笑みが顔の印象をまるごと変えた。さっきまで記憶に残らなかった顔が、急に鮮明になった。ああ、この人は綺麗な人だったのか——とアルダーは少し遅れて気づいた。


『笑うと、消せていた気配が表に出てくる。普段はずっと、それを抑えて暮らしているのか』


「代金はどうすれば」


「先払いでいい。素材が特殊なものになる」


ミラは懐から布包みを取り出した。布は白く、何度も洗った跡がある。包みを開くと、中に宝石がある。翡翠に似た色の、小指の爪ほどの石。光の差す角度で、内側に薄い縞が見えた。


アルダーは受け取って、掌の上で確かめた。石は見た目より重い。熱を吸わない種類の石だ。


「……足りん」


「え」


「釣りが足りない」


財布の中身を確かめると、銅貨が何枚かと鉄貨が少し。翡翠一個の半分を返せるだけの小銭など、今日は手元になかった。朝に仕入れで使ったばかりだ。


「困りましたね」と女は言った。困っているようには聞こえない、穏やかな声で。眉も動かなかった。


「明日渡す」


「では明日、また参ります」


ミラは一礼して、静かに出て行こうとした。その瞬間、目の前で扉の鈴が大きく鳴った。鳴りすぎたくらいだ。金属が割れるような、耳に残る音だった。


「うおおおおッ!」


何かが飛び込んできた。


勢い余って、最初の一歩は前のめりに手をついた。四本足で入ってきたようにも見えた。だが次の瞬間にはすっと立ち上がって、店の中を落ち着きなく歩き回っている。


若い男だった。体つきも、顔立ちも、どう見ても人間のものだ。ただし、つばの大きな古い帽子を深々と被っていて、その破れ目から、犬の耳が二つ、だらりと垂れている。腰の後ろからは尻尾が一本、左右に大きく揺れていた。服は、あちこちに穴の空いた古い貴族の洋服だ。素材だけは上質なのだが、長く手入れされていないらしく、色は褪せ、裾はほつれ、袖口はすり切れている。ズボンの裾から覗く足は裸足で、よく見ると人のそれではない。踵が高く浮いていて、指先には肉球のようなものがある。姿勢は少し猫背で、立っているのに前傾していた。直立しているつもりでも、心なしか四つん這いのほうが自然に見える、そういう佇まいだった。着こなしはどこか借り物めいていた。


アルダーは店に入ってきた男の行動を、目を細めながら見た。


男は、店の柱の匂いを嗅いでいた。くんくんと、鼻先を押し当てるようにして。それから、柱に片足を上げようとした。


「やめろ」


アルダーは低く言った。声を張ったわけではない。ただ、低く、短く。


男は足を止めた。途中まで上げた足が、そのまま宙で止まっている。それからくるりとアルダーの方を向いた。耳がぴんと立っている。目は金色だ。瞳孔が縦に細い。


「お主がここの職人か」


声は思いのほか低かった。雄々しい声だ。先ほどの奇声とは別人のような落ち着きがあった。


「そうだ」


「儂はフェンリル。犬の王だ」


アルダーはしばらくその言葉を咀嚼した。


犬の王。


『犬の王、という概念が、この国のどこにあったか』


アルダーは頭の中で、昔の覚書をめくった。獣の王を名乗るものは、伝承にはいる。だが、多くは比喩だ。本気で自分を「王」と名乗る者がいるとすれば、相当の自意識か、相当の本物かのどちらかだ。


「で、何が入用だ」


「剣が欲しい」


「剣なら武器屋に行け」


「武器屋のものではいかん」フェンリルは金色の目を細めた。「儂には、これから作ってもらわねばならぬものがある。素材はここに持ってきた」


フェンリルは懐——服の懐——から何かを取り出した。


骨だ。


長さは一尺ほど。白く、滑らかで、妙に光を帯びている。普通の獣の骨ではない。アルダーには何の骨かわからなかったが、その滑らかさと光沢は、何か強い魔力を宿したものの気配があった。骨の表面には、風化とは違う、内側から削れていったような筋が何本か走っている。


アルダーは骨を受け取って、重さを確かめた。軽い。しかし密度がある。掌に乗せた瞬間、微かな冷気が指先に伝わった。熱を吸う骨ではない。むしろ、こちらの熱を奪っていく種類のものだ。


「これから剣を作れと」


「そうだ。できるか」


「できるかどうかは確かめてみなければわからん」


「なら確かめろ」


アルダーは骨を作業台の上に置いた。置いたとき、木の板に乾いた音が立った。普通の骨より少し高い音。フェンリルはその間も店の中を歩き回っていた。棚の道具を鼻で確かめ、素材の瓶の蓋を開けようとして、アルダーに睨まれてやめた。それでも尾は止まらない。左右に、機嫌よく揺れている。


「代金はどうする」


「払う。儂はちゃんと払う」フェンリルは尻尾を揺らした。「信じるか?」


「信じるかどうかは関係ない。先払いだ」


フェンリルは口をへの字に曲げた。人の顔のはずなのに、口の端の下がり方は犬のそれだと、アルダーは観察した。感情が顔にそのまま出るタイプだ。


「……まあいい」


フェンリルは首に下げていたものを外した。指輪だ。細い鎖に通してあったのを、慣れた手つきで外す。


アルダーは手に取った。


見た目は質素だ。金でも銀でもない、くすんだ灰色の金属。装飾もない。しかし重さが、冷たさが、ただものではなかった。光に当ててみると、表面の下に、何かが静かに眠っているような深みがある。アルダーの手がほんの少し、ほんのわずかに、反応した——体の中にある古い感覚が、これは違うと言っている。


『金属の種類を、知らない。こんなものが、この国にあったか』


どこの物か、何のためのものか、アルダーは考えなかった。そういう性分ではない。考えない、というより、考える線を引かない。訊かれれば答えるが、訊かれなければ、それは鍛冶屋の仕事の外にある。


静かにカウンターに立っていたミラを見た。


「釣りが出来た」


ミラは少し不満そうだったが——当然だ、見知らぬ男から見知らぬ指輪を渡されても困る——黙って受け取った。指に通してみると、するりと馴染んだ。自分のために作られたかのように、ぴったりと。ミラの表情が微かに変わった。何かを感じたのかもしれない。しかし何も言わなかった。ただ、一度だけ指輪を軽く握って、それから手を組み直した。


フェンリルがそこで初めてミラの存在に気づいた。


両足を揃え、背筋を伸ばし、帽子の下で犬の耳がぴくりと動く中、品のある一礼をした。先ほどの柱の一件とは別人のようだった。動作の一つひとつに、作法らしきものがあった。


「お嬢さん、良い骨をお持ちか」


「持っていません」


「骨は?」


「持っていません」


「左様か」


フェンリルは鼻をひくひくさせた。何かの匂いが届いたのだろう。耳がぴんと立ち、尾が一度だけ大きく振れた。鼻先が、ほんの一瞬、ミラの方を向いて、それから反対側に逸れた。


「では失礼」


「明日の夜明けに来い」


「夜明けか」フェンリルは耳をぴんとさせた。


「剣は鍛える時間がいる。文句があるなら待つ」


「文句などない!」フェンリルはしっぽを激しく振った。「夜明けに来る。必ず来る」

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