第三話 魔の森に、何かがいる
——あれは、三日前の話だとガランは言った。
ヴァルムーア城での謁見の時間。貴族や役人、外国からの使節などが並んで順番を待っている、そういう日常的な謁見だった。広間の高い天井には長い陽が差し込み、床に磨かれた石が鏡のように光を返していた——そんな、これといって特別なことのない昼のひとときだ。エルウィン王子も同席していた。最近はエドバー王について謁見に出席し、政務を学ぶようになってきたのだと、城下でよく聞く話だ。若いとはいえ、物腰の静かな王子で、言葉を選ぶときに一度だけ視線を落とす癖があるらしい、などという噂までが、酒場の話題に上ることもあった。
そのさなか、正騎士団長のヴォルターが静かにエドバー王に近づいた。耳打ちをした。
謁見は突然中断された。
関係者だけが別室に呼ばれた。エドバー王、エルウィン王子、ヴォルター、それに執事のノーマン。広間に残された使節や貴族たちは、何が起きたのか分からずに顔を見合わせた。王が席を立つのは、珍しいことではない。だが、ヴォルター自ら耳打ちに入るのは、尋常なことではなかった。
ヴォルターが持ち込んだのは、急報だった。ヴァルムーア城下へ向かっていた商人の一団が、ベイルの森の手前で何者かに襲われた。死傷者が出た。だが問題は、その「何者か」の正体が、どうも人間ではないらしい、ということだった。生き残った商人の一人が、震える声でそう証言したのだという。盗賊の手口でもなく、獣の襲い方でもない。見たことのないものに遭った——そう繰り返したらしい。
ベイルの森。
ガランはそこで少し間を置いた。カウンターに置いた酒瓶の首を指でなぞりながら、誰かに聞かれていないかを確かめるように、一度だけ扉のほうに目をやった。
「知ってるか、ベイルの森」とガランは言った。「昔から魔の森って言われてた場所だ。あの森には、普通じゃないものが住んでいるって、伝説か迷信だって思われてたが」
ヴァルムーア王国の歴史は200年しかない。その前の記録はほとんどが失われており、魔族との戦いがあったなどの伝説や噂話だけが残っている。魔の森という名前も、残された数少ない書籍に書いており、子ども達が勝手に森に行かないために大人達が広めた名前だ。ただ確かに、ベイルの森はどこか不気味で何かが潜んでいるような雰囲気があった。
エドバー王は、調査を命じた。
正騎士団から数人、それに腕のある冒険者を複数人——合わせた調査隊を組んで、ベイルの森に向かわせることにした。
そこでエルウィン王子が申し出た。自分も行く、と。
「エドバー王は当然反対したらしいんだが」とガランは言った。「エルウィン王子がどうしても、ってさ。自分の目で見たい、って言ったんだと。危険があるならなおさら、民を守る立場の者がその危険を知らないわけにはいかない——みたいなことを言ったって聞いたぞ。なんか、らしいよな。その若さで」
アルダーは口をはさまなかった。布で部品を拭く手も止めなかった。ただ、一度だけ、視線がガランの顔を過った。
「エドバー王は折れた。ただし条件をつけた。ノーマン——長年王家に仕えてきた執事を同行させること。エルウィン王子の安全を最優先で守ること」
調査隊は翌朝、城を出た。
「それから、まだ何の報告もない」とガランは続けた。「発表もない。何を見つけたかも、森に何がいたかも。ただ——」
ガランは少し声を落とした。
「翌朝、城中に噂が広まったんだよ。エルウィン王子が行方不明になったって」
アルダーは黙っていた。
「正式な発表はない。王宮は沈黙してる。でも城下では誰でも知ってる。噂ってのはそういうもんだ。隠そうとするほど広まる」
ガランは肩をすくめた。肩の動きに合わせて、首にかけたばかりのペンダントがかすかに揺れた。
「まあ、俺には関係ない話だけどな。いち酔っ払いが首を突っ込むような話じゃない」
アルダーはカウンターを静かに拭いた。
「そうか」
「お前は? 気になるか?」
「客の話は聞く」
「それだけか」
「それだけだ」
ガランは笑った。喉の奥で短く鳴らすような、半ば呆れを含んだ笑いだった。
「お前、面白い奴だな」
「そうか」
「またくるよ」
「来い」
扉が閉まった。工房に静けさが戻った。
アルダーは布を折りたたんで棚に置いた。折り目を指でなぞって、元あった位置に揃える。変わったことは何もない、という風に。
エルウィン王子の話は頭の隅に引っかかった。が、特に何かするつもりはなかった。依頼があれば受ける。依頼がなければ作業する。それだけのことだ。『引っかかっていること』と『動くこと』のあいだには、アルダーの中で一本の太い線が引かれていた。その線を越える理由が、今日のところはなかった。
炉の火が、静かに燃え続けていた。橙の光が、壁に長い影を作っていた。
◆
その夜遅く、グレイストーン街の中ほどにある「赤鬣亭」という名の酒場では、夜が深まるにつれて客が増え、増えたぶんだけ騒がしくなり、騒がしくなったぶんだけ酒が進んだ。木の床板がきしむ音、誰かが卓を叩いて笑う声、酒瓶が転がる音——店の外にまで届くほどの賑やかさだった。窓から漏れる灯りは黄ばんだ金色で、外の石畳にほんの少しだけ温度を与えていた。
午前に近い頃、扉が開いて最初の客が出てきた。よたよたと歩いて、外の空気を吸って、満足したような顔をしてどこかへ消えた。
次に出てきた男は、扉の外に何かが倒れているのに気づかず、踏んだ。
「痛ッ」と言ったのは踏んだ男のほうだった。つまずいて危うく転びそうになったのだ。踏まれたほうは何も言わなかった。
石畳の上に、ガランが倒れていた。
正確には、寝ていた。
酒瓶を胸の上に大事そうに抱え、片腕を枕にして、足を斜めに投げ出して。新しい鎧を着たまま。口の端がわずかに上がっていて、何かいい夢でも見ているのか、寝息はゆっくりと深かった。
「邪魔だぞ」と出てきた男が言った。返事はなかった。男は舌打ちをして、ガランの頭を跨いで歩き去った。
また扉が開き、別の客が出てきた。今度は完全に踏んだ。ガランの腹の上を。
「ふぐ」
ガランは何かを言いかけたが、それ以上は続かなかった。目も開けなかった。踏んだ男は短く毒づいてよろめき、そのまま闇の中へ歩いて行った。
三人目が出てきて蹴飛ばした。爪先がかすかに鎧に当たった音が、夜の路地に小さく響いた。四人目が出てきてよろめきながら乗り越えた。乗り越える際に外套の裾がガランの顔をかすめたが、それすらガランを起こすには至らなかった。
ガランはそのあいだ、ずっと眠り続けた。
幸せそうな顔で。
鎧の素材が体温を保ち、石畳の硬さを和らげ、夢蛾の糸が作り出す眠りの膜が彼をくるんでいた。外の音が届いていないわけではない——それでも眠りが続いた。踏まれても、蹴られても、眠りが切れなかった。呼吸が深い。脇腹の鎧が、吸って吐くたびにほんのわずかに沈んでは戻る。鼾脂の効果だ。
「……うまい……もう一杯……」
店の灯りが顔に落ちていた。
満足そうな顔だった。
——その夜アルダーが知ったこと、ガランが語ったこと——まだそれは、点と点に過ぎなかった。それがいつか線になることを、この時のアルダーはまだ知らない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、ブックマーク・★評価で応援いただけると嬉しいです。




