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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第五十四話 エピローグ その3

——丘の上。


アンネローズとアルダーの会話の、斜め後ろ。


少し離れた場所に、小柄な老人が、立っていた。


くたびれたマントと、地味な服。耳には、いつもの耳栓。音楽は、今は、聴いていないのか、聴いているのか、わからない。老人は、耳栓を指で軽く触り、音量のつまみを、ちょっとだけ、下げた。


メギドだった。


彼は、アルダーの横顔を、しばらく、ただ見ていた。それから、ゆっくりと、足元の花を避けるように、一歩、アルダーの方へ寄った。花を踏まないように歩く、というのは、彼の世代にとっては、特に意識するまでもない作法だった。数千年の中で、足元に咲いた花を踏まずに歩く時間の方が、踏んだ時間より、はるかに長かった。


「まさかな」


メギドは、独り言のように、始めた。


アルダーは、答えなかった。


「王家に代々伝わっておった、あの復活の指輪」


メギドは続けた。


「あれを、あのミラという子に渡したのは——お前じゃろう」


倒木の上で、アルダーは、ただ、前を向いていた。


風が、二人の間を抜けた。花が揺れた。花の波の音が、ほんの一拍だけ、二人の沈黙に重なった。


「偶然だ」


アルダーは、ようやく言った。


「偶然じゃ、あの指輪が一人の娘の指にはハマらん」


「流通の間違いだ」


メギドは、淡々と、しかし、意味深に、問うた。


「お前は——どこまで、わかっておった?」


アルダーは、しばらく、答えなかった。


表情を、一つも、変えなかった。


少しの間が、あった。花の間を、蜂が一匹、低く飛んでいった。


「さぁ」


アルダーは、そう言った。


たった一音節だった。それで全部だった、とでも言うように、彼はその「さぁ」の後ろに、何も付け足さなかった。


メギドは、それを聞いて、小さく、笑った。


「お前は、そればっかりじゃな」


アンネローズも、くすりと笑った。


彼女は、アルダーから少し離れた場所に停まっている馬車に目をやった。荷台の低い、地味な造りの荷馬車だった。その荷台には、布で覆われた箱が幾つも積まれていた。炉の火床石、小ぶりの鉄床、鎚、鏨、やっとこ、砥石、革前掛け、工具袋。鍛冶屋一人分の工房が、そっくりそのまま、荷台に積まれていた。


アンネローズは、馬車から目を逸らした。


馬車を見た時間は、ほんの一瞬だった。それでも彼女の中で、その一瞬は、別れの長さで響いていた。


「それにしても」


彼女は、アルダーを見た。


「ひどい呪いね」


アルダーは、否定しなかった。


「呪いなのかしら?」アンネローズは、続けた。「どうすればそうなるの?どうしてあなたは、一つの街に、長くいられないの?」


アルダーは、膝の上の手を、ゆっくり、もう一度組み直した。


「——関係ない話だ」


それは、彼がいつも、依頼人たちに返してきた言葉だった。


しかしアンネローズは、依頼人ではなかった。杖を返された、一度だけの依頼人だった。そしてあのとき、彼女は、アルダーの顔を正面から見て、「あなたは——」と言いかけて、止めた。彼女は、何かを、気づきかけていた。


今も、気づきかけていた。


しかし、彼女は、それ以上踏み込まなかった。踏み込まないことが、長く生きてきた者の、もう一つの作法だった。気づいたものを、すぐに名指しで呼ばないこと。それが、相手の自由を、わずかでも、長く保たせる。


メギドが、その代わりに、口を開いた。


「わしも、数千年、生きておるがな」


メギドは、両手を、お手上げのような仕草で、軽く広げた。


「お前のような奴は、初めて見た」


アルダーは、メギドの方を見もしなかった。


ただ、風を、受けていた。


しかし、彼の口元は、わずかに——本当にわずかに、動いた。


それは、笑いに、近いものだった。


メギドは、その口元の動きを、確かに見た。見て、満足したように、息を吐いた。彼が出会った数千年の中で、こういう笑いをする男が「初めて」だったことに、彼は、少しだけ、得をした気分になっていた。長く生きていて良かった、と思える瞬間が、こうやって、たまに、訪れる。


アンネローズも、その動きを、見ていた。


彼女は、もう、追及をしなかった。代わりに、視線を、丘の下の街の方角へ、ゆっくり下げた。鍛冶屋の通りのある区画が、屋根の集まりとして、遠くに小さく見えていた。あの屋根の下に、たぶん、彼を待っている者たちがいる。彼女はそのことを知っていて、口にしなかった。



鍛冶屋の通りに、ミラとセレニティーが曲がってきた。


鍛冶屋のある区画は、午前のこの時間、普段は音が多かった。金床を打つ甲高い音、ふいごの呼吸、火の前で働く職人の掛け声。しかし今日は、静かだった。


異様に、静かだった。


ミラは、足を緩めた。


「……静かね」


「休みかしら」


「アルダーが休み?」


二人は、少し足を速めた。バスケットの中のクッキーが、布の下で、軽く揺れた。ワインの瓶が、セレニティーの腕の中で、こつんと、別の包みに当たった。


鍛冶屋の看板が、通りの先に見えてきた。「炉は問わない。何者であれ」の文字を模した看板。昨日まで、確かに、そこに、普段通りに掛かっていた、はずだった。


近づくにつれて、二人の足が、もう一度、遅くなった。


看板は、掛かっていた。


——掛かっていたが、ボロボロだった。


「……何、これ」


ミラは、そのまま、鍛冶屋の扉を見た。


扉は、元の場所にあった。


しかし、蝶番が、半分、壁から浮いていた。木部は、湿気で黒ずんでいた。取っ手の金具は、錆びた鉄屑の塊になっていた。


扉の向こうから、人の気配はあった。


しかし、それは、明らかに、昨日の鍛冶屋の気配では、なかった。


セレニティーが、先に、扉に手をかけた。


錆びた取っ手が、冷たかった。押した。扉は、ギギ、と、鈍い音を立てて、半ばで止まった。隙間に、肩を入れて、押し広げた。


「アルダー!」


二人は、同時に、店の中に、声を投げた。


店の中を見て——二人は、言葉を、一度、失った。


店内は、廃墟だった。


炉は、冷え切っていた。冷え切っている、というより、何年も前に火が落とされたかのような、黒い塊になっていた。石組みの炉壁は、ところどころ崩れ、赤い耐火煉瓦の破片が床に散っていた。金床は、錆で赤茶けていた。昨日まで磨かれていたはずの打面が、全面、鉄のかさぶたのような層に覆われていた。壁には、蜘蛛の巣が、何層にも重なっていた。床は、厚い埃に覆われ、その埃の上に、ついさっきつけられたらしい、複数の足跡があった。


その足跡の先に、人影が、並んでいた。


ガランが、中央に立っていた。


目を、見開いていた。酒で赤くはない、素のままの目だった。口は、開いたままで、言葉を探している顔だった。


その隣に、グロームがいた。太い腕を組み、顎を下げて、店の中を眺め回していた。困惑というより、困った時の料理人の顔——何を作るか考えているときの顔——に近かった。


トッドが、奥の壁の前にいた。蜘蛛の巣を、指で一本、取っていた。取っては、棚の縁に、そっと、なすり付けていた。彼の手は、それでも、何かを片付けることを、自然に始めていた。


そして、入り口の横に、エルウィン王子が、立っていた。


今の彼は、犬ではなく、人間の姿だった。銀髪は、昨晩の戦いのあとをまだ引きずり、額に細い包帯を巻いていた。しかし、背筋は、完全に、王子のそれに戻っていた。


その四人が、無言で、店の中を眺めていた。


ミラとセレニティーの入場で、全員の頭が、同時に振り返った。


「……ミラ」


ガランが、言った。


声は、低かった。


「悪いがな」


「なに?」


「——もう、アルダーは、ここにはいない」


ミラは、バスケットを抱えたまま、立ち尽くした。


「……え」


「昨日の夜、俺はここに来た」


「今朝、まだ、いたよね?」セレニティーも、ミラの隣で、同じ調子だった。「昨日の夜だって、ここに、いたよね?」


「いた」ガランが言った。「いた。確実にいた」


「じゃあ、何、この廃墟」


「それを——」ガランは、両手を広げた。「知りてぇーのは、こっちだ」


彼は、額を手で拭った。


「一人だけなら、俺の酒飲みすぎで、幻覚を見たと片付けられる。だが、五人で、同じ廃墟を見てるんだ。これは、俺の頭のせいじゃ、ねぇ」


エルウィンが、静かに、一歩、店の奥に進んだ。


足跡の一つに、彼は、膝を折った。


「……ガラン」


王子は、埃の上の足跡を、指で、そっとなぞった。


アルダーの足跡だった。


火を落とす前、炉の前に立っていた、一人の男の、最後の足跡。


ガランは、その足跡の前まで、歩いていった。膝を折った。足跡を、しばらく、見ていた。


それから、深く、長く、息を吐いた。


「……あいつ、な」


ガランは、誰にでもなく、言った。


「ちゃんと、火ぃ、落として、行きやがった」


それから、彼は、立ち上がり、振り返った。


顔は、困惑から、別の何かに、変わっていた。困惑ではあった。しかしその中に、何か、諦めに近い、柔らかいものが、混ざっていた。逃げ続けてきた男なら、別の逃げ続けてきた男の、最後の振る舞いが、よく見える。火を落とす、というのは、ただ消すことではない。次に来る誰かのために、灰の処理を済ませておく、ということだった。


彼は、セレニティーの持っているワインを、見た。


「セレニティー」


「はい」


「——そのワイン、今、開けていいか?」


セレニティーは、ガランを見た。ガランは、真面目な顔だった。


セレニティーは、少しだけ、笑った。


「いいわよ」


「じゃあな」ガランは、店の中央の、古い作業台を、拳でぽん、と叩いた。埃が舞い上がった。「テーブルは、これでいい。椅子はないが、まあ、床だ、床。——とりあえず、みんなで、飲むか」


誰も、反対しなかった。


トッドが、蜘蛛の巣を払い始めた。グロームが、腕まくりを始めた。


「よし、何か作る」


グロームは、言った。


「この炉でか?」エルウィンが、驚いた。


「炉はいらねぇ。外に持ち運び可能な炉があるから、取ってくる」


グロームは、ぬっと、店を出ていった。


ミラは、まだ、立ち尽くしていた。


バスケットの中のクッキーは、温度を、少しずつ、失っていた。胸の中で、何かが、抜けていくような感覚があった。アルダーは、いない。声をかける相手は、ここには、もう、いない。クッキーを、誰に渡せばいいのか、急に、分からなくなった。


セレニティーが、ミラの腕に、もう一度、自分の腕を絡めた。


戯れではなく、支えだった。


「……渡そう」


セレニティーは、低く、言った。


「クッキー、ここの、みんなに」


ミラは、目を、上げた。セレニティーを見た。それから、店の中の、四人を見た。


ガランは、ワインの瓶の栓を、開けようとしていた。


トッドは、棚の上に溜まった埃を、袖で拭おうとしていた。


エルウィンは、店の奥の、アルダーの仕事道具が並んでいたはずの棚を、ただ、見上げていた。


そして、その棚は、空だった。何も、残っていなかった。


ミラは、深く、息を吸った。


「……うん」


それだけ言って、ミラは、バスケットの布を、外した。


クッキーの匂いが、廃墟の埃の匂いの上に、ふわりと、広がった。バターと、砂糖と、蜂蜜の匂いだった。ガランが、ワインの瓶を持ち上げた手を、止めて、こちらを向いた。トッドが、埃の手を、止めた。エルウィンが、棚から、目を、ミラに移した。


「アルダーが帰ってきた時のための」と、ミラは、言った。「そのつもりで、作ったんだけど」


声が、少しだけ、震えた。


しかし、続けた。


「みんなで、食べよう」


誰も、反対しなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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