第五十三話 エピローグ その2
——丘の上。
アンネローズは、両手を広げたまま、アルダーに笑いかけていた。
花畑の上の風。無数の色。川のきらめき。森の若葉。遠くの鳥。
色は何百通りもあった。白、黄、薄紅、群青——名前のつかない中間の色。足首ほどの高さに咲き揃った花が、風の腹に撫でられるたびに、一斉に身をよじり、また戻る。その反復が、遠くで海の寄せ波のような音を立てていた。
全部、昨日までそこにはなかったものだった。
ベイルの森の黒い幹は、もうそこには見えなかった。代わりに、丘の縁から斜面の下にかけて、白と薄紅の波が、ゆるやかに丘を覆っていた。樹々の間にも花が侵入し、根元から、枝の先まで、緑の中に淡い色を点していた。「魔の森」と呼ばれていたものの輪郭が、一晩のうちに、すっかり別のものに置き換わっていた。
「——良い子たちね」
アンネローズは、アルダーに言った。
声に、少しだけ、湿りがあった。湿りを彼女は隠さなかった。隠す必要も、もうない場所だった。
「ベイルの森を、彼女たちが選んでくれるなんて。私は、一度しか、その話をしていないの。それも——ただの、あなたの店でたまたま会った少女達の前で」
「偶然だな」
アルダーは、短く言った。
「偶然かしら」
アンネローズは、アルダーを見た。アルダーは、アンネローズの方を見ずに、丘の下の花畑を見ていた。視線の角度を変えずに、一瞬だけ、まぶたを閉じて、また開けた。それだけだった。
「偶然ね」
彼女は、すぐにそう言い直した。それから、もう一度、同じ柔らかさで、笑った。長く生きてきた者が、偶然を「偶然」と呼ぶ時の、独特の柔らかさだった。
「そうそう——」
彼女は、思い出したように付け加えた。
「あなた、こんな所にいていいの?みんな、あなたのおかげだと思って、礼を言いたがっているわよ」
アルダーは、答えなかった。
膝の上で組んだ手を、一度、組み直した。
それだけだった。
風が、もう一度、丘を渡った。
アンネローズは、その答えにならない答えに、とくに何も問わなかった。代わりに、自分も倒木の隅に腰を下ろした。マントの裾が、足元の花の上に、ふわりと広がった。彼女の重さで、花は数本、潰れたようでもあったが、よく見ると、潰れたところからまた、別の蕾が、するすると伸びていた。願いの効果は、まだ、丘の上で、生きていた。
◆
街並みに、祭りの後の気配が残っていた。
石畳の上には、昨晩の紙吹雪の欠片がまだ少し残っており、清掃の老婆が竹のほうきを動かすたびに、白い紙と、色のついた紙が、午前の光の中で跳ねた。パン屋からは焼きたての匂いが流れ、八百屋の前には今朝の入荷を見にきた主婦たちの列があった。誰もが、昨夜の重い夜のことを既に「昨夜の話」として置き始めていた。広場の大蛇のことも、王宮の異変のことも、口には出されていたが、語り口はもう、笑いを含んでいた。
その通りを、ミラが歩いていた。
腕にバスケットを下げていた。布で覆われたバスケットの下で、焼きたてのクッキーがまだ温かかった。バターと、砂糖と、蜂蜜の匂いが、歩くたびに、ふわりと、ミラの周りに広がった。バスケットの底からは、布越しに、温度がじんわり、ミラの腕に伝わっていた。
フードは、かぶっていなかった。
いつもの深いフードは、肩に畳んで、バスケットの縁に載せていた。彼女は、ずっと顔を隠して街を歩いてきた。顔を晒して通りを歩くのとは別世界が今は広がっている。光が直接、頬に当たる。風が、髪の根元を、何の遮りもなしに、撫でていく。それだけのことが、まだ、新しかった。
角を曲がったとき、商店の軒先から八百屋のエジーが顔を出して、手を振った。
「ミラちゃん!」
ミラは、心臓が跳ねた。
「今朝のハーブ、ちゃんと取り分けておいたよ!帰りに寄りな!」
「——ありがとう!」
ミラは、慌てて手を振り返した。自分の声が、思ったより、ちゃんと外に出たことに、自分で驚いた。
その先の角を曲がると、子どもが二人、路地で遊んでいた。一人はミラの顔を見上げて、立ち上がった。
「この人、昨日の人!」
もう一人が、駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、願い事の人!」
ミラは、笑った。
「ちょっと違うけどね」
「花畑にしたんでしょ?」
「……あれ、もう広まってるの」
「母さんが、朝ご飯のとき言ってた!ミラさまが、世界を花畑にした、って」
「世界じゃないよ」ミラは笑った。「ベイルの森だけ」
「同じようなもんだよ!」
子どもたちは、目を輝かせて駆けていった。小さな足音が、石畳の上を、跳ねるように遠ざかっていった。
ミラは、しばらく、その後ろ姿を見送った。
自分の中で、何かが、静かに、変わっていた。
——人目を、避けなくていい。
それが、ミラの身に、ようやく、じわじわと馴染んできていた。逃げてきた長い年月が、丸ごと、肩の上から降りたわけではない。しかし、確かに、今、軽くなっていた。自分の顔を、見知らぬ人間に見られても、自分の足が、地面から離れなくなっていた。今までは、視線を浴びるたびに、足の裏が、石畳から半歩浮いていた。今朝は、その半歩が、ずっと地面にくっついていた。
『……変わったわね、私』
ミラは、胸の中で、誰に言うでもなく、そう呟いた。
その独り言の余韻を、しかし、中断する声があった。
「ミラーっ!」
後ろからの声だった。
振り返ると、セレニティーが通りを駆けてきていた。片手にワインの瓶、もう片手に、アルダーに届けるらしい小さな包みを抱えていた。ワインの赤が、午前の光の中で、ガラスの腹の中でゆっくり揺れていた。
「遅ーい!」
セレニティーは、ミラの腕に、ぴたりと、腕を絡めた。
戯れるような体重の乗せ方だった。ミラは一瞬、バランスを崩しかけ、笑った。
「セレニティーも遅いよ!」
「変なワインをもっていくわけには行かないでしょう。いいの探すのに時間かかっちゃった」
「アルダーが飲む前にガランが飲み干しそう」
「それかグロームが料理に入れるとか」
二人は腕を組んだまま、早足で歩き始めた。
セレニティーは、以前の彼女ではなかった。
以前の彼女は、一人で動き、一人で考え、一人で正義を貫いていた。「正しさ」という弓を武器として支えにしていた。その弓は、今でも、彼女を支えていた。しかしその隣に、今は、もう一本、違う形の支えがあった。
親友、という支えだった。
『——これ、初めてかも』
セレニティー自身、自分の変化に、実は、小さく驚いていた。腕を絡めるという行為を、彼女は以前、まともにしたことがなかった。戯れるという、この、意味のない接触。それが、こんなに安心するものだとは、思わなかった。長い旅の中で、武器は手放さずに来た。しかしこういう、武器ではない種類の繋がりは、彼女の手の中に、これまでなかった。
「急ごう、ミラ!」
セレニティーは、早歩きを、さらに早歩きにした。
「ガランも、グロームも、トッドも、もう先についてるかも」
「王子と、王、も?」
「そう、来るかもって話よ」
「……まじで?」
「まじよ」
「あの二人、来て大丈夫なの?国の一大事が、昨日の夜、終わったばかりじゃない」
「そこよ」セレニティーは、ニヤリと笑った。「——何者よ、アイツ。鍛冶屋一人に、国王まで押しかけるって」
「……本当に、何者なんだろうね」
二人は、笑った。
笑いながら、鍛冶屋の通りへと、角を曲がった。
足を、さらに、速めた。
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