第五十二話 エピローグ その1
丘の上に、風が渡っていた。
倒木の上に、アルダーが座っていた。
煤の匂いを体から完全に落とした男ではなかった。鍛冶屋の服のまま、腕まくりだけがほどかれていた。分厚い手はまだ胼胝だらけで、爪の下には炉の黒がうっすらと残っていた。しかしその手は今、何も持っていなかった。膝の上で組まれているだけだった。鎚を握っていない時のアルダーの手は、こうして見ると、思っていたより無骨で、思っていたより小さかった。
その前に、アンネローズが立っていた。
床まで届く深いグレーのマントは、彼女の足元の花を隠していた。日差しのある外に出ると、青白い肌は普段より明るく見えた。髪は風にほつれ、横顔の輪郭を撫でていた。マントの裾の刺繍が、風で持ち上げられるたびに、銀色に閃いた。
「——と言う感じで、反乱が失敗に終わり」
アンネローズは語っていた。
「王と王子も無事に戻り、国は平和を取り戻したわ」
彼女の声は、事務的というほど硬くはなく、感傷的というほど柔らかくもなかった。ただ、起きたことを正確に並べていく口調だった。長く生きてきた者の、出来事を出来事として置く話し方だった。
「正騎士団長ヴォルターは捕縛された。ノーマンは王子の手で——正確には、フェンリル・アイアンファングの手で——死んだわ。王国は朝までに落ち着きを取り戻した。死者の数は思ったより少なかった。怪我人は多かったけれど。城壁の外にいたアンデッドはもう現れることはないわ。——杖が戻ったから」
アンネローズは、肩のあたりの布を押さえた。風に飛ばされそうな仕草だった。マントの内側で、銀色のものが一瞬だけ光った。腰の帯に下げた、細長い杖の先端だった。長い旅の終わりに、ようやく彼女の手元に戻ってきたものだった。
アルダーは、答えなかった。
倒木の上に座ったまま、眉の上に手をかざして、遠くを見ていた。丘の斜面を下った先には、細い川が光っていた。川の向こうには、街がある。鍛冶屋アルダーの工房がある街。今朝、店の戸を開けた時に、いつも通り煤を払って炉に薪をくべた、あの街だ。
アルダーは、しばらく黙っていた。
それから、ふと、低い声で言った。
「それで」
アルダーがアンネローズに問いかけた。
「三つ目の願いは、なんだ?」
アンネローズは、一瞬だけ、口を開こうとして、やめた。
それから、言葉で答えずに、小さく笑った。笑いながら、目を細めた。長い時間を生きてきた女の、年齢を感じさせない笑いだった。
彼女は、足元の花の間から一歩踏み出した。マントの裾が花を撫で、花は波のようによろめき、また戻った。アンネローズは両手を広げた。くるり、と、その場で一回転した。マントが円を描き、花弁が数枚、風に舞い上がった。回転の最後で、彼女のグレーのマントが、わずかに地面から浮き、また落ちた。
「これよ」
彼女は、丘を指した。川を指した。森を指した。空を指した。
「これ、全部」
風が、丘を渡った。
アルダーの目が、彼女の指の動きを追って、丘から、川へ、森へ、空へ、と、ゆっくり移った。それから、もう一度、足元に戻ってきた。足元には、彼女のマントの裾を縁取って、無数の花が咲いていた。白、薄紅、青、淡黄。夏でもないのに、季節を超えた花々が、その丘の上にだけ、密集して、開いていた。
アルダーは、何も言わなかった。
ただ、口の端を、ほんの僅かだけ、上げた。それは普段、炉の前で、出来上がった刃を初めて手に持つときに見せる、彼の唯一の表情だった。気に入った時の、笑い方だった。
◆
——あれは、昨日の夜のことだった。
広場の大蛇は、黄金の目で二人を見下ろしていた。
ミラとセレニティーは、石畳の上に立ち尽くしていた。二つ目の願いを口にしたあと、二人の手はまだ繋がれたままだった。指は互いの力で少し白くなっていた。どちらも放す気はなかった。離せば、二人とも今夜の重さに潰されてしまう、と、どちらの体もどこかで知っていた。
王の回復を願った。その余韻が、石畳の裂け目の奥から、まだ、細い振動になって立ち上がってきていた。
大蛇が、息を吐いた。
それだけで、広場の篝火の炎が、全部、同じ方向に倒れた。
「二つ目は、叶えた」
大蛇の声は、前ほど威圧的ではなかった。どこか——疲れているような、面倒くさそうな響きがあった。先ほどまで地を震わせていたあの低音が、わずかに、老人のそれに似てきていた。三つの願いを叶えるという作業が、この古い存在にとっても、それなりに重いものなのだろう、と、ミラはぼんやりと思った。
「三つ目を、伝えよ」
ミラの指に、力が入った。
セレニティーは、隣で、ぴたりと動きを止めた。顔は青白かった。震えはなかった——が、息が、止まっていた。
「……ミラ」
セレニティーが、小声で言った。
「なに」
「三つ目……」
「何か、思いつく?」
「ううん」
セレニティーは、正直だった。彼女は、ごまかすのが下手だった。
「思いつかない。何も、思いつかない」
ミラも、正直だった。
「……私も」
二人は、互いの顔を見た。
ここで何か願えば、世界を破壊することすら可能な力だった。一つ目で王子が戻った。二つ目で王が目を覚ました。三つ目は、二人が手にした、人生で最も大きな一つの「選択」だった。
そしてその大きさが、逆に、二人の頭を真っ白にしていた。大きすぎる選択肢の前で、人は、選択肢の在処そのものを見失う。願える、ということが、こんなに困った事態を生むとは、二人とも、想像していなかった。
「富を?」セレニティーが言った。
「いらないわ」ミラが即答した。
「……うん、いらない」
「地位?」
「いらない」
「永遠の命?」
「怖い」
「……でしょうね」
二人はしばらく、ぶつぶつと、思いつく願いの候補を口にしては、片っ端から却下していった。出てくる願いは、出てくる端から、どれもこれも「自分の得」のためだった。そしてそのどれもが、二人の胃の底で、重く、冷たく感じられた。願いは大きいほど、それを「自分のため」に使った時の後味の悪さも、比例して大きくなるのだった。
大蛇は、待っていた。
待ちながら、首の角度を、ほんの少しだけ、傾けていた。蛇の目には、感情らしきものは読み取れない。それでも、その傾きには、わずかな、面白がる気配が混じっているようでもあった。
ミラは、一度、口を閉じた。
口を閉じて、思考を止めて——ただ、自分の内側を聞いた。
広場の焚き火の匂い。石畳の冷え。セレニティーの手の温かさ。指輪の脈打つ光。
それから、さらに、内側。
自分が、これまで、フードをかぶって逃げてきた理由。人目を避け続けてきた日々。そして、それを脱がせてくれた、グレイストーンの街。アルダーの鍛冶屋の、煤の匂い。グロームの料理。ガランの笑い声。トッドの声のひっくり返り。そして——
——ベイルの森。
黒い幹の、薄気味悪いと呼ばれてきた森。街の人は「魔の森」と呼んで恐れていた。しかし、アルダーの店で、長いマントを着た、青白い肌の、美しい女が「いつか、この森に、花畑を作りたい」。女は、そう言った。あの時、ミラはその言葉を、特別なものとも思わずに聞いていた。それが今、夜の広場の真ん中で、彼女の中の他のすべての記憶の上に、ふわりと浮かび上がっていた。
ミラは、セレニティーの袖を引いた。
「セレニティー」
「うん」
「花畑」
セレニティーは、一瞬、ポカンとした顔になった。
「……えっ?」
「花畑」
「……花畑?」
「ベイルの森の、花畑」
セレニティーは、首を傾げた。頭の上に、ほぼ、はっきり見える形で、クエスチョンマークが浮いていた。
「ごめん、ミラ、わたし、まだ話についていけて——」
「元魔王軍の——」ミラは言葉を探した。「あの、綺麗な人の、願い」
セレニティーの目が、一拍遅れて、大きくなった。
「——あっ!」
声が、小さく出た。
セレニティーは、ミラが何を言っているかを理解した。彼女もその話を聞いた時にアルダーに店にいた。マントの女が、煤の匂いの工房の中で、低く「花畑を作りたい」と呟いた瞬間。そこにいた誰一人として、その願いを真剣に聞いた者はいなかった——いや、ミラだけが、聞いていた。胸の中の、どこかの引き出しに、その言葉を、しまっていた。
そのすべてが、今、一度に、セレニティーの中で繋がった。
世界を破壊することすらできる願いを、世界の一角を美しくすることに使う——それは、力の逆算だった。一番大きな力を、一番小さな善に使う。三十年逃げ続けてきた男が、たった一人を守るために剣を握ったのと、どこかで同じ形をした選択だった。
ミラと、セレニティーは、顔を見合わせた。
どちらも、もう、迷う顔をしていなかった。
二人は大蛇に向き直った。手は、まだ繋いでいた。
「せーの」
ミラが、小さく言った。
「せーの」
セレニティーが、受けた。
二人は、声を合わせた。
「私たちの最後の願いは——!」
石畳が、二人の声を受けて、わずかに振動した。
「ベイルの森を、花畑が似合う美しい森に!」
大蛇の目が、ほんの一瞬、細まった。
そして、黄金の光が、脈打つように、一度だけ、強く、強く、強く——全部、一度に膨らんで、それから、音もなく、森の方向へ、流れていった。
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