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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第五十一話 結末に、待っているもの

広場では、ミラとセレニティーが、大蛇の前に立ち尽くしていた。


一つ目の願いを伝えて、何秒が経ったか、二人にはわからなかった。感覚的には、もう五分くらい待っている気がした。しかし広場の人は誰も戻っていないし、王宮から誰かが駆け下りてくる気配もない。願いは確かに口にした。声は確かに大蛇に届いた。届いたはずだった。それでも世界が動いた手応えが、二人にはまだ感じられなかった。


「……戻ってない」


ミラが、小さく言った。


「何が」


「王子」


セレニティーは、大蛇を見上げた。


大蛇は動かなかった。黄金の目がじっと二人を見下ろしているだけだった。蛇の口は、閉じていた。閉じた口の隙間から、低い息の音が、波のように広場に広がっていた。


セレニティーは、思い切って、声を張った。


「王子は、戻ったの?」


大蛇は、答えなかった。


数秒の沈黙。


それから、大蛇の喉の奥から、低い唸りが漏れた。


「疑うのか」


地を震わせる声だった。さっきより、低く、威圧的だった。疑われたことを、侮辱と感じているようにも聞こえた。広場の石畳が、その声の振動で、わずかに揺れた。露店の柱が震え、石畳の窪みに溜まっていた水が、一瞬だけ波立った。


ミラとセレニティーは、同時にビクッと肩を上げた。


「——失礼しました」ミラが慌てて言った。


「二つ目の願いを、伝えろ」


大蛇の声が、催促した。


二人は、顔を見合わせた。


ミラは、自分の指輪を見た。まだ脈打っている。赤黒い光が、弱く、強くなり、一度目の時より、少しだけ頻度が減っていた。残りは二つ、ということなのかもしれなかった。指輪の脈拍に合わせて、ミラ自身の心臓も、少し速く打ち始めていた。


ミラは、セレニティーに視線を向けた。


「今度はあなたが、決めて」


セレニティーは、驚かなかった。


すでに、決めていた顔だった。彼女は、ミラに向かって、小さく頷いた。長い旅の中で、二人は何度も、こういう顔を交わしてきた。言葉を必要としない、視線だけで決まる順番というものが、二人の間には、いつのまにか出来ていた。


それから、大蛇の黄金の目を、真っ直ぐに見返した。


背筋を伸ばした。震えはあった。しかしその震えを、彼女は止めようとしなかった。震えながら、声を上げた。震えたまま声を出すことが、たぶん、彼女の生き方だった。


「私の願いは——!」


声が、広場の石畳を渡った。


「王の回復!」



——同じ瞬間、王の寝室で、エドバーの瞼が、動いた。


動いた、というよりは、開いた。


外から溢れる赤い光の中で、深い金色の目が、ゆっくりと焦点を結び始めた。長く深い眠りから、まるで深海の底から泡が一つだけ浮き上がるように、王の意識が、ゆっくりと水面に戻ってきた。


そして、寝台の反対側では、ヴォルターが、ガランを床に押さえつけていた。


最後の一撃のために、剣を振りかぶった、その瞬間——


ガランは、血だらけの顔で、床に転がっていた。


フラフラだった。全身から血が流れていた。頭からも血が垂れていて、視界が半分塞がれていた。足の力も、もう残っていなかった。ヴォルターの足払いで倒れ込み、起き上がろうとしても、体がついてこなかった。三十年のブランクと、石段で受けた傷と、寝室での激しい交錯が、ガランの体力を、ここまで削り切っていた。


ヴォルターは、ガランを見下ろしていた。


「もう、終わりだ」


ヴォルターは、それだけを言った。


剣を、両手で振りかぶった。


虫ケラを潰すような眼差しだった。戦友としての感傷は、もうそこにはなかった。目の前にいるのは、逃げ続けた男だった。三十年前に自分と並んで走った男ではなく、その後の三十年で、酒と自堕落に沈んだ男だった。ヴォルターの剣は、その男の頭上に、ゆっくりと持ち上げられた。


ガランは、頭から垂れる血の隙間から、ヴォルターを見上げていた。


ガランからは目の前のヴォルターが死角となり寝台が見えなかった。


ただ、そこで横たわっているであろうエドバーの事を思った。月光の中で、王の胸はかすかに上下して眠っている。眠ったままだ。


——守れなかった、とガランは思った。


——ここまで、来たのに。


逃げ続けた末に、たった一晩、逃げないと決めて駆け抜けた。その夜の終わりが、これか。階段で五人を倒した時に手の中に戻ってきた感覚は、本物だったはずだ。それなのに、ヴォルター一人を、止めきれなかった。三十年を空費していた目の代償は、結局、戦友よりも一段、低い場所にしか戻していなかった。


ヴォルターの剣が、最高点に達した。


振り下ろされる寸前——



陶器の、割れる音がした。


鈍い、ぶつかる音が、それに続いた。


ガランの視界の中で、ヴォルターの体が、おかしな方向に傾いた。剣を振り下ろそうとしていた腕が、途中で止まり、力を失った。膝から、そのまま崩れ落ちた。


ヴォルターの背後に、誰かが立っていた。


寝巻き姿の男だった。


白いものが多く混じった髪。頬に皺。手には、縁が割れた陶器の壺の残骸。長年、エドバー王の寝室の窓際に置かれていた、古い花瓶だった。今はもう、上半分がなく、縁が鋭く欠けて、男の手に残っていた。


エドバー王が、そこに立っていた。


寝間着の胸の上で、小さな金属のペンダントが、外からの光を受けて、微かに光っていた。逃げ続けた男が、墓石の前で外して渡したあのペンダント。今夜、その金属の小片が、王の命と、戦友二人の命を、同時に救ったところだった。


ガランは、頭の血を手で拭った。視界が少し戻った。


「……やっと」


息が、声にならなかった。一度、咳き込んでから、もう一度。


「やっと、起きたか。おいぼれ」


ガランは、背中の向こうの壁に、もたれかかる形で座り込んだ。安堵が、全身の傷に染みた。溜め込んできた緊張が、その一言を吐いた瞬間に、傷口から一緒に流れ出ていったような感覚だった。


エドバー王は、部屋を見渡した。


寝台は乱れ、家具は倒れ、キャンドル台座が床に転がっている。ヴォルターが、頭から血を流して、足元に倒れ伏している——致命傷ではないのが、すぐにわかった。呼吸はあった。


王は、しばらく、その様子を眺めていた。


寝起きだった。意識はまだ、半分しか戻っていなかった。それでもエドバーの目は、自分の親友が床に倒れている事実と、もう一人の親友が壁にもたれて血だらけで笑いかけている事実を、正確に把握していた。王として人を見続けてきた目の習慣だった。


それから、割れた壺をゆっくりと床に置き、両手を腰に当てた。


「もう少し、静かに戦ってくれ」


エドバーは、言った。


「うるさくて、寝れやしない」


一瞬の間があった。


「それに、正義のヒーローは、最後に登場するのが相場だろう」


それから、ガランが笑った。


最初は、かすかな笑いだった。肋骨が痛むのか、途中で咳になり、咳がまた笑いになった。血で汚れた頬に、涙が混じった。笑いながら、泣いていた。泣きながら、笑っていた。閉じてあったものが、その笑いの中で、ようやく外に出てきた。


エドバーも、笑い始めた。


王の笑いは、ガランの笑いより静かだった。しかし、確かに、笑っていた。謁見の間で、煙の中で、若いエドバーが「遅かったじゃないか」と冗談を言った時の、あの軽さが、まだこの男の中に残っていた。国を背負ってもなお、すり減らさずに残した、軽さだった。


寝室の月の光の中で、二人の笑い声が、長い時間、続いた。


床の上で、ヴォルターは倒れたまま、動かなかった。



窓の外に、赤黒い光が、まだ脈打っていた。


しかしその光の中で、大蛇の黄金の目は、今、穏やかに細められていた。


広場では、ミラとセレニティーが、互いの手を握っていた。


二人の足元に、まだ二つ目の願いの余韻が、石畳を震わせていた。


三つ目の願いが、まだ、残っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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