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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第五十話 逃げた代償は、実力の差

——寝室に、沈黙が降りていた。


ヴォルターは、エドバーの首のペンダントを見ていた。


ガランは、扉の前で、剣を構えた。


「毒から身を守るペンダントだ」とガランは言った。「あの鍛冶屋——アルダーって男が作ったものさ」


「……」


「そのペンダントが王を守ってるんだろうな、後で酒と一緒にアルダーに礼でも言いに行くか」


声は軽く聞こえるよう努めて発した。三十年、酒場で軽口を投げ続けてきた習慣が、こういう時にも口を動かしてくれるのは、ありがたいことだった。少なくとも、ヴォルターの注意の半分を、自分の方へ向けられる。


ヴォルターが剣を持ち直し、低く息を吐いた。


「何の話だ。お前は、ここで散るだけだ」


ヴォルターが、踏み込んだ。



剣が、剣を受けた。


狭い空間だった。王の寝台を挟み、窓際の家具を避け、二人は立ち位置を選ぶ余地のない中で刃を交えた。最初の一合で、ヴォルターの力の強さが、ガランの腕に直接伝わった。


重い。


ヴォルターの剣は重かった。ただの重さではない——休まず訓練を続けてきた男の剣だった。剣の重さに、一分の緩みもない。ガランの剣は、石段で五人を倒したばかりの剣だった。しかし対峙する相手が違った。


ヴォルターは、ガランが知る中で、最強の剣士だった。


訓練場で、毎朝向き合った男だ。あの頃でさえ、ガランは僅差でヴォルターに後れを取ることがあった。その僅差が、今、決定的な距離になって、ガランの腕に伝わってきていた。


「鈍っているお前に、私が倒せるはずがない」


ヴォルターは、そう言いながら、二合目を打ち込んできた。


ガランは弾いた。弾いたが、腕の付け根に痛みが走った。ヴォルターの剣筋を、ガランは完璧に読めていた。若い頃から何千回と打ち合った相手だ——読めないはずがない。しかし、読めても、止められないことがある。技量の差が、距離を埋めさせなかった。


三合目。四合目。五合目。


ガランは、家具の影を使った。寝台の脚を挟み、椅子を蹴り飛ばし、ヴォルターの間合いを狂わせた。それでも、じわじわと、ガランは追い込まれていった。寝台と窓と壁に挟まれた狭い区画の中で、後退できる方向は、もう、半円分しか残されていなかった。


——救える友が、目の前にいるのに。


走りながら、ガランの中で、誰かが叫んでいた。


——怠慢が、今、ここで、全部、ツケを回してきている。


階段で五人を倒した感覚は、本物だったはずだ。三十年前の目が戻った瞬間も、夢ではなかったはずだ。それでも——その「戻り」は、ヴォルターという男一人に追いつくには、遠かった。たった一晩の決意で埋まる距離ではなかった。それを、彼の腕の付け根が、痛みとともに、教えてきていた。


ガランは、振り返り、ヴォルターに背を向けたまま、近くの棚にあった鉄のキャンドル台座を掴んだ。真鍮製の、大ぶりのもの。彼はそれを、振り返りざまに、ヴォルターの手元めがけて投げた。


ヴォルターの剣が、それを払おうとした。


払いかけて——剣の腹に、台座が当たった。


ヴォルターの剣が、手から離れた。


石の床に、乾いた金属音が鳴って、剣が滑った。寝台の脚の下まで、剣は転がっていった。


ガランは、それを見逃さなかった。


駆けた。剣を突き込む形で、ヴォルターの胴に向けて、全体重を乗せて突進した。これが最後の機会だ、と体が知っていた。一合の差を、技量ではなく、状況で埋めるための一撃。


ヴォルターは、手ぶらだった。


それでも、何でもないような顔で、横に半歩身を流した。ガランの突きは、彼の脇腹の鎧をかすめるだけで、ほとんど空を突いた。そしてガランが通り過ぎた瞬間、ヴォルターの拳が、ガランの腹に入った。


息が、抜けた。


ガランは膝を折った。折る前に、髪を掴まれた。顔を上に引き上げられた。目の前に、ヴォルターの顔があった。感情のない目だった。過去に共に走った戦友の顔ではなく、ただの執行人の顔だった。


そしてヴォルターの手元に——鎧の隙間から引き抜かれた、短いダガーがあった。


ガランの首元に、その刃が当たった。


冷たかった。鎧の下に潜ませてあった刃は、まだ夜の冷気を含んでいた。皮膚と刃の間に、紙一枚の隙間もない。少しでも力が入れば、頸動脈は割れる。


「弱すぎるぞ、ガラン」


ヴォルターの声は、静かだった。


「お前はエルラの死後、逃げることを選択したのだ。今更戻ってきても、お前にできることは、何もない」


「……」


「死ね」


ダガーが、首に食い込もうとした、その瞬間。


窓の外が、赤く、染まった。



不気味な赤い光が、寝室の窓を満たした。


夕焼けの赤ではなかった。鉄の錆の色の、暗い赤。それが脈打つように、強く、弱く、広場の方向から放たれていた。光は、寝室の青い闇を上書きするように、家具の影を、寝台の襞を、王の寝顔を、すべて赤く染め直した。


その光の中に、何かが、立ち上がった。


黄金の目。


建物の三倍はある、蛇の体。


ヴォルターのダガーを握る手が、一瞬、緩んだ。


ほんの、一瞬だった。


しかし、ガランには、十分だった。


ガランは体を回転させた。全身の力で、ヴォルターを押し返した。ヴォルターは後ろにたたらを踏み、寝台の脚にぶつかった。ガランは距離を取った。落ちていた自分の剣を拾い、構えた。首の傷を、左手で押さえた。指の隙間から、温かい血が滲んで、鎧の襟元を伝った。


「無駄なことを」


ヴォルターは、体勢を戻した。床に落ちていた自分の剣のところに、ゆっくりと歩いた。屈み、拾い上げ、握り直した。余裕の動きだった。窓の外の赤黒い光を、彼はもう一度、ちらりと見た。何が起きているのか、その目には分からなかった。しかし、それが分からないという事実が、彼の今夜の計画を、止める理由にはならなかった。


「何が起きているのかは知らぬが」と彼は呟いた。「——邪魔にはならぬ」


ガランは、息を整えた。


肺の奥まで、夜の空気を入れた。腹に入れられた拳の余韻が、まだ横隔膜にこびりついていた。それでも、息は整っていった。あと一回、あと一回だけ、自分の体に動いてもらう。それで終わらせる。階段で五人を相手にした時に戻ってきた感覚を、もう一度だけ、引き寄せる。


そして、突進した。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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