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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四十九話 寝ている間、守ってもらったもの

王の寝室の中は、深い青の闇に満ちていた。


窓から差し込む月の光だけが、敷物の色を薄く照らしていた。寝台の上に、エドバー王は横たわっていた。胸がかすかに上下している。呼吸は規則的だったが、深かった。目覚める気配のない、夢の底の呼吸だった。普段の王の眠りとは、明らかに違っていた。深すぎた。年寄りが午睡で落ちる眠りに似て、しかしそれよりさらに底が遠かった。


ヴォルターは扉を閉めた。


鍵はかけなかった。かける意味がなかった。今夜のうちに終わる話だ。鍵をかけたところで、外から押し入ろうとする者は、もう誰もいない。本館の警備は片付いた。回廊にも、寝室の前にも、もう立つ者はいない。残っているのは、この部屋の中の二つの呼吸——眠っている王のものと、自分のもの——それだけだった。


寝台に近づいた。


剣は抜いたままだった。刃に薄い血が残っていた——回廊の衛兵のものだ。拭わなかった。拭う時間も、そんな気持ちも、もう残っていなかった。手入れを怠ったことは一度もない。それを、今夜だけは、汚れたまま握っていた。汚れたまま、これから王の胸に当てる。それが、自分が選んだ道の重さだった。


寝台の脇に立ち、彼は王の顔を見下ろした。


エドバーの寝顔は、年相応だった。皺が目尻に刻まれていた。髪には白いものが増えていた。しかし呼吸の規則正しさは、三十年前に謁見の間で柱を背にしていた若者のそれと、まだどこかで繋がっていた。あの日、煙の中で「遅かったじゃないか」と笑った若者の呼吸。今、この穏やかに沈んだ呼吸の中に、確かにその名残があった。


ヴォルターの口が、静かに動いた。


「……確かに、お前は国を平和にした」


独り言だった。聞いている者はいない。それでも、声に出さずにはいられなかった。声にしないと、自分の手が動かない気がした。三十年前に墓石の前で誓った言葉を、今夜、王の枕元で、最後にもう一度、声にして終わらせる必要があった。


「笑い声で溢れた街を作った。豊かな国を作った。民は祭りで踊り、広場には花が並び、子供は路地を走り回っている。それは認めよう」


月の光が、王の胸の寝間着の襞に落ちていた。皺の影が、波紋のように布の上に広がっていた。


「だが、それは運が良かっただけだ」


ヴォルターは続けた。


「隣国が強かった時代は終わっていた。大陸の勢力図が、たまたまヴァルムーアに有利に動いていた。その上でお前の貿易政策が乗った。お前の言葉で平和が続いたのではない。お前の言葉は、運の上に建てた砂の城だった」


声が、自分でも思っていたより震えていなかった。これだけのことを、これほど穏やかに口にできるのか、と、彼は自分に少しだけ驚いた。三十年、毎朝この台詞を頭の中で唱え続けてきたからかもしれない。台詞は、口にする頃にはもう、台詞ではなく、骨に染み込んだ呟きになっていた。


エドバーの呼吸は、変わらなかった。


「今夜を見ろ。たった五十人だ。たった五十人の我々を、お前の兵は止められなかった。城壁の外にはアンデッドが押し寄せている。王宮の中には反逆者がいる。王は眠ったまま起きない。王子は行方不明だ。——これが、お前の三十年の結果だ」


ヴォルターは剣の柄を握り直した。掌に、汗が滲んでいた。三十年前、初めて隣国の兵を斬ったあの朝以来、味わったことのない種類の汗だった。


「お前が悪いのではない。お前はただ、善かっただけだ。善さでは、国は守れない。剣でしか、守れないものがある」


剣を、王の胸の上に、ゆっくりと向けた。


切先が、寝間着の襟元の少し下、肋骨の隙間の上を指した。一突きで終わる位置だった。長年磨き続けてきた腕は、その一突きを外さない。心臓の真上に、針を落とすように落とせる。


「それにしても——ノーマンの毒で死んでいれば、ここまで手を汚さずに済んだものを」


呟きが、寝室の静けさに落ちた。


「なぜ、毒を飲みながら、そんなに安らかに眠っていられる」


ノーマンの仕事は、確実なはずだった。三十年共謀してきた男だ。毒の見立てに失敗するような男ではない。それでも王は息をしている。深く、規則的に。あたかも、毒など最初から体に届いていなかったかのように。


そのとき——


扉の方向から、低い笑い声がした。


ヴォルターは振り返った。


剣の切っ先を、即座に扉の方に向けた。寝台から扉までは、五歩の距離。誰であれ、この距離なら、踏み込み一つで届く。


寝室の入口に、人影が立っていた。開いた扉の向こうから月明かりが差し込み、その逆光の中に、鎧を着た男のシルエットが浮かんでいた。右手に剣を下げている。左の肩から、何本かの血の筋が垂れていた。鎧の表面は、新しかった。月の光に、まだ工房から出たての金属の艶が、わずかに残っていた。


ガランだった。


「……毒、かぁ」


ガランは笑っていた。


痛みのせいか、息が上がっているせいか、笑い方は少し歪んでいた。それでも、確かに笑っていた。三十年の酒で曇った目が、今夜だけは澄んでいた。澄んだ目で、ヴォルターを見ていた。逆光の中でも、その目だけは、はっきりと、こちらを射抜いていた。


「毒で殺そうとしたのか、エドバーを」ガランは続けた。「道理でな。寝ているのに死なないはずだ」


「どういう意味だ」


ヴォルターの声は、自分でも分かるほど低くなっていた。七年計画してきたことに、今ここで、自分の知らない要素が一つ、紛れ込んでいる。その違和感を、彼の体は本能的に拒んでいた。


「その首を、見てみろ」


ヴォルターはエドバーを見下ろした。


王の首に、細い革紐が巻かれていた。気づかなかった。月光の角度が浅かったこともあったが、何より、自分の意識がずっと王の胸——剣を当てる場所——に向いていたためだった。


その先に、小さな金属のペンダントが、寝間着の襟元から覗いていた。文様が刻まれた、鍛冶仕事のペンダント。月の光が、金属の表面の小さな模様を浮かび上がらせていた。



——あれは、アルダーから依頼品を受け取った夕方のことだった。


ガランは、工房を出たところだった。新しい鎧を身にまとい、オマケにもらったペンダントを首にかけていた。首に触れる金属の冷たさが心地よかった。夕暮れの風が、鎧の隙間から入って、体温を柔らかく包み直した。


酒場に行くつもりだった。


しかし足は、酒場ではない方向に向かっていた。


自分でも、なぜだったかわからない。たまにある。自分の足が、自分より先に、どこかに行きたがる時が。その日はそうだった。通い慣れた大通りの途中で曲がり、細い路地を抜け、王宮の外壁に沿って歩いた。歩きながら、ガランは、新しい鎧の着心地が、思っていたよりずっと体に合っていることに気づいていた。肩の幅。腰の落ち。動くたびに鎧が体に追従する感覚。


ガランは、王宮に勝手に入る道を知っていた。


正確には、知っていた、というより、覚えていた。若い頃、エドバーと一緒にいたずらで使った、侍従たちには秘密の通路。石壁の低い部分に足をかけ、そのまま中庭に出られる。大人には無茶な動きが必要だが、ガランの体は、夜ごと石畳で眠る習慣で、そういう動きには馴染んでいた。むしろ、酒場の二階の窓から夜中に出る時の方が、まだ難度が高かったほどだった。


中庭の、奥まった区画に、エルラの墓があった。


月は、まだ低かった。


ガランは、墓石の前で、しゃがみ込んだ。


何年ぶりか、自分でも数えなかった。長い間、ここには来なかった。来られなかった。来るたびに逃亡している自分と向き合わう必要があった。来れば、三十年の沈黙の理由を、自分で説明しなければならなくなる気がしていた。説明したくなかった。説明する言葉を、彼は持っていなかった。


ガランは、墓石の前の石畳に、ただ手を置いた。


何も言わなかった。


しばらくそうしていた。石畳の冷たさが、掌の皮膚を通して、ゆっくりと骨まで届いた。城門の石畳の上で泣いた時の、あの掌の冷たさと、似ていた。違っていた点は、今夜は涙が出なかった、というそれだけだった。


背後から、足音がした。


ガランは振り返らなかった。振り返らずに、足音が近づいてくるのを、そのまま待った。足音は、止まった。ガランの二、三歩後ろで、止まった。


「——久しぶりだな」


エドバーの声だった。


ガランは、墓石を見たまま答えた。


「そうだな」


長い沈黙があった。


風が、墓石の隙間を通り抜けた。木の葉が、中庭の石畳の上を一枚、転がっていった。


「元気か」ガランは聞いた。


「エルウィンが行方不明でな」エドバーは、短く言った。


「ああ、聞いた」


「……」


「寝れてるか」


エドバーは、少し笑った。


「柄にもない。酒が切れて、とうとう頭がおかしくなったか」


「そうかもな」


ガランは、立ち上がった。振り返った。


エドバーは、普段着に薄いコートを羽織っただけの、ほとんど侍従のような姿で立っていた。目の下に隈が深かった。頬が少し痩せていた。三十年前の、あの明るかった若者の面影は、まだ目の奥にあった。しかし体は、確実に、老いていた。王の体ではなく、息子を失いかけている父親の体だった。


「面白い鍛冶屋に会ってな」


ガランはそう切り出した。


「絶対、昨日は存在しなかった店だ。そこで、よく寝れる鎧を作ってもらった。この鎧だ」


自分の鎧を叩いて見せた。月明かりの中で、鎧の表面が低く反射した。


エドバーが、かすかに笑った。


「くだらない注文を受ける鍛冶屋もいたものだ」


「私にも作ってほしいもんだ」とエドバーは続けた。「エルウィンの失踪後、ほとんど眠れていない」


ガランは、その顔を見た。


笑いの奥に、疲労があった。深い、深い疲労。国の父として、息子の父として、一度に両方を支えているからこその疲労。ガランが守れなかったエルラの墓の前で、息子を失いかけて絶望を感じているエルラの兄が立っていた。逃げ続けてきた男に、その重さを、受け止める準備など、あるはずもなかった。


しかし——その時、ガランの掌の中で、首にかけたばかりのペンダントが、ふと、温かくなった気がした。


ガランは、自分の首のペンダントに手をかけた。


外した。


掌の上で一度、揺らした。月の光に、金属の文様が光った。文様は、何か小さな草の組み合わせだった——ガラン自身は、意味を知らなかった。アルダーは何も説明せず、ただ「オマケだ」と言って首にかけてくれただけだった。


「これ、やるよ」


彼はエドバーに差し出した。


「なんて言ってたかな……確か——『寝ている間の毒と、酔い過ぎからのお守り』」


エドバーは、ペンダントを受け取った。


掌の上でしばらく見ていた。何か言いたげな顔をして、しかし言葉にはしなかった。それから、静かに首にかけた。革紐が首の後ろに回り、ペンダントが胸の上に落ちた。普段着の薄い襟の下に、それは収まった。


「効果のほどは、わからん」ガランは言った。


「効果のほどは、わからんが」エドバーは微笑んだ。「お前からの贈り物だ。丁重に、頂戴する」


二人は、それ以上話さなかった。


ガランは、エドバーの肩を一度だけ叩いた。


そして、壁を越えて、王宮の外に消えた。

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