第四十八話 俺は、もう、逃げない
——中庭に、夜の風が吹いていた。
ヴォルターは顔を上げた。
三十年前の陽光が、目の奥から消えていった。代わりに、今夜の月が、墓石の白い石を青く染めていた。祭りの笛の音が、また遠くから聞こえた。三十年前のあの朝の煙の匂いが、夜の風に押し流されて消えていった。
「エルラ」
もう一度、呟いた。
「お前に誓ったことを、今夜、果たす」
彼は歩き出した。
墓石の前の柵から離れ、中庭を横切り、本館への入口に足をかけた。靴音が、さっきより硬くなっていた。迷いが消えた音だった。あるいは、迷う余地を、もう自分の中から削り落とし終えた音だった。
王の寝室は、本館の二階の奥にあった。
警備は、完全に薄かった。扉の前に立っていた衛兵は、ヴォルターの顔を見て最初は敬礼しかけた。正騎士団長の顔だ。二十年以上、王のそばにいた男の顔だ。この男が王の部屋の扉を開けようとして、訝しむ理由を持つ衛兵は、王宮にはいなかった。
その敬礼が、完結しなかった。
剣の柄頭が、兵の鬢を打った。兵は壁に頭を打ち、崩れ落ちた。後ろ姿のまま壁にずり落ちる兵を、ヴォルターは振り返らなかった。振り返らないことが、自分への戒めだった。今夜、振り返れば、足が止まる。止まれば、三十年前の少女に、また顔を上げられない。
ヴォルターは寝室の扉に手をかけた。
扉は、思ったより軽かった。長い年月のあいだに、何度この扉の前に立ってきたかを、ヴォルターは数えなかった。今夜、最後にこの扉を開けることになる、その重さが、不思議なほど軽い扉として、彼の掌に伝わっていた。
◆
同じ頃——王宮の石段では、ガランがまだ五人の反乱兵と向き合っていた。
石段の幅は狭くはなかった。しかし、五人を同時に相手取るには十分な広さはなかった。一人が前に出れば、後ろの四人が左右から迫る。ガランは一歩ずつ下がらされながら、剣を捌き続けていた。
息が上がっていた。
三十年のブランクは、短くなかった。剣の重さを感じる手の平が、既に張り始めていた。肩が軋んでいた。一対一でならまだ戦えた——しかし五人になれば、話が違った。数の暴力は、技量の差を押し流す。
ガランの背中から、血が一筋流れた。
さっきの一合で、軽く切られた。浅い傷だったが、それが増えていけばやがて致命傷になる。時間の問題だった。
『——逃げるか』
と、頭の中で、誰かが囁いた。
三十年間、ガランが従い続けた囁きだった。大切なものを作らない。守らない。どこにも根を張らない。そうやって彼は生き延びてきた。酒を飲み、夜を流し、石畳で眠ることで、自分を世界から少し離れた場所に置いていた。世界から少し離れていれば、誰も死なせずに済む——それが、城門の石畳の上で動かなかった足が出した結論だった。
『逃げろ、ガラン。お前に守れるものはない』
剣の切っ先が、また肩をかすめた。
ガランは歯を食いしばった。
——いや。
囁きに、初めて、言い返した。
——いや。今日は、違う。
背中に、アルダーの鎧があった。あの鍛冶屋の男が作った、軽くて暖かい鎧。あの男はおそらく、ガランがどういう種類の人間かを、最初から見抜いていた。酔って石畳で眠る男。大切なものを持たない男。そんな男のために、あの男は眠れる鎧を作った。
しかし、その眠れる鎧を今、戦場で使っている。
不思議な話だった。眠るために作られた鎧が、戦いの中で、ガランの呼吸を深くしていた。切られても、一瞬だけ、呼吸が整った。痛みが体を止めなかった。眠りを助ける鼾脂が、戦場の緊張の中でも、ガランの息を一つ分だけ深くしていた。
それは、アルダーの意図ではなかったかもしれない。
それとも、あの男は、これも見抜いていたのか。鎧を渡されたとき、アルダーは何も語らなかった。ただ「肩の幅に合わせた」と、それだけ言って差し出した。あの短い言葉の奥に、どれだけのものが折り畳まれていたかを、ガランは今、戦場の中で、初めて開いていた。
ガランは、目を閉じた。
一拍だけ、閉じた。
その一拍の中で、彼は石畳の上で泣いていた自分を、思い出した。両手の掌を石に押し付けていた自分を。肩の震えを。エルラの名を口にできなかった、あの沈黙を。
そして、墓石の前で背を向けた、あの夕暮れの自分を。
——俺は、逃げた。
三十年、逃げた。
「エドバー」
口の中で、彼は呟いた。
「俺は、もう、逃げない」
足元から、ガランの体の重みが、地面に降りていった。宙ぶらりんだった重みが、そこでようやく地に着いた。その重さが、剣を握る掌の中にも、ゆっくりと戻ってきた。
目を開けた。
石段の反乱兵が、次の一撃を繰り出そうとしていた。ガランは、その動きの始まりを見た。見えた、というのが正しかった。相手の肩の微細な動き、踏み込みの角度、重心の移り。全部が、ゆっくりと見えていた。酒の底に沈めていた目が、たった一拍の沈黙の中で、水面まで戻ってきていた。
剣を構え直した。
低く。膝を落とし、重心を下げた。訓練場で、十年間、毎日やった構え。ヴォルターと毎朝、夜明け前に向き合った構え。エルラが木陰から手を叩いて見ていた構え。
「助けが必要な目の前の、一人を——守る」
ガランは、五人に向かって、駆け出した。
その瞬間から——それは戦闘ではなかった。
一つの流れだった。ガランの剣が、五人の間を縫うように動いた。最初の兵の剣を弾き、その勢いで刃を返して二人目の籠手を払った。三人目は踏み込みの足を払われた。四人目の剣が彼の肩を目指して降ってきたが、ガランの体はもうそこにいなかった。弧を描くように回り込み、四人目の背に肘を叩きつけていた。五人目は、振り返ったガランの剣の腹を、胸に受けて後ろに飛んだ。
五人が、ほぼ同時に崩れた。
ガランは石段に立っていた。剣の切っ先が、一度、かすかに震えた。それから、静かに止まった。手の震えが、剣を通じて空気に伝わり、空気の中で消えていった。技ではなく、決意の最後の波だった。長年溜め込んでいた何かが、その一瞬で抜けていったのが、ガラン自身にも分かった。
息は、上がっていなかった。
「……錆びていたと、思っていたが」
彼は呟いた。
「体が、覚えていたらしい」
石段の上を見た。
「ヴォルター。——お前を止める」
言い終える前に、足は走り出していた。三十年止まっていた足が、今夜、ようやく前に進み始めていた。
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