第四十七話 悲劇の過去の、物語
王宮の廊下に、足音がひとつだけ響いていた。
ヴォルターだった。
本館に続く広い回廊を、彼は一人で駆けていた。大理石の床を鎧の靴底が叩き、その音が高い天井に吸い込まれては戻ってくる。側近はいない。ノーマンもいない。石段の踊り場で犬の耳をした奇妙な男の相手をさせて、自分だけが先へ進んできた。回廊の壁には歴代の王の肖像画が並んでいた。どの王も、自分の時代の仕事を果たして絵の中で眠っている。今夜、その絵の下を、一人の騎士団長が、その時代を終わらせるために駆けていた。
警備は薄かった。薄いが、ゼロではない。回廊の突き当たりに一人、曲がり角の先にもう一人、衛兵が立っていた。いずれも経験の浅い若い兵だ。城壁の外にアンデッドが迫っているという報に、古参の兵はみな外に回された。残されたのは、中庭の石畳の傾きも覚えていないような新参たちばかり。——それも、全部、計算のうちだった。
ヴォルターは足を緩めなかった。
最初の兵が剣を抜く前に、ヴォルターの剣が間合いに入っていた。受けようとした兵の刃を横に払い、返した刃で胴を薙ぐ。革の鎧に鋭い線が走り、兵は壁に背中から倒れた。
二人目の兵が声を上げようとしたとき、ヴォルターは既にその前にいた。柄頭で顎を打ち上げ、崩れるところを肩で押して床に伏せる。兵の剣が大理石の上を滑り、柱の根元に当たって止まった。
「団長……?」
倒れ込んだ兵が、ヴォルターを見上げてそう言った。顔に混乱が浮かんでいた。正騎士団長が、なぜ自分を倒すのか。その問いの答えを知る前に、男の意識は閉じた。その問いの答えを知らずに済むのが、この若い兵にとって、せめてもの幸いだった。
ヴォルターは振り返らなかった。
回廊を抜け、中庭に出た。
夜の空気が、正面から当たった。
祭りの笑い声が、遠くから風に乗って届いていた。広場の生演奏の響きは建物に遮られて低くくぐもっていたが、笛の音だけが空を伝って届く。民はまだ何も知らなかった。城壁の外のアンデッドも、王宮の中で今まさに動いている五十人の隊列も、どちらも彼らの日常の外にある。
——それでいい。
ヴォルターは中庭の芝を踏んだ。靴底に露の湿りが伝わった。民が知らないまま夜を明かせるのが、理想だった。朝になって目を覚ましたときには、ただ、王が変わっただけ。そう見えるように、彼はずっと仕事を積み上げてきた。
中庭の中央を横切ろうとして、ふと、足を止めた。
足が止まったのは、意志ではなかった。体の方が、勝手に立ち止まった。この中庭を通るたびに、もう三十年、彼の足は、同じ場所でほんの一瞬、速度を落としてきた。そのほんの一瞬の減速を、三十年続けてきたのだった。
右手に、石の区画があった。腰の高さの柵で囲われた小さな区画。中に白い石の墓碑が一基、月明かりを浴びていた。艶のない石で、彫り込まれた文字は時間と風雨に角を丸められていた。
**エルラ・ヴァルムーア**
ヴォルターは柵の前で立ち止まった。
一瞬だけだった。長く留まる余裕はなかった。しかしその一瞬の中で、ヴォルターの目は、三十年前のある場所に戻っていた。月光の下の墓石の白さが、遠いあの朝の、彼女の裸足の白さと、一瞬だけ重なった。
墓石の前で、声が漏れた。
「エルラ」
低く、短い呼びかけだった。
「もう少しだ」
◆
——あれは、三十年前のことだった。
隣国の旗が地平線に並んでいた。槍の穂先が朝日を受けて銀色に光り、その数は二万を超えると兵は言った。ヴァルムーア王国の城下には、矢が雨のように降り注ぎ、投石機の石が城壁を叩いていた。煙が上がっていた。石と木と布と人間の皮膚が、全部同じ色の黒い煙となって、朝の空を覆っていた。朝だというのに、光が届かなかった。
若いヴォルターは、二十歳になったばかりだった。
正騎士団の銀の鎧を身にまとい、まだ新参の騎士として戦場を走り回っていた。隣で走っているのは、同い年のガランだった。訓練場で毎日打ち合った、あの孤児の剣士だ。騎士の徽章は磨きたてで、まだ傷の一つもなかった。二人の息は乱れていたが、足は乱れていなかった。訓練場の床を何千回と往復した足が、今、煙の中でも迷わずに走っていた。
「エドバー王子は!」
ガランが叫んだ。声が若かった。成長しきっていない声の若さが、叫びの中にまだ残っていた。
「謁見の間だ。最後に見たのはそこだ!」
二人は煙の中を駆けた。崩れた石柱の影を飛び越え、倒れた侍従の脇を抜け、燃えている壁を背に走った。火の粉が頬をかすめた。ヴォルターは一瞬だけ手で顔を覆い、また走った。走りながら、倒れている侍従の顔を見た。先週の夜、食堂で自分たちに葡萄酒を注いでくれた顔だった。その顔が、もう動かない顔として、廊下の石の上に横たわっていた。
謁見の間の扉は、半分壊れていた。
中に入ると、兵士が数人、エドバーを囲んでいた。隣国の兵だ。装飾の少ない鎧、湾曲した片刃の剣。エドバー王子は柱を背にして剣を構えていた。頬に血の跡がある。しかし目は生きていた。そして生きていることを、その目は誰に対しても譲る気がないことを示していた。
「殿下!」
ヴォルターは駆け込んだ。
敵兵の一人がこちらに振り返るより早く、剣が走った。訓練の時とは違う。訓練では、打ち合うたびに相手は次の構えに入ったが、戦場では違った。打った者は倒れ、次の者が出てきた。淡々としていた。恐怖はあった。しかし恐怖が手の動きを鈍らせる暇が、戦場にはなかった。手が先に動き、頭がそれを遅れて追いかけていた。
ガランが横から来た。ガランの剣は速かった。訓練場で見ていた速さより、さらに速かった。一人目の兵の腕を肘の上で切り落とし、返した刃で二人目の頸動脈を裂く。血が柱の壁に飛び、大理石に赤黒い線を作った。
最後の一人は、ヴォルターが倒した。
初めて、人間を斬った。刃が骨に当たる感触が、柄を通じて掌に伝わってきた。木を断つのとも、稽古の布を裂くのとも、違う感触だった。それは、後の三十年のあいだに、何百回も上書きされていくのだろうと、ヴォルターは漠然と予感した。しかし最初の一回の感触だけは、最後まで上書きされない類のものだと、骨の奥で知った。
息が上がっていた。二人とも、汗と煤と返り血で全身が染まっていた。
エドバーが柱から離れた。
「遅かったじゃないか」
エドバーはそう言った。まだ十八歳の若者の声だったが、その声の底には、すでに王の響きがあった。父王が倒れた日から、彼が継がねばならないものの重さを、全部この三日で飲み込んだような声だった。
「寝坊か?」
冗談だった。まぎれもなく冗談だった。こんな戦場で、こんな瞬間に、その男は冗談を言った。
ガランが、笑った。
疲れ果てた顔で、返り血で汚れた顔で、ガランは口の端を引き上げた。
「正義のヒーローは、最後に登場するのが相場だろう」
笑い声が謁見の間の、崩れた天井の下に短く響いた。ヴォルターもかすかに笑った。——笑えた自分に、驚いた。戦場でまだ笑える心が、自分の中に残っていた。三十年経った今でも、あの瞬間の笑いのことを、ヴォルターは覚えていた。短くて、小さくて、しかし確かに、あの三人の間で交わされた光だった。
その刹那の軽さが消えたのは、エドバーの次の一言だった。
「エルラが危ない」
ヴォルターの息が止まった。
「急ぐぞ」
エドバーが先に駆け出した。
◆
走りながら、ヴォルターは叫んだ。
「殿下、姫君は安全な部屋に避難したはずでは」
「していた」
「ならば——」
「出ていった」
「なぜ!」
エドバーが答えない。
代わりに、ガランが割り込むように問うた。
「殿下、そもそもなぜ隣国がここまで攻めてきた。突然すぎる」
エドバーの走る足は止まらなかった。だが、声は落ちた。
「エルラが原因だ」
「何?」
「隣国の王が、エルラを妻に差し出せと言ってきた。父上が断った。——こんな形で返事が来るとは、思わなかった」
ヴォルターは言葉を失った。走りながら、頭の中で、その言葉がなかなか一つの意味にまとまらなかった。エルラ。あの、訓練場で二人の打ち合いを見て手を叩いていた、あの笑顔の少女。その十七歳の少女の結婚を、大陸のもう一つの王が、槍と炎で要求していた。事実の形が、走っている足の下で、何度も崩れては組み直された。
エドバーが続けた。
「エルラは、自分のせいでこれが起きていることに気づいている。街が焼け、人が死ぬ。民が泣いている。それを自分のせいだと思い続けるのが、あの子には耐えられなかった」
「——まさか」
「止めに行くと言った」
ガランの顔が、走りながら硬直した。
「止める、とは」
エドバーは答えなかった。答える代わりに、ただ走る速度を上げた。三人の鎧の音が、煙の廊下を駆けた。
城門が見えてきた。
重い鉄の門扉は、なぜか開いていた。
その両開きの門の向こうに、隣国の旗が立っていた。金の縁取りに黒の蛇。槍を持った側近が並び、その中央に、金の鎧をまとった男がいた。隣国の王だ。青白い顔に赤い髭。その前に、ヴァルムーア王国の兵が半円を作り、剣を構えている。
そして、その両軍の間に——
エルラがいた。
薄い白のドレスを着ていた。普段彼女が訓練場で二人の剣の稽古を見ていた時の、笑顔だった頃の、その服だった。髪は風に流れていた。靴は履いていなかった。白い裸足が城門の石畳の上に立っていた。
ヴォルターの足が、勝手に止まった。
エドバーが叫んだ。
「エルラ——!」
姫が振り返った。
三人を、順番に、ゆっくりと見た。エドバー、ヴォルター、ガラン。その視線が自分の上に止まったとき、ヴォルターの心臓が縮むように痛んだ。彼女の目は、優しかった。この世のすべてを赦しているような目だった。そして、その目は、別れの目だった。あとになってから、ヴォルターはその目を何千回も思い出した。夢の中で、訓練の休憩の木陰で、夜の寝室で。いつも、その目は、同じ目だった。
エルラは、微笑んだ。
「私の大好きだったこの国を——」
声が、風に乗って届いた。
「平和で、笑いの絶えない、強い国にしてください」
隣国の王の方に、姫は向き直った。
両手で、小さなダガーを握っていた。
ヴォルターの目は、そのダガーが持ち上げられる動作を、全部見てしまった。空に向かって、まるで聖別の儀のように、姫は刃を高く掲げた。陽光が刃先を受けて、一瞬だけ白く光った。
そして、振り下ろされた。
自分の、心臓に。
「——姫!」
ガランの声が、ヴォルターのすぐ隣から上がった。
ヴォルターは走ろうとした。足が動かなかった。膝から下が自分のものではないような感覚があった。気づいたら、ガランが先に走り出していた。エドバーも走っていた。自分だけが遅れた——それが、その瞬間のヴォルターに、永遠に刻まれた記憶だった。一番近くにいた自分が、一番遅かった。その差の一歩を、彼は三十年経っても埋められていなかった。
エルラの小さな体が、石畳にゆっくりと崩れた。
白いドレスの胸に、赤い花のような染みが広がった。
ガランは膝から崩れ落ちた。両手の掌を石畳について、頭を垂れ、声を出さずに泣いた。肩の震えだけが、泣いていた。エドバーは妹の体を抱き上げた。抱き上げたまま、動かなかった。
ヴォルターは——ただ、立っていた。
隣国の王の顔が見えた。目を見開いていた。予想していなかった、という顔だった。差し出させようとしていた女が、自らの命で交渉を終わらせた。その事実の重みを、彼は受け止めきれていない顔をしていた。その顔を見ながら、ヴォルターは一つだけ、はっきりと思った。——この顔を、自分はこの先、何度も作らせないようにしなければならない。力の不足で、守りたいものを自分で死なせる側の顔。そしてそれを見上げる、加害者の、意味が追いつかない顔。その二つの顔を、二度と、この大陸の上に作らないこと。それが、今、足元に倒れた少女の名前で、自分が受け取った仕事だった。
数週間後、隣国は撤退した。
エルラの死は、国境の両側で語られた。隣国の民の中にすら、あの王の決定を悔いる声が広がった。戦争を続ける大義が、消えていた。王は和平を申し入れ、兵を引いた。
エルラの死が、戦争を終わらせた。
それは、二十歳のヴォルターが、生涯で最初に学んだ「国の動かし方」だった。一人の少女の、ダガーの一突き。それが二万の槍より重かった。剣で守れなかったものを、死が守った。その事実は、これから生涯をかけて剣で国を守ろうとする男の胸の、すぐ隣に、ずっと刺さったまま残る事実だった。認めたくない事実だった。認めないための三十年を、彼はこれから歩むのだった。
◆
葬儀が終わってから、さらに数週間が経った。
エルラの墓石が立った日、三人はその前に並んでいた。
墓石はまだ新しかった。削られたばかりの石の角が、鋭く光っていた。周りには献花がたくさん積まれていた。民からの花だった。姫の死を聞いた民が、何日にもわたって花を運び続けた結果だった。名もない老婆が、畑の隅から摘んだ一輪を置いていく姿を、ヴォルターも見た。そのたびに胸の奥が軋んだ。
ヴォルターが、最初に口を開いた。
「私は」
声がかすれた。一度、咳払いをした。
「私は、どの国よりも強い騎士団を作り上げる」
墓石に向かって、彼はそう言った。
「二度と、こんなことを起こさせない。どんな敵が来ても、跳ね返せる力を持つ。この国を、剣で守る。それが、姫に報いる唯一の道だ」
エドバーは、しばらく黙っていた。
それから、静かに首を横に振った。
「違う」
「違う、とは」
「武力に頼れば、相手は武力で返してくる。強い騎士団を持てば、隣国はより強い軍を作ろうとする。それが戦争を引き出す構造だ」
「それは」
「私は、貿易の国を作る。この国を大陸の流通の要にする。誰もがここを失えば困る、そういう国を。戦争を止めるのは、武力ではない。互いに必要とし合う関係だ」
「甘い」ヴォルターは言った。「甘すぎる。相手がこちらを必要とする前に、剣で殴ってきたらどうする」
「殴られない構造を作る」
「作れなかった場合は」
「作る。作れるまでやる」
「空論だ」
二人の言い合いは、しばらく続いた。石の前で、墓石を挟んでいるかのように、言葉がぶつかった。どちらも声を荒げはしなかった。しかし互いに、譲る気がなかった。——三十年後、ヴォルターはこの日の会話を、何度も思い出すことになる。この日、二人の国の形は、別の方向に分かれ始めていた。どちらも、エルラの同じ言葉を守るためだった。「平和で、笑いの絶えない、強い国」——その三つの言葉の、どれに重心を置くかで、道は分かれた。
やがて、エドバーが振り返った。
ガランを見た。
「ガランは、どうするんだい」
ガランは、少し離れた場所に立っていた。
風が吹いていた。葬儀の日に髪を短く切ったガランの、襟足に光が当たっていた。ガランは墓石の方を見ていた。エルラの名前の文字を、見ていた。見続けていた。
しばらく、沈黙があった。
それから、ガランは言った。
「大切なものを——守れなかった」
短い言葉だった。
「俺はもう、大切なものを、作らない」
それだけが、あの日の城門の石畳の上で、自分の足が動かなかったことへの、ガランの答えだった。動かない足を持つ者がまだ生きていることの、ただ一つの耐え方だった。剣で守るでもなく、国を作るでもなく、ただ、もう二度と、守れない場所に大切なものを置かない。それが、ガランの出した結論だった。
二人は、返す言葉を持たなかった。
ガランは振り向かなかった。振り向かずに、墓石に一度だけ頭を下げた。そしてそのまま、二人に背を向けて歩き出した。夕暮れの光の中を、だんだん小さくなっていくガランの背中を、ヴォルターは長い時間、見ていた。止めようとは思わなかった。止める資格が、自分にはないと感じた。あの日、城門の石畳の上で、一歩遅れたのは自分だった。その一歩遅れた自分が、ガランを引き止める権利は、もうない気がした。
ガランが視界から消えた後、ヴォルターは墓石に向き直った。
もう一度、誓った。
今度は、声に出さなかった。声に出さなくても、墓の中の彼女には届くはずだった。届かせるための、これからの三十年だった。三十年後、今夜、同じ墓の前を、自分が駆け抜けるところだった。あのときの誓いの続きを、今まさに、果たしに行くのだった。
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