第五十五話 エピローグ その4
——丘の上。
アルダーは、倒木から、ゆっくりと、立ち上がった。
背を、一度、伸ばした。長く同じ姿勢でいた体の、関節が、小さく鳴った。彼はそれを気にしなかった。ただ、花の間を一歩、踏み出し、馬車の方へと、歩き始めた。靴の底が、花の根元の土を、ほとんど沈めずに踏んだ。鍛冶屋の体格にしては、足音は、不思議なほど、軽かった。
その、彼の後ろを——
ふっ、と、小さな火が、浮いた。
オレンジ色の、拳ほどの大きさの、炎の玉だった。花の上を、ゆっくりと、アルダーの後を追うように、ふらふらと進んでいった。
一つではなかった。
二つ、三つ——五つ。
拳ほどの火の玉が、列をなして、アルダーの後ろから、ついてきていた。それぞれの火の中央には、細い光の芯があり、その芯のあたりで、何か、小さな手のようなものが動いていた。そして、それぞれが、アルダーの工具箱を、綱のように連なって持ち上げ、馬車の荷台へ、そっと、運んでいた。鎚も、鏨も、やっとこも、火の精たちの、見えない指先で、丁寧に、整えられて、荷台に並べられていった。
メギドの目が、見開かれた。
「火の、精霊……」
彼は、呟いた。
「おいおいおい、実在しとったのか、あやつら」
アルダーは、答えなかった。
「いや、伝承では聞いたことがある。古の鍛冶師のなかには、火の精霊と取引するものもいたと。しかし、わしは、長く生きたが、その姿を見たのは、これが、初めてじゃ」
メギドは、しばらく、火の玉の列を、子どものような目で、追っていた。耳栓の外から漏れてくる音楽の代わりに、彼の心の中で、別の音楽が、ひとりでに鳴り始めていた。長く生きた者にも、まだ、初めて見るものがある。それは、彼にとっては、贅沢な発見だった。
それから、耳栓の音量を、また、ほんの少しだけ、下げた。
「……アルダーよ」
メギドは、言った。
「これからどうするのじゃ?」
それは、アンネローズの声でも、問われた問いだった。
アルダーは、馬車の御者台の横で、一度、止まった。
そして、黙って、人差し指を、挙げた。
指先は、丘の向こうを、指していた。
かつて「魔の森」と呼ばれていた、黒い森の方向。今は花畑と若葉に変わった、新しいベイルの森の——さらに、その、ずっと奥、深い方向。
アルダーは、何も、言わなかった。
ただ、指していた。
メギドは、その指先を、目で追った。地平線の彼方で、若葉の緑が、青みを帯びた山影に溶けていた。指の先に、街は、なかった。街道も、見えなかった。誰もまだ、名前をつけていない場所だった。
「……あの奥に、何があるんじゃ?」
アルダーは、指を、下ろした。
「さぁ」
「また、それか」
アンネローズが、くすっと、笑った。
メギドも、苦笑した。苦笑は、やがて、口を、まっすぐな形に戻した。
「——それでは」
メギドは、ぽつりと言った。
「また、会うことは、あるか?」
アルダーは、馬車の御者台に、片足を掛けた。
そして、初めて、今日、二人の方を、振り返った。
彼の顔には——
笑みがあった。
いつもの、ぶっきらぼうな口元ではなかった。目元の皺を、一度だけ、柔らかく動かした、その、微かな笑みだった。彼が、この何十年、おそらく誰にも見せてこなかった、彼の素の、顔の片鱗だった。長い旅の中で、何度も、誰かに見せそうになり、寸前で隠してきた、その表情。今、丘の上の風の中で、彼は、それを、二人にだけ、ほんの少しだけ、開いた。
「——そんな気は、している」
アルダーは、言った。
それだけを、言った。
それから、御者台に座り、手綱を取った。
火の精霊の列は、最後の荷を荷台に載せ終わり、馬車の周りを、ひらひらと、踊るように回った。馬が、静かに、一歩踏み出した。馬車は、花畑の縁を、ゆっくりと、森の方へ、進み始めた。
アンネローズとメギドは、並んで、それを、見送った。
「……アルダー、って、結局、何だったのかしら」
アンネローズが、ぽつりと言った。
「さぁ、な」
メギドが、それを、引き取った。
二人は、顔を見合わせて、同時に、笑った。長い時間を生きてきた者同士の、共犯のような笑いだった。問いに、答えを返さない、というのは、二人ともが、上手な遊びだった。
馬車は、丘の斜面を下り、川を渡り、若葉の森の入口を、潜っていった。
その、最後の一瞬——
アルダーは、振り向かなかった。
しかし、後ろから並んで飛んでいた火の精霊の一つが、くるり、と、一度だけ、丘の上の二人に向かって、手のような光を振った。
メギドが、手を、小さく振り返した。
アンネローズも、肩を少しだけ揺らして、手を振った。
馬車は、森の緑の中に、溶けるように、消えていった。
風が、花の上を、また渡った。
色が、また、一斉に、波打った。
メギドは、しばらく、その波を、見ていた。
「……アンネローズよ」
「うん?」
「あの男が、どれだけの街を、こうして、出てきたか、知っとるか」
アンネローズは、答えなかった。
代わりに、目を、丘の彼方に置いたまま、ゆっくりと、首を横に振った。
「わしも、知らん」
メギドは、続けた。
「しかし、——出てきた街の、どの炉も、きちんと、火が落ちておったろう、と、わしには、わかる」
◆
夜の、ヴァルムーア王国。
街の灯りが、ぽつり、ぽつりと、家々の窓に点っていた。祭りの夜とは違う、日常の夜の灯りだった。しかし、街の一角——通りの奥の、かつて鍛冶屋だった建物だけが、普段より、明るく光っていた。
扉の内側から、笑い声が、通りに漏れていた。
蜘蛛の巣は、払われていた。埃は、半分ほど、掃き出されていた。しかし半分は、まだ、そのままだった。「全部落としたら、それはそれで寂しいからな」とガランが言い、誰も反論しなかった。残された埃は、誰かの足跡を、まだ、薄く、保存していた。誰もそれを、踏み荒らそうとはしなかった。
作業台は、そのまま、食卓として使われていた。
台の上には、グロームの外炉で焼かれた羊の肉が、大皿に盛られていた。湯気がまだ立っていた。その隣に、ミラの焼いたクッキーが並び、セレニティーのワインが真ん中に据えられていた。トッドの持ってきたパンは、厚切りで、まだ温かかった。
椅子は、ひとつも、なかった。
全員が、あぐらで、床に座っていた。
ミラ、セレニティー、ガラン、トッド、グローム、エルウィン王子——六人が、作業台を囲むように、床の上に円を描いていた。ミラは、皿を膝に載せて笑っていた。セレニティーは、壁によりかかって、赤ワインの瓶を傾けていた。トッドは、グロームの肉にかぶりつこうとして、口の周りを汚し、何度も拭かされていた。エルウィン王子は、意外にも、あぐらに慣れた様子で、床に座り、パンを千切っていた。犬の姿で過ごした日々が、彼の体に、王子らしくない座り方を、染み込ませていた。
ガランは、作業台に背を預けて、酒杯を傾けていた。
そこへ——扉が、ノックもなく、開いた。
「遅れた」
エドバー王が、入ってきた。
寝間着の上に薄手のガウンを羽織った、ラフな格好だった。昨日の夜、ヴォルターの頭に花瓶を叩きつけた、その余韻が、体のあちこちに、まだ、疲労として、残っていた。
「——父上!」
エルウィンが、立ち上がろうとした。
「座れ」
エドバーは、片手で、制した。
「今日は友人と飲み、命の恩人に礼を言いに来ている。ならば、王もおらぬ夜だ」
王は、誰に促されるでもなく、床の一角を見つけ、あぐらで、ずっしりと、座った。
腰のあたりで、小さな金属音が鳴った。寝間着の胸元から、細い鎖が覗いていた。鎖の先には——ペンダントが、ぶら下がっていた。
ガランが、それを、見た。
そして、作業台に背を預けたまま、ニヤリ、と、笑った。
「おいおい、陛下」
ガランは言った。
「そのペンダント、まだ、してんのか」
「外す理由がない」エドバーは、こともなげに、言った。「こいつに、俺は、命を、二度も助けられた」
「一度じゃねぇのか」
「二度だ」エドバーは、ガランを見た。「毒から、一度。友から、一度」
ガランは、一瞬、口を開いて、何か言おうとして——やめた。
酒杯の中のワインを、少しだけ、揺らした。揺れた赤の表面に、天井の燭台の火が、二つ、三つ、映っていた。酒場の杯の中で見続けてきたのと同じ、揺れる火の影だった。しかし今夜の杯の中では、その影は、いつもより、少し、明るく感じられた。
それから、小さく、言った。
「……そうか」
エドバーは、作業台の上の肉に、手を伸ばした。
「——うまそうだな」
「王宮、晩餐より、うまい」グロームが、胸を張った。
「それは、間違いない」
エドバーは、かぶりついた。肉汁が、口の端から垂れた。彼は、気にしなかった。
それを見たエルウィンが、同じように肉を取り、同じようにかぶりついた。頬に肉汁がついた。ミラが、笑って、布で王子の頬を拭った。王子は、少し、耳まで赤くなった。
セレニティーは、ワインを、全員の杯に、回した。
杯は、不揃いだった。ガランのは陶器、ミラのは木製、トッドのは鉄製、グロームのは大ぶりのジョッキ、エルウィンのは金縁のグラス、エドバー王のも、同じ金縁のグラスだった。サイズも、形も、格も、ばらばらな杯が、床の上で、一斉に、掲げられた。
ガランが、口を、開いた。
「——じゃあ、何に飲む?」
一瞬、誰も、答えなかった。
それから、ミラが、控えめに、言った。
「アルダー、に」
全員が、ミラを見た。
ガランが、先に、笑った。
「そうだな」
「アルダーに」
「アルダーに」
「……アルダー」
「アルダー」
杯が、カツン、と、合わさった。
金属と、木と、陶器と、ガラスの、不揃いな音が、一つになった。
窓の外の、夜の空気に、杯の音が、抜けていった。
——その音は、夜の街の上を、低く、低く、渡っていった。
ヴァルムーア王国の、家々の窓の灯りの上を、川の水面の上を、城壁の上を、そして、城壁の外の、若葉の森の上を。誰の耳にも、はっきりとは届かなかった。それでも、その音は、確かに、そこにあった。
ガランの杯が、ふと、止まった。
「……」
口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
何も言わずに、彼は、もう一口、ワインを呷った。
杯の縁の向こうで、誰かが、また、笑っていた。トッドの裏返った声と、グロームの低い笑い声が重なり、ミラの澄んだ笑い声が、その上に、銀の糸のように、走った。
◆
——その頃、遠くの森の奥で。
新しいベイルの森の、まだ道のない方向。草を掻き分け、若葉を避けながら、一台の荷馬車が、月明かりだけを頼りに、ゆっくりと、進んでいた。馬の蹄が、若い土を、低く、踏んだ。馬車の周りを、五つの小さな火が、ふらりふらりと、飛び回っていた。
御者台の上で、男が一人、手綱を握っていた。
男は、振り返らなかった。
しかし、ふと——
遠くの街の方向から、微かな、杯の合わさる音が、風に乗って届いたような、気がした。
男は、一瞬だけ、手綱を握る手を、緩めた。
そして、口の端を、ほんの少しだけ、上げた。
それは、丘の上で、アンネローズとメギドに見せた笑みと、同じ形だった。誰も見ていない夜の森の中で、馬車の御者台の上で、男は、もう一度、その表情を、自分のためだけに、保った。
それから、また、前を向いた。
馬車は、森の、さらに奥へ、進んでいった。
火の精たちの一つが、御者台の横に、ふわりと、寄った。光の中の小さな手が、男の肩に、軽く触れた——ように見えた。
男は、何も、言わなかった。
ただ、手綱を、もう一度、握り直した。
森の若葉の隙間から、月の光が、馬車の屋根の上に、薄く落ちていた。荷台の中で、布で覆われた工具たちが、馬車の揺れに合わせて、低く、軋んだ。鎚と、鏨と、やっとこと、革前掛け。鍛冶屋一人分の、また次の街で開かれることになる、一つの工房。
馬の歩みは、急がなかった。
急ぐ理由が、なかった。
火の精たちは、馬車の四方に、星のように散って、ふらりふらりと、飛び続けていた。
——鍛冶屋アルダーの、次の街は、まだ、誰も、知らない。
【おわり】
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、ブックマーク・★評価で応援いただけると嬉しいです。




