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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四十五話 願いが、叶えるもの

骨の剣が、間に合わなかった。


正確には、間に合ったが、間に合いきれなかった。フェンリルは辛うじて刃を顔の前に立てた。湾刀がそれを滑って、肩の革を切り裂いた。熱いものが肩から胸にかけて流れた。革の下、皮膚の上で、血が広がっていくのが分かった。しかしフェンリルの意識は、肩ではなかった。


そこからは、一方的だった。


ノーマンの攻撃は、さっきまでとは桁が違っていた。迷いを振り切った者の動きだった。湾刀が空気を斬る音だけが連続した。上段、中段、下段、薙ぎ、突き、逆袈裟。切れ目がない。フェンリルは防御だけで精一杯だった。受けるたびに腕の付け根が痺れ、膝が一寸ずつ沈んだ。通路の石壁が、背中のすぐ後ろにまで迫ってきていた。


骨の剣の傷が、深くなっていく。


細かった線が、太い亀裂になった。亀裂が複数の亀裂に分岐した。分岐した亀裂が、互いに繋がった。白い刃の内側で、何かが軋み続けていた。


悲鳴のような音だった。


フェンリルの頬を、また涙が伝った。


自分の血が肩を流れていた。それは気にならなかった。気になったのは、骨の剣の方だった。泣いている。この剣が、泣いている。助けてやれない。助けてやれない。守ってやれない。この剣の中に眠っていた古い誰かを——自分のために命を差し出してくれたあの誰かを、今、自分はもう一度、失おうとしている。


——だめ、だ……。


心の中で、そう呟いた。


反撃の余裕はなかった。押し返すだけの力もなかった。ノーマンの湾刀が、大きく振りかぶられた。両手持ち。体重を乗せた一撃。フェンリルは、骨の剣を正面に立てて、両手で柄を握りしめた。膝が震えた。涙で視界が歪んだ。それでも、剣を離さなかった。離せば、中にいる誰かが、本当に消えてしまう気がした。


湾刀が、落ちた。


骨の剣が、それを受けた。


一瞬の静止があった。


そして——


白い刃が、フェンリルの目の前で、砕けた。


ぱきん、という音だった。陶器が割れるような、乾いた音。不思議なほど軽い音だった。あれだけ長く使われてきた剣が割れる音には、ふさわしくないほど軽かった。骨の剣の刃が中央から折れ、折れた先が宙を舞い、石畳の上に落ちて二つに跳ねた。もう一度跳ねて、それから動かなくなった。跳ねるたびに、白い欠片の奥で燻っていた微かな光が、一つずつ消えていった。欠片の周りに、数百年分の何かが、音もなく沈んでいくのが、フェンリルには見えた気がした。


柄だけが、フェンリルの手に残った。


フェンリルは、動かなくなった。


目の前の光景を受け入れるのに、時間がかかった。砕けた欠片を見ていた。数歩先に転がっている、白い破片を見ていた。手の中に残った柄の重さを、確かめるように握った。軽くなってしまった柄だった。剣ではなくなった柄だった。その軽さが、失ったものの大きさを、体の芯に教えた。


足の力が、抜けた。


尻もちをつくように、石畳に座り込んだ。柄を両手に握ったまま、茫然と、それを見ていた。涙が、止めどなく流れた。声は出なかった。泣き方すら忘れた顔だった。犬の耳が力なく垂れ、尻尾が石の上で冷たくなっていた。


ノーマンは、湾刀を下げなかった。


間合いを詰め、フェンリルの顔の前に、湾刀の切先をゆっくりと持っていった。眉間から指三本分の距離。フェンリルは動かなかった。動けなかった。目は砕けた骨の方を見ていた。顔の前の刃を、見ていなかった。


「……勇敢でしたよ、王子」


ノーマンの声が、静かに降った。


その言葉を、彼は十五年前にも口にしていた。火葬の場で、五歳の子供の前に膝をついて、同じ言葉を言ったのだ。勇敢でしたよ、フェンは——と。今夜、同じ言葉が、別の意味を持って、別の相手に向けて口から出た。十五年の長さが、その一文の中で折り重なり、自分でも思いがけないほどの重みを帯びた。それに耐えるためにも、ノーマンは唇を引き結んだ。


湾刀が、天に向かって持ち上げられた。


両手で構え直し、振り下ろす角度を取った。垂直に落とせば、フェンリルの頭は二つに割れる。迷いはなかった。あるいは、迷いを振り切った、という方が正しかった。


刃が、夜の空気を吸い込むように、止まった。


最後の一息。


振り下ろそうとした——


そのとき。



広場の方で、声がした。


声というより、世界の底から響いてくる低い唸りだった。祭りの広場から、巨大な蛇が、石畳の上に影を落としていた。その蛇の前に、二人の女が立っていた。


一人は修道服に白いフードのミラ。もう一人は弓を背負ったセレニティー。


黄金の目が、二人を見下ろしていた。瞬きもしない目だった。長い時間を生きた何かの目だった。見られている側の心臓の鼓動が、その視線の重みで、一拍ごとに遅れていった。


「不運か、幸運か——」地を揺るがす声だった。「世界はもう一度、試されることとなった」


ミラは指輪を見ていた。


右の人差し指で、赤黒い光が鼓動していた。アルダーがお釣りとして彼女に渡した、あの指輪。そこから光が溢れ、広場の石畳を走り、ベンチに座っていた老人——メギド——を包み、大蛇に姿を変えさせた、その元凶の指輪。


「汝よ、願いを三つ伝えよ」


大蛇の声が、波のように広場を満たした。


「どんな願いでも叶えよう。それが——世界を滅ぼすものであったとしても」


広場は静まり返っていた。露店の灯りはまだ揺れていた。子供が落としていった花飾りが、誰にも拾われずに石畳に横たわっていた。音楽は、もうどこにも聞こえなかった。そのかわりに、指輪の脈打つ音だけが、ミラの耳の奥で、自分の心臓と同じ速さで響いていた。


セレニティーは剣の柄に手を添えていた。しかしその手は、動かなかった。こんなものに剣で立ち向かえる道理がない。それを頭で理解する前に、体が理解していた。森と野で数え切れない獣を見てきた弓使いの体が、この相手には矢が通らないと、背筋の産毛で知っていた。


ミラは、手を見ていた。


指輪が、脈打っていた。


三つの願い。世界を滅ぼすこともできる願い。その想像もできない力が、自分の次の一言にかかっていた。修道士の自分が、この国の運命を、たったひと言で決めようとしている。その責任の重さに、手の指先は震えていた。しかし、震えたまま、ミラは思った。


『私のために、じゃない』


と、ミラは思った。


『この国のために』


顔を上げた。


広場の石畳を見渡した。逃げ惑う人の影がまばらに残っていた。露店の破片が散らばっていた。遠くに王宮の尖塔が見えた。その王宮から、今夜だけで、いくつのことが壊れようとしているかを、ミラは知っていた。


王が倒れている。王子が失踪している。城壁の外にアンデッドが迫り、何か大きな陰謀も感じる。そして今、目の前に、世界を滅ぼせる蛇がいる。


全部の発端は、一つだった。


一人の失踪から、国が揺らぎ始めた。


隣のセレニティーを見た。目が合った。セレニティーには、ミラの考えが全部わかるわけではなかった。だが、ミラが何かを決めたことは、わかった。どんな願いなのかは、わからない。わからないが、信じる。この修道士の、気の弱そうな目の奥にあるものを、セレニティーは長い旅の間に、少しずつ知っていた。ここで口を挟むべきではない——それもまた、長い旅が彼女に教えたことだった。


セレニティーが、小さく頷いた。言葉はなかった。長い旅の間に、二人の間で交わされた無数の会話の上に、その小さな頷きは置かれていた。


ミラは、大蛇の方に顔を戻した。


恐れはあった。足の震えも、まだ止まっていなかった。それでも、黄金の目を、真っ直ぐに見返した。


深く、息を吸った。


口を開いた。


「——エルウィン王子を、戻して!」


声が、広場に響いた。

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