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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四十四話 過去の自分にはもう、戻れない

通路の石壁に、燭台の炎がゆらめいた。


ノーマンは、湾刀を構えたまま、動けなかった。


目の前に立っているのは、犬の耳をつけた奇妙な男だった。白い骨の剣を掲げ、胸を張り、涙を流しながらも、誇り高い姿勢で名乗りを上げていた。その姿勢の中に、見覚えのある線があった。肩の張り方。顎の角度。背骨の、真っ直ぐさ。王家の剣術の、いちばん最初に習う構えの線だった。


——フェンリル・アイアンファング。


その名は、自分が授けたものだ。


五歳の王子の小さな胸に、骨の首輪と一緒に預けた名前だ。


ノーマンの口が、勝手に動いた。


「……エルウィン、王子」


呟きが、通路に落ちた。


フェンリルは、反応しなかった。


金色の目は、ノーマンを見ていた。しかしその目に、「エルウィン」という名への反応はなかった。その名を知らない顔をしていた。自分がかつてそう呼ばれていたことを、覚えていない顔だった。


呪いは、深かった。


彼は今、自分を犬だと思っている。犬族の王だと信じている。そう信じたことで、彼はようやく、王城から消えて生き延びられた。信じ続けることが、彼を守っていた。その信じ方の深さは、一度見ただけでも、ノーマンにはよく分かった。長年、王族の身辺を見続けてきた者にしか分からない類の、深さだった。ノーマンの頭の隅で、幸運か不運か、自分が王子を殺害しようとしたスープの呪いの結果だと理解した。


ノーマンの手が、微かに震えた。


湾刀の刃が、かすかに揺れた。


——優しく、生きてください。


あの夜の自分の声が、頭の奥で響いた。


小さな王子の首に、骨の首輪をかけた若い自分の声。真っ直ぐな、何の計算もない声。あの声は、どこへ行ったのだろう。いつから自分は、あの声を忘れたのだろう。若い自分は、今夜の自分をどう見るだろう。顔を上げて、まともに見返すことができるだろうか。


——いいや。


ノーマンは、奥歯を噛んだ。


忘れたのではない。自分で、葬ったのだ。


十五年の間に、彼はいくつもの決断をした。王の世話をしながら、王の弱さを見続けた。豊かな国の裏で、国境の兵の数が足りず、辺境の村が襲われるのを見続けた。貿易で守れるという言葉の限界を、自分の目で見続けた。書類の上では黒字の国が、地図の端では確かに燃えていた。宮廷の晩餐で杯が重ねられている同じ夜に、北の村では、名も届かぬ者たちが、名も届かぬまま死んでいた。そのたびに、胸の底で、誰かが言うのだ。


——これで本当に、この国を守れるのか。


その声に、答えを出したのが七年前だった。


ヴォルターとの誓い。強い国家を築くためには、犠牲が要る。王の世代は終わらせる。新しい国家を——剣で守れる国を——作る。そう決めた。決めた瞬間、あの夜のもう一人の自分を、彼は自分の手で葬った。葬ってから七年、ずっとその死体の上に立って仕事をしてきたのだ。今夜、そのことを、改めて確かめるしかなかった。


もう、あの頃の私ではない。


口の中で、そう呟いた。


ノーマンは湾刀を握り直した。震えは消えた。目の色が戻った。仕事人の顔が、再び、仕事人の顔に戻った。


「……王子。私はもう、あの頃の私ではないのです」


静かな声で、彼は言った。


フェンリルの耳が、ぴくりと動いた。


「強い国家を築くには、犠牲が要る。私はヴォルター様と共に、新しい国を作ると誓いました。——申し訳ありません」


申し訳ありません、という言葉は、七年前から何度も口にしてきた言葉だった。口にするたびに、言葉の重さが少しずつ軽くなっていった。今夜は、重さがほとんど残っていなかった。それでも、目の前のこの男にだけは、ほかの誰にかけるよりも、その最後の重みを、全部、置いていきたかった。


湾刀が持ち上がった。


そのときだった。



通路の奥——王宮の外の方から、赤黒い光が差し込んだ。


最初は、気配だった。


何かが、生まれた気配。石壁を伝って、空気の密度が変わった。通路の燭台の炎が、一斉に傾いた。風はない。それなのに、炎が一方向に流された。まるで何かが、どこか遠くから呼吸をしたかのように。空気の成分が、今まで嗅いだことのない別の何かに、少しだけ置き換わった匂いがした。


フェンリルが顔を横に向けた。


通路の端には、中庭に繋がる小さな窓があった。その窓の向こう——街の広場の方向——の空が、赤く染まっていた。夕焼けの赤ではない。もっと暗い、鉄の錆のような赤。その赤が、脈打っていた。ひとつ、ひとつ、生き物の心臓のように。


そして——


影が、空に立ち上がった。


巨大な蛇だった。


窓の向こうから覗き見える程度の距離にもかかわらず、その影は、窓枠いっぱいに迫っていた。建物三階分の高さを超え、頭が月の手前まで伸びていた。黄金の目が開いていた。広場の上空で、ゆっくりと、世界を見下ろしていた。目は瞬きもしなかった。ただ、そこにあり続けた。


フェンリルの目が、釘付けになった。


ただでさえ湿っていた金色の目が、その光景を映して見開かれた。犬の本能だった——大きなものに、体が一瞬、反応する。尻尾が強張り、耳が倒れた。獣人の体の奥に眠っていた、もっと古い生き物の記憶が、そこに反応していた。


「……なんだ、あれは」


呟いた瞬間に、理解した。目を逸らした自分を。


「よそ見ですか!」


ノーマンの声が、通路を打った。


湾刀が、振り下ろされていた。

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