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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四十三話 小さい命が、授けてくれたもの

前方の木立の奥で、太い音が地面を叩いていた。


猪の走る音だ。大きい。とても大きい。踏みしめる蹄が、土を叩くのではなく、土を掘り返すように音を立てていた。勢子たちの声が続く。「そっちだ!そっちだ!」「回り込め!」


ノーマンは走りながら視界の端に猪の姿を捉えた。巨大だった。体長は成人の男の背丈を超え、牙が月光に似た色で光っていた。追い詰められた怒りで体毛が逆立ち、口の端から白い泡が垂れていた。森の中で、一頭だけが、別の季節のような熱を放っていた。


その猪が、突進の向きを変えた。


弓を構えた王の方向へ。


エドバーは動かなかった。動けなかったのではない。獲物が正面から来るなら、それを射貫くのが狩人の役目だ。弓を引き、鏃を猪の眉間に定めた。呼吸をほんの少しだけ、吐ききる直前で止めた。弓を引く者にとって、その瞬間は世界で最も静かな瞬間だった。


そのとき——王子の声が、木立の中から聞こえた。


「ああっ、リスさん、どこいったの」


リスが、木の根から飛び出した。猪と王の間を、走り抜けた。


その直後に、リスを追って、エルウィンが飛び出した。


ちょうど、猪と王の間に。


エドバーの目が、一瞬で変わった。弓を引いていた手が止まった。鏃の先には、息子の背中があった。矢を放つわけにはいかない。動けない。猪はもう目の前まで来ていた。狩人としての動きが、父としての動きに、ほんの一拍、押しつぶされた。


「エルウィン!」


叫んだ声が、森を貫いた。


ノーマンは走った。しかし遠かった。間に合うかどうかは、もう神の領分だった。足元の落ち葉を蹴散らし、枝を払い、肩で木の幹にぶつかった。それでも遠かった。エルウィンが猪の足音に気づいて振り返った。丸い目が猪を見た。口が開いた。まだ何が起きているのか、理解しきれていない顔だった。


そのとき——


白い塊が、王子の背後から、突進した。


フェンだった。


仔犬の体だった。成犬でもない、まだ幼い、毛むくじゃらの、仔犬の体。それが全力で、王子の背中に体当たりをした。後ろ足で地面を蹴り、前足を折りたたみ、全身を砲弾のように撃ち出した。自分の体の何倍もの質量を動かそうとする動きだった。仔犬にそれができる道理はなかった。しかしそのとき、その仔犬の中にいた何かは、仔犬ではなかった。


エルウィンは前方に突き飛ばされた。


小さな体が地面に転がった。膝を擦り、頬に土がついた。その姿勢のまま、エルウィンは振り返った。


振り返った先で——


猪が、フェンを薙ぎ倒した。


白い毛の塊が、ぐしゃりと宙を舞い、木の幹に叩きつけられた。音は乾いていた。乾いた音のあとに、何も続かなかった。鳴き声も、息の音も、何もなかった。森は、本来あるべき鳥の声すらも忘れたように、静かだった。幹に擦れた毛がわずかに宙に舞い、朝の光の筋の中を、ゆっくりと落ちていった。それを見ていたノーマンは、走る足を止めなかったのに、心の中の何かだけが、その毛の落下と同じ速さで、地面に沈んでいくのを感じた。


エルウィンの喉から、声が出た。


「……フェ、ン」


最初はささやくような声だった。


「……フェン……」


段々に、大きくなった。


「フェ———ン!」


森じゅうに響くような叫びだった。五歳の子供の喉から出たとは思えないほどの叫びだった。そのすぐあとに、矢が飛び、猪の眉間を射抜いた。巨体が地面を揺らして倒れた。エドバーの矢だった。——息子を助けられなかった悔しさの全部を、その一射に込めた矢だった。矢羽根が、放たれた風圧で微かに震えていた。


王は弓を捨て、息子の元へ走った。


ノーマンは木の幹の下に駆け寄った。


フェンは、もう動かなかった。



——夜になった。


王宮の裏の庭に、小さな薪が組まれていた。石で囲んだ、簡素な火葬の場だった。王家の犬は代々ここで弔われる。石の縁には、代々の犬の名が、小さく刻まれていた。一番新しい、まだ刻まれていない空白に、今夜、ひとつの名が加わる。


火が、低く燃えていた。


王子は石の前にしゃがみ込んでいた。膝を抱え、顔を膝に埋めていた。小さな肩が、時折、堪えきれずに震えた。泣き声は出なかった。声を出すのを、もう何時間も前から止めていた。ただ、肩と、頬を伝う涙と、膝を抱える腕の震えだけが、泣いていた。子供の泣き方ではなかった。子供のくせに、もう大人の泣き方を、自分で覚え始めていた。


若いノーマンは、少し離れた場所から見ていた。


止めるでもなく、慰めるでもなく、ただ見ていた。


この子には、泣ききる時間が要る——そう思っていた。急がせてはいけない。代わりの言葉で塞いでもいけない。涙が自分で尽きるまで、そこに寄り添うだけでいい。侍従としての仕事の理屈ではなかった。ノーマン自身が、幼い頃に誰かにそうしてもらいたかった記憶が、そう言わせていた。


火が静かに衰えた。


炎が低くなり、赤い熾の塊だけが石の中に残った頃、ノーマンはようやく王子の方へ歩み寄った。膝をついた。王子と目の高さを揃えるために、背中を丸めた。


「エルウィン様」


王子は顔を上げなかった。


ノーマンは熾の中から、慎重に、何かを拾い上げた。布を巻いた手袋で火箸を扱い、小さな白いものを取り出した。


骨だった。


仔犬の、小さな骨の破片。指の第一関節ほどの、丸みを帯びた骨。


布で挟んで冷まし、懐から細い革紐を取り出して、骨に結びつけた。首飾りの形にした。結び目は何度も確かめた。素人の工作だった。それでも、ひとつの首輪にはなった。革紐の長さは、エルウィンの首回りに合わせて、慎重に調整した。短すぎてもいけない。長すぎて、走るたびに揺れて邪魔になってもいけない。


「エルウィン様」


もう一度、呼んだ。


今度は、王子が顔を上げた。


目は真っ赤だった。頬には涙の跡が何本も重なっていた。鼻の下が光っていた。口が、何かを言おうとして、言葉にならなかった。


ノーマンは、王子の首に、ゆっくりと骨の首輪をかけた。


「フェンは、勇敢でしたよ」


静かな声だった。


「あなたを守るために、自分の命を差し出したのです。仔犬の体で、あの大きな猪に突っ込んでいった。そんなことが、普通の犬にできると思いますか」


エルウィンは首を横に振った。


「できません」とノーマンは答えた。「普通の犬には、できない。だからね、エルウィン様。——フェンは、普通の犬ではなかったのですよ」


王子の目が、ほんの少しだけ開いた。


「フェンは、犬の王です」ノーマンは続けた。声にほんの少し、いたずらのような色が混じった。泣いている子供に、涙を止めるのではなく、別の方向を見せるための色だった。「本当の名前は、フェンリル・アイアンファング。古い古いお話に出てくる、犬族を統べる王です。その王様が、エルウィン様を守るために、仔犬のふりをして、あなたのそばにいてくれていた」


「……フェンが、犬の王?」


震える声だった。


「はい。本当の名前は、フェンリル・アイアンファング」


エルウィンは、胸にかけられた骨に手を触れた。


小さな、温かい骨だった。まだ熾の熱が微かに残っていた。指先に、その熱が伝わった。温度が、指の皮膚から心の奥へ、ゆっくりと沁みていくのが分かった。五歳の子供の指は、その温度を、意味のある言葉よりも深く理解した。体のどこかに、この温度を忘れないための場所を、そのとき王子は作った。それはその後、何度も他人に知られることなく、エルウィンの中に残り続ける場所になった。


「だから、エルウィン様」


ノーマンは王子の目を見て言った。


「フェンの分まで、強く生きてください。あなたを守ってくれた王の分まで、あなたは強く——優しく——生きなければいけない」


エルウィンは、頷いた。


小さな、深い、子供の頷きだった。そのとき王子が結んだ何かは、以後の十五年の間、ずっと彼の胸に残り続けるものだった。骨の首輪は、それ以来、王子の首から離れたことがない。


若いノーマンは、その夜の自分の言葉を、長い間、覚えていた。


——強く、優しく。


自分がそう言ったのだ。


自分が、そう言ったのだ。あの夜の自分は、まだ、政治の言葉を知らなかった。陰謀の言葉も、毒の配合の言葉も、夜の密談で交わされる婉曲の言葉も、何ひとつ知らなかった。五歳の子供に、泣き止めと言うのではなく、強くあれ優しくあれと言えた、あの侍従見習いが、今夜の自分の内側のどこにまだ残っているのかを、ノーマンは探すことができなかった。


だがその名前を、今、狭い通路の中で、もう一度、聞いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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