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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四十二話 その正体は、十五年前に授けたものだ

フェンリルは押されていた。


自分の傷ではない。体のどこに針が刺さったかも、どこをかすめて血が流れているかも、ほとんど意識の外だった。骨だ。骨の剣が、削られている。割れかけている。一撃を受けるたびに、白い刃の内側で、何かが軋んだ。まるで、剣そのものが小さな悲鳴を上げているような軋みだった。


骨は古い。


古い犬の命だ。骨になっても、まだ覚えている、と。何を覚えているかは言わなかった。しかしフェンリルには、今、その記憶が肌で感じ取れるような気がした。剣の柄を握る手に、古い何かが伝わってくる。昔の自分が、自分のために死んだ誰かが、そこに残っていた。温度のようなもの、匂いのようなもの——確かに感じるのに、言葉では指せないもの。それが、削られるたびに、少しずつ薄らいでいく。


その残り香が、削られていく。


フェンリルの頬を、涙が伝った。


犬の王が泣いていた。年を重ねた獣人の顔に、年相応の皺があった。その皺の谷を、涙が滑り落ちていた。


「儂の剣……儂の、大切な剣が……」


声がみっともなく震えた。金色の目の端に涙が溜まり、瞬きのたびに頬に落ちた。通路の燭台の明かりが、その一粒一粒を拾って光らせた。涙は熱かった——獣人の体温は人より高い。その熱が、革の頬当ての縁を湿らせた。


次の一撃が来た。


フェンリルは咄嗟に受け、踏ん張った。骨の剣の刃に、また一つ、細い傷が増えた。刃のどこかで、微かに罅が走る音がした。フェンリルにしか聞こえない音だった。


「……もう、よい」


フェンリルは歯を食いしばった。涙は止まらなかったが、口元が引き締まった。泣くことをやめたのではない。泣いたまま、別のものを顔に重ねたのだった。


後退した。壁に背がつくほどの位置まで下がり、そこで足を止めた。骨の剣を両手で握り直し、ゆっくりと——ゆっくりと——頭上に掲げた。敵に晒した構えだった。隙だらけの構えだった。しかしそれは、これから儀式を行おうとする者の構えでもあった。


白い刃が、燭台の明かりを受けて淡く光った。傷だらけだった。ひびも入っていた。しかしまだ折れていなかった。折れていない限り、この剣はまだ、剣だった。


フェンリルは胸を張った。帽子の下で犬の耳が真っ直ぐ立ち、尻尾がぴんと伸びた。背筋が、負けている犬獣人のそれではなくなった。狭い通路の中で、不意に天井が高くなったような錯覚があった。


「聞け、人間」


声が、変わっていた。


さっきまでの喘ぎはなかった。涙もまだ頬にあったが、声だけは朗々と、通路の石壁に反響するほどの響きを持っていた。王の声だった——誇りに満ちた、名乗りの声。どこかで眠っていた声だった。それが、骨の剣が削られることで、ようやく目を覚ましたかのようだった。


「儂の名はフェンリル・アイアンファング」


骨の剣の切っ先が天を指した。


「犬族の王なり。——お主を、成敗する」



ノーマンの動きが、止まった。


湾刀が、中段で止まった。振り下ろそうとしていた腕が、そのまま静止した。動きそのものが凍ったかのように、一瞬、通路の空気までが止まった。燭台の火までが、揺れるのを忘れていた。


瞬きが、一つ。


ノーマンの目の中で、何かが動いていた。瞳孔が、ほんの少し開いた。口元はまだ一文字に引き結ばれていたが、その結び目の力が、わずかに緩んだ。彼自身が、自分の動きが止まったことに、数拍遅れて気づいたかのような顔だった。仕事人の顔の下から、別の顔が、ゆっくりと押し出されていた。


「——フェンリル・アイアンファング」


口の中で、そう呟いた。


小さな声だった。戦場の呼吸の外に零れ落ちた声だった。訓練で削ぎ落としてきたはずの感情が、その名前の最後の一音に、ほんの少しだけ滲んでいた。


『その名を、誰から聞いた』


と、ノーマンの内側で、誰かが問うた。自分自身の声だった。もう十年以上も前に葬ったはずの、若かった自分の声。押し入れの奥に仕舞い込んだ古い剣が、錆びた鞘からひとりでに抜け出そうとするような、そういう声だった。宰相になる前の——まだ侍従見習いだった頃の、訓練で声の抑揚を殺す前の、普通の男の声だった。その声が、今夜だけは、仕事の声を押しのけて出てこようとしていた。


——あれは、十五年近く前の、ある秋のことだった。



——あれは、秋口のことだった。


王宮を出て北へ半日、楢と白樺の混じる森が広がっていた。王家の代々の猪狩り場で、年に一度、秋の初めに王と貴族たちが勢子を連れて入る場所。葉は黄と赤に染まり始めていたが、梢の奥はまだ深い緑だった。朝靄が低く這い、足元の草の先にだけ露が光っていた。空気には、湿った落ち葉の匂いと、どこか遠くで焚かれた炭火の匂いが混じっていた。


ノーマンは、王の背後に控えていた。


当時は三十代の半ば。侍従としてはまだ新参で、毒味の役も身辺警護の役も、すべてが緊張の連続だった。王——まだ若かったエドバー——は木立の陰で弓を構え、鏃の先に獲物を待っていた。肩まで伸ばした髪を後ろで結び、狩り装束の腰には短剣を吊り、背筋が真っ直ぐだった。あの頃の王は若く、強く、そして優しかった。後年の、疲れ果てて玉座にもたれかかる王とは別人のようだった。


少し離れた後方に、小さな影がいた。


五歳のエルウィン王子だった。


「後方で見ているんだぞ、エルウィン」と王は言った。その声には、厳しさより柔らかさの方が勝っていた。「お前はまだ弓を持つ年ではない。ノーマンと、ここで見ているんだ」


「はい、お父様」


エルウィンは目をきらきらさせて頷いた。短いマントを羽織り、腰に木の短剣を下げていた。木でできた、飾りのような短剣だった。それでも本人は、これがあれば立派な狩人だと信じて疑っていない顔をしていた。子供の顔は、まだ嘘というものを知らなかった。


王子の足元に、小さな犬がいた。


銀色の——というには、むしろ白に近い毛並みの、毛むくじゃらの仔犬だった。足は短く、目は丸く、尻尾が切れ目なく振れていた。名は「フェン」。エルウィンが三歳の誕生日に王からもらった犬で、以来、王子の後をついて回るのが仕事のようなものだった。王子が走れば走り、王子が座れば足元に丸まり、王子が泣けば顔を舐めに行く——そういう仕事だった。どこから連れてこられた犬なのか、王も王妃も詳しくは語らなかった。「北の、古い血の犬だ」と、エドバーはただそれだけを、息子に伝えた。


森の奥で、声が上がった。


「そっちへ行ったぞー!」


勢子たちの声だった。獲物を追い立てる声が、木の間を縫って近づいてくる。エドバー王は弓を引き絞り、息を整えた。ノーマンは王の背後で短剣の柄に手を添えた。


そのとき、エルウィンの目が横に逸れた。


木の根を、一匹のリスが走り抜けていた。ふさふさの尻尾。枝から枝へ飛び移り、一瞬だけ止まって振り返り、また走り出した。五歳児の目に、それは猪より、王の狩りより、はるかに面白いものだった。


「——あっ」


エルウィンが声を漏らした。


足が動いていた。


「エルウィン!」ノーマンが小声で制した。しかし王子はすでに一歩を踏み出していた。二歩、三歩。リスを追って、木立の中に駆けていく。


フェンが吠えた。


いつもの甘えた鳴き声ではなかった。切迫した、低い声。短い前足がエルウィンのマントの裾を咥え、後ろ足を踏ん張って引き戻そうとした。仔犬の本能を超えた、何かの強い意志が、その小さな体に宿っていた。


が、五歳児とはいえ、子供の体重は仔犬の重さに勝った。裾が引かれる力を感じながらも、エルウィンはリスの後を追いかけ続けた。引きずられる形になったフェンは、それでも裾を離さなかった。ずるずると木の根を滑り、苔にまみれながら、それでも離さなかった。乳歯がマントの布に食い込み、布の繊維が糸を引いて伸びていたが、離さなかった。


ノーマンは走り出した。王の背後を離れた。


「陛下、王子が——」


「構わん、行け!」


エドバーの声が背中を押した。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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