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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第四十一話 骨は、削れたら戻らない

通路は狭かった。


フェンリルは足を滑らせるように後ろへ下がり、骨の剣を正面に構え直した。王宮の本館に続く裏手の廊下——元は衛兵の行き来のために切られた細い通路で、肩幅がほんの少し広ければ両腕を広げることすら叶わない。石壁の両側には鉄製の燭台が等間隔に並び、その火がわずかに揺れていた。遠くで、祭りの歓声がまだ続いていた。笛の音も、太鼓の音も。だがこの通路の中だけは、別の世界のように静かだった。狭い場所というのは、獣人の勘が鈍る場所だった。普段なら風で嗅ぎ分けるものが、この通路では動かない。目と耳だけで間合いを計らなければならなかった。


正面に、ノーマンが立っていた。


足音がしなかった。さっきの踊り場から追ってきたはずなのに、息ひとつ乱れていない。六十を過ぎたとは思えない軽やかな足捌きで、床の石を撫でるように歩いてくる。両手の指の間から、何本かの鉄針が覗いていた。親指ほどの長さの細い針。先端が黒い。光を当てると、染みた液が鈍く光った。


「王宮の奥は血が汚します」ノーマンは静かに言った。「ここで済ませましょう」


フェンリルは低く唸った。


犬の耳が帽子の下でぴんと立ち、尻尾が一度だけ大きく振れた。金色の目がノーマンの指先に向けられている。針だ。投擲武器が主だ、とフェンリルは読んだ。剣のように間合いを計るより、先に射程を潰す——それが戦術の基本だ。


踏み込んだ。


石畳を蹴り、一気に間合いを詰める。骨の剣が上から下へ、縦に振り下ろされた。王道の、教本に載るような一撃だった。フェンリルの剣筋は美しかった。肩から腰までが一本の線で繋がり、無駄な力みがなく、刃の重さがそのまま落下するだけで必殺の威力を持った。この一撃で仕留めるつもりだった。仕留めなければ、次の余裕が来ない相手だと、その目を見て分かっていた。


ノーマンは、その刃の下にいなかった。


体を横に流したのではない。刃が振り下ろされる軌道の、ほんの半歩だけ外に、自然に立っていた。移動したように見えなかった。ただ、そこにいなかった。そしてフェンリルの腕が振り下ろされ切った瞬間——左の脇腹に、鋭い痛みが走った。


針。


鉄針が一本、革の外套を貫いて皮膚に刺さっていた。毒が回る前にフェンリルは針を引き抜き、石畳に投げ捨てた。毒は強くなかった——あるいは、一本では効かないように調整されているのか。二本、三本と刺し込んで初めて倒れるように設計されている毒なら、使い手はかなりの手練れということになる。毒の濃度と本数で効き目を計算する職人芸だ。


「よく気づかれますね」ノーマンが静かに言った。「普通の者なら、今ので足が痺れています」


「儂を普通の者と一緒にするな」


「失礼を」


ノーマンの声に抑揚がなかった。感情が削がれているわけではない——ただ、戦いの最中に感情が滲まないよう、長い年月をかけて訓練された声だった。毒味の役目、王の身辺警護、夜の密談。この声は、その全部を経由して作られた声だ。宰相という肩書きの下に、別の職業の履歴が何層も折り重なっていた。


フェンリルは二撃目を繰り出した。


今度は斜めの切り上げ。低い位置から対角線に、ノーマンの左肩を狙った。刃が石壁を擦る寸前で反転し、下から上へ抜ける軌道。これも美しかった。騎士団の剣術の、もっとも基本的で、もっとも洗練された形。


ノーマンは背中を仰け反らせた。


人間の関節はそこまで曲がらないはずだった。背骨がしなり、顎が天井を向き、そしてその姿勢のまま、右腕が振られた。関節を外して曲げているのではない。曲がる範囲を、訓練で広げ切った体だった。


針が三本、扇のように放たれた。


フェンリルは骨の剣の腹で二本を弾き、残る一本を身を捻って躱した。躱した針は通路の奥の石壁に刺さり、小さな音を立てた。石壁に刺さる音が、この通路の狭さをそのまま返してきた。反響の長さで、壁までの距離が分かる。フェンリルはその情報を頭の隅に留めた。


息を整える間もなく、ノーマンが動いていた。


床を蹴らなかった。石畳に吸いつくような、滑るような足運びで、一気に間合いに入ってきた。懐が、近い。針の射程ではなく、殴打の射程。その距離で、ノーマンの左手が懐から何かを引き抜いた。


鋼が、走った。



曲線を描いた刀身だった。


柄から切先まで、緩やかに湾曲している。片刃。刃紋が蛇の腹のように細かく浮かんでいる。西方の国で使われる湾刀——シャムシール、とその名を知る者もあるだろう。直剣とは重心の位置が違う。斬る動作のなかで、自然に刃が引かれる構造をしている。剣というより、刃そのものが仕事をする武器だった。


フェンリルは骨の剣を正眼に戻した。


湾刀が、横薙ぎに来た。


弾く——のではなく、骨の剣は受け流す形を取った。直剣対湾刀で真っ直ぐ受ければ、湾刀の引きに剣ごと持っていかれる。フェンリルはそれを知っていた。本能か、それとも体のどこかに残った記憶か、いずれにせよ正しい選択だった。


が——骨の剣の刃に、軽い傷がついた。


フェンリルは目の端で見た。


白い刃の側面に、ほんの短い線が走っていた。刃こぼれではない。削れたのだ。湾刀の刃が、骨の表面を薄く削って通り抜けた痕だった。骨というのは削れれば元に戻らない。鉄のように叩き直すこともできない。削れた分だけ、確実に減っていく素材だった。


「……」


喉の奥で音がした。


ノーマンは踏み込みを止めなかった。一撃が流されたことなど意に介さず、二撃目をすぐに繋げた。今度は斜めに切り下ろし。フェンリルは半歩退いて受け、また受け流した。またも骨の刃に、細い線がついた。


三撃目。四撃目。五撃目。


湾刀の動きは止まらなかった。一つの動きが次の動きの予備動作になっており、途切れなく繋がっていく。西方の剣術は、斬撃と斬撃の間に隙間を作らない。弧を描く刃の動きが、そのまま次の弧へと繋がる。フェンリルは王道の騎士の剣術でそれに応えようとした——一撃ごとに止まり、重心を置き直し、次の構えに入る。その、構えに入る瞬間の隙を、ノーマンの湾刀が削った。相性が悪かった。フェンリルの剣術は敬意の剣術で、ノーマンの剣術は仕事の剣術だった。敬意は一拍を置く。仕事は一拍も置かない。


骨の剣に、細かい傷が無数に走っていた。


一合ごとに、薄い白い粉が舞った。骨の粉だった。通路の燭台の火が、その粉を一瞬だけ明るく照らしては、また暗闇に落とした。粉は床に降り積もり、フェンリルの足の周りに白い輪を作り始めていた。戦いの拍子が、粉で視覚化されていた。


一本目の大きな線が入ったのは、十数合を打ち合ったあとだった。


フェンリルの喉から、また音が漏れた。今度はもっとはっきりした音だった。喘ぎのような、呻きのような。金色の目が、湿っていた。光の加減のせいではなかった。骨の剣は、単なる武器ではない。かつて共に駆けた仲間の、その一部だった。それを削られているのだ。削られているのを、見ていることしかできないのだ。


「——傷む」


声が震えていた。


骨の剣への執着に、ノーマンの顔が一瞬だけ止まった。眉ひとつ動かさないはずの顔の、その中の時間だけが、一秒、静止した。ほんの一秒だ。だがその一秒は、さっきまで止まらなかった湾刀の流れのなかで、明らかに異質な一秒だった。何かが引っかかった顔だった。だがそれを引きずりはしなかった。仕事を引きずる者は、仕事を続けられない。ノーマンは長くこの仕事を続けてきた人間だった。一秒で、元の顔に戻った。だが一秒は、フェンリルの目にだけは、はっきりと見えていた。


答える代わりに、踏み込んだ。

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