第四十話 願いは、世界を滅ぼすものでも
広場に静寂が落ちたのは、ほんの数秒の出来事だった。
ミラは自分の手を見ていた。
指輪が光っていた。赤黒い光が、まるで心臓のように脈を打っていた。弱く、強く、また弱く、また強く——その間隔が、だんだんと速くなっていた。指先の骨の奥で、温度が上がっているのが分かる。熱いのではなく、何かが目を覚ましつつある、その前触れの温度だった。
「どこで手に入れたの、その指輪」セレニティーが言った。声が鋭かった。
「アルダーが渡してきた。お釣りだって。あの……犬みたいな戦士から貰った直後に」
「どういうこと?!」
「わからない!」
二人が顔を見合わせた。合わせた目で、互いに同じ結論に達していた。——答えを持っている人間が、ここにはいない。ここにいないなら、この状況は自分たちで何とかするしかない。
次の瞬間、赤黒い光が指輪から溢れ出した。
波のように広がり、高台から下へ、広場の石畳へと流れ出した。光は一方向に向かっていた。広場の端の石段——そこに置かれているベンチ。
光の筋が、ベンチに座っているひとりの老人の元へと収束し始めた。
ミラは目を細めた。あの老人は——
その老人の手の甲に、赤黒い光が染み込んでいた。
◆
メギドは手を見た。
動かした。確かめるように指を開き、閉じ、また開いた。手の甲の皮膚の下を、光が脈打つように走っている。血管が発光しているような奇妙な感触だった。そして——その感触には、覚えがあった。覚えがあるのに、思い出すことを長い間拒み続けていた、その感触だった。
『まさか』
彼は慌てて耳栓を外した。雨玻璃の粒の音楽が途絶えた。耳栓を外した瞬間、広場のすべての音——悲鳴、足音、崩れる露店の音——が一度に流れ込んできた。後ろを振り返った——ベンチが高台とは逆を向いていたから、振り向く形で二人の方角を見た。
ミラの手が見えた。指輪が燃えるように輝いていた。
「バカな」声が出た。「王家に受け継がれる、復活の指輪……」
言い終わる前に、変化が起きた。
最初は小さかった。メギドの体が、一度だけ脈打つように膨れた。燕尾服の縫い目がほつれ始めた。次の拍にまた膨れた。その次も。まるで内側から何かが膨張しようとしているような膨れ方だった。膨れ方には拍子があった。その拍子は、ミラの指輪の脈動と、正確に同じ速さだった。
広場の人々が悲鳴を上げ始めた。
逃げる足音が石畳を叩いた。子供が母親の陰に隠れた。露店の主が荷物を抱えて走り出した。「何だ何だ」と怒鳴りながら走る男が、立ち止まって上を見上げる男とぶつかった。倒れた男を跨いで、別の男が走った。跨ぐという動作を、今夜だけで、この街の人々は何度もすることになった。
メギドの体が膨張し続けた。
二倍。三倍。服が完全に裂けた。赤黒い光が全身を包みながら、輪郭が溶けていった。老人の形が崩れ、別の何かに変わっていった。建物の一階の高さを超えた。二階に届いた。輪郭が定まり始めた頃には、もう建物の三倍ほどの高さになっていた。
巨大な蛇だった。
鱗が赤黒い光を受けて鈍く輝いていた。体が動くたびに風が起きた。尾が石畳を薙ぐと、露店の残骸が吹き飛んだ。頭部が空に向かって伸び、月の手前まで届くかのような高さになっていた。空気の匂いが変わった。熱でも冷気でもない、別の何か——長い時間が地層のように積もった匂い、とでも言うしかない匂いだった。
ミラとセレニティーは高台の上で、一歩も動けなかった。首を伸ばして上を見上げていた。蛇の体が広場全体に影を落としていた。背後には血で染まったような月が見えた。
蛇は閉じていた目を、ゆっくりと開いた。
黄金だった。瞳は深い黄金色で、その中に無数の光が動いていた。星が流れているような、夜空の深部を凝縮したような、吸い込まれていくような光だった。それがミラとセレニティーを見下ろしていた。
広場は静まり返っていた。人が消え、音楽が消え、祭りの賑わいが消えた。広場の石畳の上には誰もいない。二人だけが残っていた。取り残された、という表現よりは、選び出された、という表現のほうが近かった。
地が揺れるような声が来た。
「不運か、幸運か——」
世界の底から響いてくるような声だった。怒りではない。悲しみでもない。長い時間を生きた何かの、疲れた声だった。何度も同じ場面に立ち会ってきた者の声だった。
「世界はもう一度、試されることとなった」
大蛇の目が、ミラとセレニティーを見ていた。
大蛇の頭が、ゆっくりと二人に向かって降りてきた。距離が縮まる。黄金の目が近くなる。それだけで、足の震えが止まらなくなった。
「汝よ、願いを三つ伝えよ」
声が、静かな波のように広場に満ちた。
「どんな願いでも叶えよう」
一息、間があった。
「それが——世界を滅ぼすものであったとしても」
ミラは息を止めた。
セレニティーは剣に手をかけていたが、体が動かなかった。弓使いの指が、こんなにも動かないのは初めてだった。射てばいい、と頭は言っていた。だが、射たところで意味がないということを、体のほうが先に知っていた。相手の格が違いすぎる時、弓使いの指というのはこうなるのだ、と初めて知った。
黄金の目が、静かに、ふたりを見ていた。瞬きもしなかった。ただ、何千年も前から同じようにしてきた、そういう見方だった。この見方をされた人間は、歴史の中で何人もいたに違いない。そしてそのうちのほとんどが、願いの選び方を、誤ったに違いなかった。
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