第三十二話 花火の夜、城壁の外で
グロームは城壁の上から西の森を見ていた。日が落ちるのと同時に、森から音が全く聞こえなくなった。
夕暮れの残照が地平線に溶けていくころ、森の縁が妙に静かになった。虫の声がない。鳥も鳴かない。風すら止まっていた。グロームは長年傭兵をやってきたが、こういう静けさには覚えがある。戦場の直前、両軍が息を呑む瞬間の沈黙に似ていた。ただしそれは人間の軍隊相手の話だ。人間はまだ恐怖で静かになる。恐怖のない何かが静かになるときは、また別の種類の静けさになる。今、森から滲んできている静けさは、その別の方の静けさだった。
「……臭う」
隣に立っていた若い衛兵が顔をしかめた。グロームは答えなかった。腐ったものの匂いだ。土が腐るのとも、肉が腐るのとも少し違う。もっと古い腐り方をした何かの匂い。風がないのに、それだけははっきりと鼻をついてきた。鼻の奥の一番古い場所が、まず先に警告を出した。脳の判断よりも早く、体がこの匂いを知っていた。
最初に動いたのは一体だった。
森の縁、木々の間から、人の形をしたものがよろよろと出てきた。距離があって細部まではわからないが、歩き方がおかしい。膝が逆に曲がっているか、あるいは曲がり方を忘れているかのような、ぎこちない前進だった。革鎧か何かを身につけているが、ほぼ腐り落ちている。顔は影になって見えなかった。見えないことが、かえって悪かった。人間の顔があるべき位置に、ただ暗い空白だけがあった。
「一体だ」と衛兵が言った。「あれが……アンデッドですか」
グロームは答えなかった。視線を上に向け、木々の向こうを見た。
次の瞬間、森全体が動いた。
一体が七体になった。七体が百体になった。百体が、視野の端から端まで埋め尽くすような数になった。木々の間から、草むらの中から、ぬかるみの向こうから、次々と人の形が現れ、よろよろと前進してくる。静寂の中に、無数の足が地面を踏む音が重なり始めた。ひとつひとつは小さな音だが、それが何千、何万と積み重なると、大地が唸るような低い震動になった。城壁の足元の石が、その震動を受けてわずかに軋んだ。グロームの靴底がそれを感じ取った。
城壁の上の衛兵たちが固まった。誰かが「神様」と呟いた。神様という言葉が、こういう場面で最初に出てくることをグロームは知っていた。人間は、自分の手に余るものを見ると、まず上の方を仰ぐ。
数えることに意味はなかった。一万か、二万か、あるいはそれ以上か。森から溢れ出てくるアンデッドの群れは、夜の帳が降りるにつれてますます膨らんでいった。先頭が城壁の射程に入ってきたころには、後方がまだ森の中に消えていた。
三万、という数字が誰かの口から出た。グロームはそれを聞いて、黙って城壁の階段を降りた。今から祈っても遅い。やるだけやるしかない。階段を一段ずつ下りるたびに、下の戦士たちの顔が近くなった。顔に浮かんでいる色は、全員共通だった。恐怖と、覚悟と、その二つが混じったような何か。グロームは歯を見せて短く笑った。笑ったのは自分のためではなく、下で見上げている者たちのためだった。指揮官が笑っているということは、まだ諦めていないということだ。それくらいの計算はこの年齢になれば自然に出てくる。
◆
広場の中心にある石造りの台の上で、セレニティーは声を張り上げた。
「みなさん、楽しんでいますか!」
返ってきたのは歓声だった。
広場は人で埋め尽くされていた。復活祭はもうすぐで終わりを告げる。街中からの人出が集まっていた人々も最後のイベントを楽しみにしていた。露店の灯りが並び、子供たちが走り回り、どこかの楽団が陽気な曲を奏でていた。焼いた肉の匂いが漂い、笑い声があちこちから上がっていた。
セレニティーはその喧騒を正面から受け止めながら、笑顔のまま台の上に立っていた。彼女は弓使いで、こういった人前での仕切り役は本来得意ではない。だが今夜、この場に必要だったのはそういう人間だった。大きな声が出る者。場を保つことができる者。そして、合図の意味を理解している者。
セレニティーはミラに協力することに専念していた。だから、彼女が台に上がった。それだけのことだった。
「今夜のメインイベントは——花火です! 上を見てください!」
また歓声が上がった。
セレニティーは手を上げ、笑顔を保ちながら——視線の端で、広場そばの建物の屋上方向を確認した。そこに緊張したミラが待機していた。屋上の輪郭に、小さな影がひとつ見えた。動いてはいないが、呼吸をしている気配だけが伝わってきた。セレニティーは視線を戻し、もう一度観客を見渡した。観客は楽しんでいる。楽しんでいるうちは、まだ時間がある。
セレニティーは笑い続けた。
「もうすぐですよ! 準備ができたら知らせますので、それまで周りの露店も楽しんでいってください!」
◆
屋上に出る階段の最上段で、ミラは空を見上げていた。
夜空は澄んでいた。星が出始めていた。風は弱く、花火を打ち上げるには良い条件だった。
手元には小さな旗がある。白い布に、星の刺繍が施されたものだった。特に意味のある柄ではない——ただ夜の中でも目立つように選んだだけだ。旗の端が指の間で少しだけ震えていた。震えているのは布ではなく、ミラの指の方だった。
ミラは深呼吸した。
今夜、花火を打ち上げる。それだけを考えていた。
「……緊張してる?」
声をかけてきたのは、隣に立っていた少女だった。復活祭の警護についていた守備隊の子で、名前はアマリだ、とミラは思い出した。
「ちょっとだけ」とミラは答えた。
「ミラさん、手が震えてますよ」
「それはそう」
アマリが笑った。ミラも笑った。笑ったら指の震えが少し落ち着いた。笑うという動作は、体にとって一種の深呼吸らしい、とミラは思った。
「うまくいきますよ、きっと」とアマリは言った。
「……そうだといいな」とミラは答えた。
下から祭りの音が聞こえてきた。楽団の音楽、人の笑い声、遠くでセレニティーが話している声。
ミラは旗を握り直した。
◆
広場の隅、人波から少し外れたベンチの上に、メギドは座っていた。
両耳には小さな栓が入っていた。ぴったりと耳に収まる、夜弦草の繊維で編まれた耳栓だった。繊維の内側には、薄く削られた谺晶の片が一定の間隔で織り込まれている。表面には風鈴砂が馴染んでおり、指で触れると細かな振動が返ってくる、そういう作りだった。鍛冶屋のアルダーが小さな木の箱に入れて渡してきたものだ。
耳栓の中では、沈黙があった。
より正確には——沈黙を作るための、ごく小さな音楽があった。谺晶の片が、耳の奥に寄り添うように微かな旋律を奏で、夜弦草の繊維がその音を広げず留め、風鈴砂が倍音を整える。祭りの喧騒は、その小さな音楽の向こう側にあった。声も、太鼓も、焼けた肉の匂いに混じる笑い声も、水の底から聞こえてくるような、そういう遠さで届いていた。静けさを作るには、音が要る——というのが、あの鍛冶屋の言い分だった。奇妙な理屈だと最初は思ったが、耳に入れてみて、メギドは納得した。メギドはそれが好きだった。世界が少しだけ遠くなる。それだけで、随分と楽になれた。若い頃には耐えられたすべての音が、年をとるにつれて少しずつ重くなっていく。重くなった音は、耳栓の向こうに置いておくに限る。
彼は空を見上げた。夜の闇の中に、星が出始めていた。
『今夜は、いい夜だな』
と、メギドは思った。
復活祭の最終夜。空は晴れていて、風も穏やかだった。食べ物の匂いがした。知らない人たちが楽しそうにしていた。特に何かをするでもなく、ただここに座って空を眺めているだけで——それだけで十分だった。十分というのは、長年かけてようやく手に入れた感覚だった。若い頃の「十分」とは違う、落ち着きを含んだ種類の十分だった。
ベンチの横を、子供たちが笑いながら駆けていった。
メギドは目を細めた。
◆
「合図が来ました!」
アマリの声が鋭くなった。
ミラは振り返った。下の路地に、小さな灯りが点っていた。ランタンを一度振る——それが合図だった。
ミラは旗を手から放し、脇に置いた火種を手に取った。
「打ち上げます」
「はい!」
ミラは手順通りに動いた。火種を花火の導火線に当て、一歩下がる。導火線の先の赤い点が、糸を伝うように後退していった。赤い点が樽の中へ消えた瞬間、ミラは息を止めた。
派手な音がした。
光が空へ向かって上がった。夜空に弧を描き、頂点で——爆ぜた。
赤と金が夜を割った。続けて二発目が上がり、三発目が続いた。広場から大きな歓声が聞こえてきた。みんな喜んでいた。きれいだと思っているのだろう。ミラもそう思った。きれいだ、と。
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