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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第三十話 祭の準備は、期待であるれている

広場は、賑わっていた。


出店が並んでいる。焼いた肉の煙が上り、花売りの声が飛び、子供が走り回っている。生演奏の音楽が広場全体を包んでいて、笛の音と弦の音が重なり合い、その音に合わせて手拍子をとる者もいれば、ただ立ち止まってそれを聴いている者もいた。出店の間を通る風は、甘いものと焦げたものと花と、そして少しの汗の匂いを一緒に運んでいた。空は夕焼けの橙から、東の方が少しずつ藍色に変わり始めていた。昼と夜の境目を、今日一番賑やかな時間が埋めていた。


その熱気の中で、一つのフードが人波を縫って動いていた。


ミラだった。


「残り一つね、こっち」とミラが言い、横のセレニティーの腕を引いた。


「分かった、分かった。引っ張らなくていい」


「混んでるから」


「見れば分かる」セレニティーは背中の弓の紐を直しながら言った。「でも本当に混んでる。こんなに来るとは思わなかった」


「邪神復活祭、って名前だけ聞いたら怖い感じがするのに」


「だから私が何回も説明したじゃないですか」とミラが振り返らずに言った。「邪神が復活するわけじゃないと」


「分かってるって。面白そうだから来てる、ってことでしょ」


ミラは少し口を結んだが、反論しなかった。反論すべきか迷っている間に、人波がもう一押し背中を押してきた。反論する余裕がないうちに、議論は流れて消えた。人混みというのは、ときに議論を終わらせるのに便利な場所だった。


二人は広場の端の路地に入り、建物の裏手へ出た。こちらは人通りが少なかった。石の壁の間を抜けると、音が急に遠くなった。人の声も音楽も、壁の向こうに置き去りにされたように細くなる。使われていない三階建ての建物が見えた。ここの屋上に、最後の樽がある。


外階段を登り始めた。ミラが先で、セレニティーが後に続く。段が少し軋んだ。木が古く、釘が浮いている場所もあった。


「重たい」とミラが三段目で言った。


「だから一人でここまで運んだのはすごいよ」とセレニティーが下から言った。下から見上げる角度で、フードの奥のミラの耳が赤くなっているのが見えた。褒められるのに慣れていない人間の耳の赤さだった。


「四日前に全部運んだのが大変だったから、今日は慣れた」


「本当にごめん」


「いいって。終わった話」ミラは上を向いたまま、少しだけ声を柔らかくした。終わった話、と口で言える人間は、本当に終わらせた人間だけだ、とセレニティーは思った。「今日うまくいけばいい」


二人が屋上に出た。


風が吹いた。


下の喧騒が少し遠のいて、空が広がった。西の方に夕焼けの橙が残っており、東はすでに深い青になっていた。その境目のあたりに、まだ光が横に広がっている。昼と夜がまだ決着をつけていない、短い時間帯だった。屋上の端に、木樽が一つ置いてあった。


ミラが近づいて蓋を確かめた。ちゃんと閉まっている。問題ない。


「やって」とミラがセレニティーを見た。


セレニティーは弓を直接樽の内側の中に入れて砂と化した火薬をかき混ぜた。弓の先が樽の内側を一周するように動き、砂を端から端まで撫でていった。


光が樽の中に消えた。


一瞬の沈黙。


それから、樽の中で何かが流れ込むような音がした。水ではない、もっと細かい粒子が、新しい形を獲得していく音だった。


ミラが蓋を開けると——砂だったはずの中身が、黒い粉に変わっていた。火薬の匂いが上ってきた。硝石と硫黄の、あの乾いた鋭い匂いが、風に乗らないうちに二人の鼻に届いた。


「何回見ても凄い」とミラが言った。「どうなってるんだろう」


「私にも分からない」セレニティーは弓を背中に戻した。「アルダーって、本当に何者なんだろうね」


「私もずっとそれを思ってた」ミラは蓋を閉めながら言った。「祭りが終わったら、絶対に聞く。答えてもらうまで店から出ない」


「答えないと思う」


「それでも聞く」


二人は顔を見合わせた。ミラが笑った。目の端が細くなる笑い方で、頬に少しだけ赤みが出た。セレニティーも笑った。こちらはもう少し声に出た笑い方で、夕暮れの屋上に短く響いた。笑い声は、壁の向こうの喧騒には届かずに、屋上の上だけで消えていった。


屋上から広場を見下ろすと、生演奏の音楽が風に乗って上がってきた。笛の音と弦の音が混じり合っている。その音楽に合わせて誰かが手を叩く音も聞こえた。子供が誰かの肩車に乗っている声もある。生活の音、というより、生活の上に一日だけ重ねられた祝祭の音だった。


広場の端、ベンチが三つ並んだ場所が見えた。


その一番端に、黒に近い濃紺の上着を着た老人が座っていた。


メギドだった。


背筋が真っ直ぐで、膝の上に帽子を置いて、広場の方を向いている。耳には、小さな何かが嵌まっていた。雨玻璃の微片が閉じ込められた、あの耳栓だ。老人は目を細めて、静かに広場を眺めていた。広場の賑わいの中にいながら、どこか遠い時間の中にいるような顔をしていた。祭りを見ているのか、祭りの向こうにある何かを見ているのか、屋上からは判じきれなかった。


「あの人、毎日あそこにいる」とミラが言った。


「知り合い?」


「ううん。でも、ずっとそこにいる気がする。ずっと前から」


「ずっと前って、どれくらい?」


ミラは少し考えた。


「……分からない。私がここで仕事を始めた頃には、もうあのベンチにいた気がする。そのときからずっと、あの角度で座っている」


セレニティーはしばらく老人を見ていた。


背筋の角度、帽子の置き方、膝の上で重なった手——全部が、長い年月をかけて身についた所作だった。見ているこちらが、何十年もかけて磨かれた静けさを、遠くからでも感じ取れるような。そこに座っている、という動作そのものが、もう一つの作法になっている老人だった。


「祭りが始まったら、ここから花火を上げるの?」とセレニティーが訊いた。


「そう。司祭の言葉が終わったのが合図」とミラが言った。「もうすぐだと思う」


ミラは空を見た。


夕焼けの境目が、少しずつ暗い方に移っていた。境目というのは、見ている間に少しずつ位置を変える。どこで夕焼けが終わって夜が始まったのか、あとになってもたぶん特定できない。しかし、それを見ている二人は、いま自分たちが境目の真ん中にいる、ということだけは確かに分かっていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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