第二十四話 勘違いにも、度がある
「だからアンタは何者なの?」
店の中に、セレニティーの声が弾んだ。怒っているわけではない。しかし諦めていない声だった。
アルダーは金床の上の金属を布で丁寧に拭きながら、返事をしなかった。返事をしない、というよりも——これで何度目の同じ質問か、そろそろ数えるのを諦めた、というのが正確だ。工房の金床は仕上げの段階に入ると、布の目の細かさを順に変えていく必要がある。粗い布から細かい布へ、段階を飛ばすと表面に筋が残る。今日はたまたまその作業に当たっていた。手を動かす言い訳としては、ちょうどいい作業だった。
「ねえ、聞いてる? 本当に聞いてる?」
「聞いてる」
「じゃあ答えて」
「何に」
「何者かって聞いてるの!」
アルダーは布を折り返した。「鍛冶師だ」
「それは知ってる!!」セレニティーはカウンターを人差し指でとんとんと叩いた。「そういうことじゃなくて——なんで何でも作れるの、どこで覚えたの、なんでここにいるの、ここに来る前はどこにいたの、そもそもいくつなの」
「仕事に関係ある質問か」
「ない! でも気になる!」
「では答えない」
「えー」
アルダーはカウンターに肘をついたセレニティーをちらりと見た。くすんだ金色の髪と、少し尖った耳。エルフだ。とはいえ、エルフらしい気品というものを、この女には一切感じない。感じないというより——あえて意識して着込まないのかもしれない。背中に背負った弓が、その証拠だ。あの弓は、先日の一件で、少し事情が変わった。持ち主の方も、あの夜以来、こちらを見る目の角度が少しだけ変わった。
「トッドはどうしている」
「今日はお休みです! 正騎士団の建物を調べてるって言ってたから、そっちで忙しいと思う。特殊武器と邪教の結びつきを調べてるって——でも新しい情報はまだないみたい。後で教えてもらう予定——」
セレニティーが言いかけたとき。
細い、押し殺した音。抑えようとして抑えきれていない声が、カウンターの木肌に吸い込まれていく。
セレニティーが戸惑った声を出した。カウンターの端の方——普段は工具箱の影になって目につかない場所——に、小柄な人影がうずくまっていた。フードを深くかぶり、顔が見えない。カウンターに頭をつけた姿勢で、肩だけが小刻みに動いている。
カウンターに頭をつけている人物はしばらく何も言わなかった。しばらくして、ゆっくりと顔を持ち上げた。目が赤い。鼻の頭も赤い。
ミラだった。
「また——いつからいたの?」
セレニティーの声が、叱っているようで叱っていない声になった。フードの存在に誰も気づかなかったという事実は、フードを作った側としても、客の側としても、少しだけ複雑な顔にさせるものがあった。
◆
「話してみろ」アルダーは言った。
ミラは一度鼻をすすった。それから少し大きく息を吸って、口を開いた。
「大きなイベントの担当者になったんです」
「イベント?」
「はい。その——フードを、アルダーさんに作っていただいたフードのおかげで、準備を進めることができて。あと少しで全部揃うところまで来ていたんです。ポスターも貼って、出店の場所も確認して——」
ミラはそこで詰まった。
「それが」とアルダーは促した。
「今日確認したら——イベントの目玉行事が壊されていて」
沈黙が落ちた。
◆
——あれは、数週間前のことだった。
ミラはベイルボーン教団の修道士だ。街に馴染みは薄い。一般の人々にとって、ベイルボーン教団という名前を聞いたことがある者は少ない。
理由がある。
ベイルボーン教団は、街の人々への福祉を目的とした団体だ。病気の者に薬を届け、仕事を失った者に食事を提供し、孤児を引き取る——そういった活動を、静かに続けている。収入は御好意による献金のみ。宣伝はしない。売り込みもしない。ただ、必要とされる場所に、必要とされるものを届ける。
だから組織としての存在が広まらない。広まらないから献金も増えない。献金が増えないから修道士の数も増えない。
修道士の数は、今や十二人を切っていた。
それでも教団が続いているのは、好きだから、という単純な理由だ。ミラはそう思っている。物心ついた頃から手伝いをするようになり、気づけば修道士として働いていた。好きかどうかを考えたことすらない。ここにいる、ということが当たり前だった。
ただ一つ、ミラには困ったことがある。
人見知りだ。
教団の活動は、人と話すことが多い。訪問する。聞く。渡す。それだけのことなのに、知らない顔を前にすると声が出なくなる。顔が熱くなる。何を話すべきかわからなくなる。手の中で言葉が縮んで、喉まで出てこない。そういうとき、相手の顔を見られずに足元を見てしまうのが、自分でも一番嫌いだった。
だからアルダーの店でフードを手に入れてからの数週間は、ミラの人生の中でも特別な日々だった。
フードをかぶると、視線が来ない。声をかけられない。ただそこにいる、という状態でいられる。
それだけで、こんなに楽になるとは思っていなかった。人前で話すことへの恐怖が、全部消えたわけではない。でも——存在を認識されない状態から、自分のペースで相手に近づけるようになった。距離を自分で選べる。そういう自由が生まれた。
だから、今回の依頼を引き受けることができた。
ベイルボーン教団には、数百年にわたって引き継がれてきた記録がある。ほとんどが失われているが、一つだけ残っているものがある。「大式典の記録」だ。
二百年前、教団がまだ大きな組織だった頃に開催した大規模なイベントの記録。その記録を司祭が見つけたのが数ヶ月前のことだった。記録には日付がある。「千年に一度、邪神の日」と記された特定の日が、もうすぐ訪れる。
司祭は目を輝かせた。「面白そうだ」と言った。教団の規模を考えれば無謀とも言えるその計画を、しかし誰も止めなかった。止める人間も少なかった、というのが正確なところだが——とにかく計画は動き、ミラが担当になった。
担当に指名された夜、ミラは自室の天井を長く見上げた。断る理由はいくつもあった。人数が足りない、経験がない、自分は人前で喋るのが苦手だ。断らない理由は一つしかなかった。断る人間が他にいない。一つしかない理由は、ときに十の理由を押し退ける。
「一人でやると決めました」とミラは言った。「人数が少ないので、他の人には日常の活動を続けてもらって」
「一人で」とセレニティーが繰り返した。
「はい。あともう少しで全部揃って、あとは当日を待つだけ、というところまで来て」
数週間、ミラは朝から晩まで動き回った。広場の舞台の寸法を測り、出店の場所を掛け合い、ポスターを自分の手で貼った。フードをかぶっていたから、誰にも声をかけられなかった。かけられない代わりに、自分から声をかけなければならない場面では、フードの中で一度深呼吸をしてから、なるべく早口にならないように喋った。慣れない交渉を重ねるうちに、少しだけ、人と話す筋肉が自分の中にもあるのかもしれない、と思えるようになってきた。そこまで来ていた。
ミラは膝の上で両手を握り合わせた。指が、白くなるほど互いを握っていた。
「それが、さっき確認しに行ったら——全部、壊れていて」
◆
「えぇ!! ひどい!!」とセレニティーが声を上げた。「誰がそんなことを! 絶対許せない!」
アルダーの手が動いた。カウンターを越えて、ミラの肩の上に静かに置かれた。慰める、というよりは確かめるような触れ方だった。震えているかどうかを、布越しに確かめたのだ。
ミラは顔を上げた。
そして大きく息を吸って、叫んだ。
「ポスター貼ったり、出店の準備したり、重たい花火を屋上に運んだのに〜!!」
店の空気が変わった。ミラの叫びが工房の天井に当たり、炉の熾火が一瞬揺れた。揺れたような気がしただけかもしれない。が、工房の空気の温度が、確かに一度だけ変わった。
アルダーの手がさっと戻った。片方の眉が上がり、セレニティーの方に視線を流した。流し目だった。言葉は交わさなかった。交わす必要がなかった。
セレニティーが目を丸くして、ミラを見ている。口が半分開いていた。何か言おうとして、言葉が見つからないまま、開いたままになっている、という開き方だった。
しばらくの沈黙の後。
「邪教……?」とセレニティーが思わず口に出した。
ミラはセレニティーに振り向いた。目に涙の跡が残ったまま、口元がきっと結ばれた。
「たまに私たちのことを邪教って呼ぶ人たちいますけど!! 健全な福祉が目的の、ベイルボーン教団です!!」
声がはっきりしていた。さっきまでの涙はどこに行ったのか。背筋まで伸びていた。
「た、ただ——」ミラはほんの少しだけ声を落とした。「確かに今回は、千年に一度の邪神復活祭、というのはやりますけど」
「邪神、復活祭」とセレニティーが繰り返した。一言ずつ確かめるように。
「邪神が本当に復活するとかでは、ありません。私はその担当者で」
沈黙。
セレニティーはミラを見た。ミラを見て、アルダーを見た。アルダーは何の表情も変えずにカウンターを拭いていた。布の折り目を、少しだけ変えた。それだけだった。アルダーの頭の中では、ここ数日の話がひとつずつ、順番を逆から並び直している最中だった。ポスターが一晩で街中に広がった理由。広場の準備が静かに進んでいた理由。舞台が建ち、飾りが増え、屋上に物が運ばれていた理由——すべて、目の前の小柄な修道士一人の手によるものだった、という可能性が、いま急速に濃くなっていた。そして「屋上に運ばれていた重たい花火」は、セレニティーが昨夜砂に変えたあれと——たぶん、同じ物だった。
「……わかった」とセレニティーが、長い間の後に言った。声がどこか遠い。「わかった、えっと——つまり、邪教じゃないってことは、わかった。わかったけど」
「はい」
「いろいろ……大丈夫?」
ミラは少し首を傾けた。
「たぶん」とミラは言った。
セレニティーが何かを言おうとして、言葉を探している——そのときだった。
扉が開いた。
音が来る前に、気配が来た——なぜか、そう感じた。扉の蝶番がかすかに動いて、音がした。その音が、いつもの扉の音より少しだけ澄んでいる気がした。錯覚かもしれない。しかし確かに、そう聞こえた。
セレニティーとミラが同時に振り返った。
女が一人、立っていた。
歳のほどは読みにくい。しかし確かに若い。床まで届く深いグレーのマントが、全身を静かに包んでいる。髪は柔らかく後ろで結われており、その端がマントの上に流れていた。顔立ちは整っている——整っているというより、それ以上の何かがある。見ているこちらが、自分でも気づかないうちに息を止めてしまうような。整った顔というのは見慣れれば普通の顔になる。しかしこの女の顔は、見慣れる、という手続き自体を拒んでいる気がした。視線を外しても、外したことを覚えていないうちに、もう一度見てしまう。そういう顔だった。
マントで覆われた足が、音もなく床を進んでいく。床についているのか、わずかに浮いているのか——光の当たり方のせいかもしれないが、どちらともつかない動き方だった。カウンターに向かって進む動作が、優雅というより、そもそも別の物理法則で動いているかのようだった。工房の木の床は、歩けば必ず小さく軋む。それが今、軋んでいなかった。板の上を滑るでもなく、飛ぶでもなく、ただ音が出ない。そういう歩き方をする客を、アルダーはこれまで見たことがなかった。
「取り込み中でしたか?」
声も、所作と似た質感だった。押しつけがましくなく、引きすぎず。ちょうどいい場所に収まる声。水が器の形にそのまま納まるような声、というのが、アルダーの頭に浮かんだ比喩だった。
セレニティーとミラは、無言のまま横に首を振った。首の振り方が揃っていた。二人とも、少し気後れしている顔だった。
アルダーは視線だけを女に向けた。「いらっしゃい」と言った。いつも通りの短さだった。ただ、布を折り返す手が、一拍だけ遅れた。
女はカウンターまで進んで、アルダーの目線に合わせた。わずかに見上げる角度になって、小さな笑みを作った。笑う前と笑った後とで、顔の印象がそれほど変わらない笑み。作った笑みではないが、作らない笑みでもない——その中間のどこかに正確に収まっている、そういう笑みだった。
「探し物をしていたら、このお店を見つけてしまいました。アンネローズと申します。看板に、何でも作れると書いておりましたので——依頼してもよろしいでしょうか? 探し物が見つかるアイテムが、欲しいのです」
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