第二十話 祭の準備にしては、穏やかじゃない
扉の蝶番が、まだ緩んでいた。
アルダーは片膝をつき、内側の蝶番に工具を当てた。釘穴が広がっている。昨夜グロームが押し込んだ際に木から釘が引き剥がされかかっており、表面上は戻っているように見えても、力をかければすぐにまた外れる。この穴では駄目だ。少し位置をずらして打ち直す必要があった。木は一度負った穴を忘れない、というのは鍛冶屋の手癖ではなく大工の手癖の話だが、長年炉の前で並んで働いてきた鍛冶屋にも染みついている感覚だった。
朝の工房は静かだった。炉の熾火がかすかに残っており、外から差し込む光とそれが混ざって、室内を薄い橙色に染めていた。昨夜グロームが持ち帰った鍋の跡に、乾いたスープの名残がある。調理場を洗い直す必要があるが、それは後でいい。スープの匂いが朝の光と混ざるのは、悪くない時間の過ごし方だった。
まず扉だ。
工具箱から細い釘を選んだ。蝶番の穴の横に、新しい位置を確かめながら工具を当てた——そのとき、扉が開いた。
いや、「開いた」という言葉では足りない。
「アルダー!聞いて!」
勢いよく押し込まれた扉が、片膝をついていたアルダーの肩を直撃した。半歩分、押し戻された。工具が床に落ちた。入口のすぐ横、壁際に人がいるとは思わなかったのだろう——セレニティーが息を飲んだ。
「うわっ」
目が合った。
セレニティーは弓を背中に背負い、外出着のままだった。早足かそれ以上の速度で来たのか、頬にわずかに赤みがある。呼吸が浅い。瞳には、何かを発見したときの人間特有の光があった。エルフの目でもそれは変わらない、とアルダーは思った。何かを見てしまった目というのは、種族を問わず同じ光り方をする。
数秒の沈黙。
彼女の視線がアルダーから外れ、工房の入口まわりを見渡した。緩んだ蝶番。床に落ちた工具。片膝をついたアルダーの姿勢。それらを順番に確認してから、言った。
「……壊したの?」
「無礼な客が多くてな」とアルダーは答えた。
工具を拾い上げた。セレニティーはアルダーの答えを半分も聞かずに工房へ踏み込んでいた。背中から弓を下ろし、両手で差し出すように持ち上げる。
「これよ、この弓!あんなの魔法でも見たことない、この弓すごいよ」
アルダーは立ち上がった。工具箱を壁際に置きながら、一瞥だけ弓を見た。
「良かったな」
「それだけ?」
「それだけだ」
セレニティーは少し口をとがらせた。しかし次の瞬間には表情が変わっていた。弓を背中に戻しながら、流し目でアルダーを見る。
「……あんた、何者?」
アルダーは蝶番の作業に戻った。新しい釘の位置を確かめる。工具を当てる。
「鍛冶屋だ」
「そんな答え聞いてない」とセレニティーは言った。声のトーンは軽かったが、問い自体は軽くなかった。「あんな弓を作れる鍛冶屋が、ヴァルムーア国にいなかった。最初に依頼したとき、半信半疑だったのよ。でも今はそうじゃない。何かが違う」
「弓は弓だ。良い素材を使えば性能は変わる」
「変わったのは性質よ」とセレニティーは言った。「素材の話じゃない」
アルダーは釘打ちを止めなかった。止めてしまえば、止めた理由を相手に読まれる。それは釘を打つ音より雄弁に返事をすることになる。
セレニティーが一歩近づいた。「そもそも——ここの店、いつからあったの。一日で店って現れないよ。グレイストーンには何度も来てるけど、あなたの工房なんて見たことがなかった」
「見落としていただけだ」
「そういう店じゃないでしょう」とセレニティーは静かに、しかしはっきりと言った。
アルダーの手が一瞬だけ止まった。
止まったのは本当に一瞬だけだった。次の拍には釘を打つ音が再開する。しかしセレニティーはその一瞬を見逃さなかった。エルフの目はいい、とアルダーは内心で思った。良いどころか、こちらの一瞬の止まりを言葉より先に読む目だ。嘘をつき慣れていない鍛冶屋の手は、こういう目の前では不利になる。手は口より正直だ、という諺を、オークでなくても信じたくなる瞬間がある。
「それより」とアルダーは言い、話を変えた。「昨日の夜は出かけていたんだろう。走って来た顔をしている。何か収穫があったなら聞こう」
セレニティーは少し考えるように首を傾けた。それから「ふっ」と小さく笑った。
「誤魔化したな」
「聞いてほしくないならいい」
「聞いてほしいから来たのよ!」とセレニティーは言った。声が上がった。アルダーへの詰問はひとまず保留になったらしい。「話を聞いて。長くなるから座った方がいいかも」
◆
アルダーは作業台の端に腰を落とし、セレニティーは向かいの椅子に座った。弓を膝の上に置き、少し前のめりになって話し始める。
「——ねえ、邪神復活祭って知ってる?」
「名前は」
「信じる?」
「信じない」
「私もそう」とセレニティーはあっさり言った。「邪神なんて昔話。ただ——」と続ける。「その昔話を利用して動いている連中がいる。それは信じる?」
「続けろ」
セレニティーの口ぶりが変わった。軽さが消え、言葉が整ってくる。冒険者の感覚で喋る言葉と、情報を整理しながら喋る言葉はリズムが違う。今は後者だった。こちらのリズムの方が、この娘の本来の声に近いのだろう、とアルダーは思った。
「エルウィン王子の失踪、エドバー王陛下のご病気、それと今のアンデッドの騒ぎ。この三つ、全部ひとつのことに繋がってると思ってる」
「三つも並べるのは、根拠の薄さを数で補っているようにも聞こえるな」
「並べてみて初めて線が見えることもある」とセレニティーは言った。「ひとつずつ見ていると偶然だけど、三つ並べると偶然が重なりすぎる。重なりすぎた偶然は、たぶん偶然じゃない」
「邪神復活祭が起点だということか」
「そう。邪神自体は信じないけど、その祭を口実に動いている集団がいる。邪教って呼んでるけど——彼らが王都を乗っ取ろうとしてる。祭に便乗して混乱を作り、その隙に」
アルダーは腕を組んだ。「根拠は」
「数日前から広場に邪神復活祭のポスターが貼られ始めたのは知ってる?」
「見た」
「一晩で街中に広まったのよ。貼っている人間を誰も見ていないのに。それで私が広場周辺を何日か見張ったんだけど、いつの間にか祭の準備が進んでいく。舞台が建てられて、飾りが増えて——誰が何をしているのか見えない。見えない手が動いてる感じ。不気味でしょう」
「確かに、それだけでは動機にならない。昨夜、何かを掴んだか」
セレニティーの表情が一段、真剣になった。
——それは、昨夜のことだった。
何日も広場と周辺の通りを張り込んでいたセレニティーは、ようやく昨夜、怪しい人影を見つけた。
五人組。全員がフードで顔を隠していた。
動き方が違った。夜の街を散歩している人間の歩き方ではない。一定の間隔と速度を保ちながら、決まったルートを何度も繰り返す。歩きながら周囲の建物の高さや出入口を確認するような視線を向けていた。特定の場所で立ち止まり、何かを確かめてから次へ進む。訓練を積んだ者の動き——経路の確認と記憶をしている動き方だった。
屋根の上から追った。
グレイストーンの夜は外灯が少ない。商店が閉まった後の通りは月明かりだけが頼りで、建物の影が長く伸びる。屋根から屋根へ飛び移るには、その影の形を読む必要がある。しかし慣れていた。足音を殺す方法も、影の使い方も——こういうときのための技術だった。里を出てから十年以上、こういう夜を数えきれないほど渡ってきた。屋根瓦の上で膝を落とせる人間は、街にはあまり多くない。膝を落とした状態で呼吸を整えることができる者は、さらに少ない。セレニティーはその少ない方に入る自覚が、職業意識として身についていた。
風の向きが読みやすい夜だった。五人の動きは風下に合わせて歩幅を揃えていた。風上に立つ者の気配を早く拾うためだ。冒険者として、あるいは盗賊の類として、基礎訓練の範疇だった。素人の悪党ではない、という確信が、追跡の早い段階で固まった。
五人を追うこと、しばらく。
彼らが広めの通りに差し掛かったところで、セレニティーは動いた。
前方の屋根の縁まで走り、飛んだ。
着地の瞬間、音は最小限だった。しかし気配は消せない。五人の正面に舞い降りた瞬間——彼らは全員が同時に動いた。
剣を抜く音が五つ、重なった。
素早い。素人ではない。暗くてフードの下の顔は見えなかったが、体格と動きから全員男性と読めた。統率が取れている。どのような状況でも動揺しないよう訓練されている、そういう動き方だった。同じ師につけられた者の揃い方ではなく、実戦を複数回くぐった者たちが組んだときの揃い方だった。
一拍の間があった。
そして五人のうち一人が、腰に下げた布袋に手を入れた。
その動作が何を意味するか、セレニティーが気づいた瞬間——白い煙が広がった。
目眩しの粉だった。
目を押さえながら防御の体制に入った。剣で斬り込んでくると判断した。しかし攻撃は来なかった。
視界が戻ったとき、五人の姿はどこにもなかった。
石畳に足音ひとつ残さず、消えていた。隠れるのではなく、消える動き——普通の訓練を積んだ人間の範囲を、少し越えていた。
「追いかけたけど見つからなかった」とセレニティーは言った。「入念に街を探したら——屋上に火薬の入った樽を見つけたのよ」
「火薬の」
「複数の建物の屋上に。広場周辺の、人が集まりそうな場所の真上に設置されていた。匂いでわかった。爆発物よ。邪神復活祭の日に広場に集まった人たちを、上から吹き飛ばす算段だと思う」
セレニティーはそこで一度、言葉を止めた。言葉の重さを量ってから続ける、という間の取り方だった。「——広場には、祭の当日にたぶん何千人も集まる。爆風は下に落ちる。逃げ場はない」
アルダーは口を開かなかった。開かなかったが、腕を組んだ手に力が入ったのを、自分でも分かっていた。
セレニティーは続けた。「それで処理しようとしたんだけど、下に仕掛けがあったら困ると思って——弓の端で掘り下げてみたの」
「弓で」
「そしたら」
少し間があいた。言葉を選んでいる、というより、自分でもまだ整理しきれていない出来事を確認しているような間だった。
「弓が、光ったの。端から先端まで、白く。で——次の瞬間、樽の中の火薬が全部砂になってた」
工房が静かになった。
炉の熾火が低くはぜる音だけが聞こえた。音、というより、静けさの中に転がった小さな粒のようだった。
「音はしなかった」とセレニティーは小さく付け足した。「爆発も、何かが壊れる音も。ただ、光って、次に見たら砂だった。粉じゃなくて、砂。足で踏んで擦ると、さらさら流れるような砂」
その言葉が、工房の空気の中で、ゆっくり沈んだ。
「全部、砂に」
「そう。複数の屋上全部、同じだった。アルダーが作った浄化の弓を近づけるたびに光って、火薬が砂になって」
アルダーはしばらく何も言わなかった。浄化、という言葉は、自分がこの弓を打つときに一度も口にしなかった言葉だった。打ち手が呼ばなかった力を、打った物の方が先に呼ぶことがある。そういう例が、鍛冶屋の古い話の中にいくつかある。いくつかあるだけで、自分の手の中で起きてほしくはなかった。火薬が砂になる、というのは、物質の組成を素のものに戻す動きに近い。戻す、というのは、元々そうであった姿への帰還だ。帰還を促すような力は、鍛冶屋が意図して鋳込むものではない。鋳込んだ覚えがないのなら、元々この弓が呼んでいたものだろう、と考える他なかった。
セレニティーがアルダーを見た。じっと見た。さっきとは違う見方——何かを読み取ろうとしている目だった。
「それで、改めて聞くんだけど」と言った。声は落ち着いていたが、引かない声だった。「あんた、何者?」
その問いが工房に浮いた。今朝二度目の「何者?」だった。一度目は遊びの色が少し残っていたが、二度目は残っていなかった。
答える前に——扉が開いた。
今度は音を立てずに、静かに。問いに答える間を、工房の外から誰かが奪いに来た、という開き方だった。朝の光の中へ、新しい影が一つ。
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