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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第十五話 平和には、続きがある

「私ほど歳をとると」とメギドは言った。「平和の価値が骨の髄からわかるようになります」


アルダーは口を挟まなかった。


「ただ——平和に長く浸かっていると、人は変化を求めるようになります。平和がいかに尊いか、その平和を作るためにどれだけの犠牲が払われたかを忘れてしまう。そうして歴史は繰り返される」


老人の声は静かだった。広場の喧騒の中で、それだけが少し別の距離から届くように聞こえた。遠いのに近い、という矛盾した距離感だった。


「三十年前のことです」


——あれは、三十年前のことだった。


メギドの語りは、三人の人物の話だった。


一人は王になった。エドバーという名の。


一人は騎士団長になった。ヴォルターという名の。


一人は酔っ払いになった。名は——メギドはそこで少しだけ間を置いた。名前を出すか出さないかの、秤の揺れるような間だった。


「あなたも会ったことがあるかもしれない」と男は言った。


アルダーは動かなかった。


「当時のヴァルムーア王国は、今とはまるで違う国でした。貿易の国ではなく、軍事の国でした。正騎士団に入ることがすべての少年の夢で、王国の繁栄を疑う者など誰もいなかった。強さが誇りであり、強さが正義だった時代です」


三人は同じ時代に正騎士団に入った若者だった。


一人は孤児だった。幼い頃、盗賊に村を壊滅させられた。両親を失い、残ったのは焼けた家屋と、血の匂いと、逃げ遅れた自分だけだった。路上にいたところを、偶然その付近を巡回していた正騎士団が拾った。団に引き取られ、騎士として育てられた。剣は誰よりも上手くなったが、礼儀作法には最後まで馴染めなかった——食事のときに肘をつく癖が、どうしても抜けなかった。教官に何度叩かれても、気づくと肘がまた卓に乗っていた。染みついた癖というより、そこに肘を乗せないと落ち着かない、という体の根深さだった。


アルダーは前を向いたまま、より耳を傾けた。


もう一人は貴族の子息として団に入った。礼儀も剣技も申し分なかった。出世は約束されていたが、傲慢ではなかった。ある日、訓練場で孤児の少年と組んだ。その男の剣の速さに、素直に感心した。「お前、速いな」と言った。孤児は「貴族に褒められたくない」と返した。それが始まりだった。なぜかその日から、二人は毎日訓練場で打ち合うようになった。打ち合うというより、互いの輪郭を日ごとに削り出していくような時間だった。


二人はいつしか友人になった。


その二人が共に仕えたエドバー王子は、生まれながらに人を惹きつける力があった。身分を超えて人と関わることをためらわなかった。気づけば、孤児も貴族も、王子の周りに自然に集まっていた。王子の周りに集まった者たちは、王子が何者であるかをすぐに忘れ、ただ彼と話すことを楽しんだ。それがエドバーという人間の人徳だった。身分を脱がせるでもなく、身分の上から手を伸ばすでもなく、ただ同じ高さに腰を下ろす、そういう種類の人柄だった。


「エドバー王子には、双子の妹君がいました」


エルラ姫。


「彼女もまた——身分など関係なく、あの二人と遊んでいた。宮廷ではあり得ないことです。ただ、エドバー様はそれを微笑ましく見ておられた。若い者たちが笑っているのを、それだけで十分だという顔で」


エルラ姫は剣が好きだった。訓練場の端に座って、二人の若者が打ち合うのを見ていた。どちらが強いかをいつも採点していた。どちらも最終的に勝ったことがなかった——少なくとも彼女の採点では、いつも引き分けだった。それが微妙に悔しくて、二人はより熱心に打ち合うようになった、とメギドは言った。訓練場の土埃の中で笑い声と剣の音が重なり、それを見守る王子の声と、姫の採点の声。そういう風景があった。


「恋の競い合いというのは、時に人を強くしますね」と老人は言った。穏やかな声だった。


アルダーは広場を見ていた。


「ただ、その平和は続きませんでした」


隣国からの戦争が始まった。


ヴァルムーア王国は軍事国家としての力を示す時が来た、と誰もが思った。正騎士団は前線に立った。エドバー王子も剣を取った。二人の若者も、並んで戦場に立った。訓練場で毎日打ち合っていたときと同じように、互いの右と左を補い合う立ち位置で。剣の届く範囲を互いに知り尽くしていたからこそ、戦場でも無言で位置取りが決まった。


その戦いの中で、エルラ姫は命を落とした。


「前線には出ないはずでした」とメギドは言った。「ただ——戦場は計画通りには動かない」


それ以上は語らなかった。


広場の空気が、そのままそこにあった。噴水が鳴り続けている。子供が笑っている。花売りの老女が客と何かを交渉している。語られなかった場面が、沈黙の分だけ重みを増して、ベンチの下の石畳に沈んでいくようだった。


「三人は打ちのめされました」とメギドは静かに続けた。「それぞれのやり方で」


エドバー王子は戦争が終わったあと、父王から王位を継いだ。そして王国の方針を変えた。軍事から外交へ。剣ではなく言葉と取引で、戦争が起きにくい構造を作ろうとした。今のヴァルムーア王国——貿易の王国の形は、そこから来ている。エドバー王の治世は、妹を喪った者が一生をかけて答えを出した形だった。


ヴォルターは騎士団に残った。どんな隣国にも絶対に負けない、最強の騎士団を作ることが彼の答えだった。あの戦いで守りきれなかったものを、次こそは守るために。そのためならば、どんな厳しさも厭わなかった。彼の厳しさは、自分の内側に向けられた厳しさの延長線上にあった。守れなかった、という三文字を、毎日の訓練の音の中で研ぎ続けるような生き方だった。


「そして」とメギドは言った。「もう一人は——戦いに二度と戻らないことを選びました」


アルダーは少し息を吐いた。


「ガランにそんな過去が」


呟くように言っていた。自分で気づかなかった。言葉が口の形を通り抜けてから、初めて自分が言ったと気づいた。


メギドは答えなかった。


ただ手の上の箱を少し持ち直して、蓋に指をかけた。


ゆっくりと、開けた。


中の耳栓を取り出した。谺晶の薄片を夜弦草の繊維に包み込んだそれは、昼の光の中でほんのわずかに青白く輝いていた。老人の皺の深い指の上で、静かに震えている。夜に仕込んだ音が、昼の光の下でも眠らずに続いている、そういう震え方だった。老人の指は、昨日までの指よりも一段だけ柔らかくなったように見えた。


メギドはそれを左の耳に入れた。右の耳に入れた。


一瞬——老人は静止した。


それから。


目が見開かれた。


眉が上がる。口が少し開く。まるで何か信じられないものを、遠い記憶の奥から突然目の前に現れたものを見るときの顔。しかしそこには驚愕ではなく——もっと深いもの、何十年か、何百年かぶりに、失われたと思っていた何かが戻ってきた者の顔があった。


アルダーはその顔を見た。


そこからゆっくりと、皺の中に笑みが広がった。目が細くなった。肩が少しだけ落ちた。全身の力が抜けるような、それでいて崩れない——穏やかで、確かな笑みだった。広場の光がその笑みの上に重なり、皺の一本一本が金色の輪郭をもった。


アルダーは立ち上がった。


声はかけなかった。


老人はもう耳の中にある何かだけを聴いていた。三十年前の訓練場の土埃の音か、姫の採点の声か、それとも別のもっと古い何かか——そのどれであってもよかった。


それから広場の人波の中に混じり、工房への道を歩いた。後ろを振り返らなかった。振り返らないことが、あの老人への礼儀のように感じられた。依頼を届けた後の帰り道は、いつも少しだけ足取りが軽くなる。今日のそれは、軽さの種類が少し違った。


鍛冶屋の扉を開けると、炉の熱が顔を打った。アルダーはエプロンの紐を結び直しながら、金床の前に立った。いつもの場所に。いつものように。手の中に残った広場の風の温度が、炉の熱にゆっくりと塗り替えられていく。鉄の匂いと、少し前まで嗅いでいた屋台の匂いとが、鼻の奥で一瞬だけ混じり、それから鉄だけになった。


しばらくして、ガランが入ってきた。


「今日は寝てないだろ」


「関係ない」


「顔に出てる。目の下が黒い」


アルダーは金床に鉄棒を置いた。ガランをちらりと見た。


「一杯飲むか?」


まさかの誘いにガランは停止した。停止というより、言葉の意味を受け取るまでの間に、音が一度耳の外に跳ねて戻ってきたような、そういう遅れ方だった。「……断ると思うか?」

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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