第十四話 静けさを作るには、音が要る
夜になった。
広場の向こうに灯りがいくつか残っていたが、商店は閉まり、通りを歩く人は減っていた。巡回の兵が二人、低い声で何かを話しながら前を過ぎていった。兵の足音が石畳に規則的な間隔で当たり、遠ざかるにつれてその間隔はゆっくりと広がっていった。
アルダーは工房の中央に立った。
金床の前で、少し考えた。考える、というより、これから始めることの順序を頭の中で一つずつ置き直していた。
金床は三百キロを超える鋳鉄の塊だ。毎日この前に立ち、毎日この上で鉄を打つ。床に固定されているわけではない。ただ重さで動かない。アルダーは腰を深く落とし、金床の底面に両手の指先を差し込んだ。指の腹に、鋳鉄の肌の粗さが伝わってくる。長年の使用で表面は磨かれているが、底面だけは鋳造のままの、ざらついた温度を保っていた。
息を止めた。
床板に足を踏みしめ、体幹に力を入れ——金床がじりじりと動いた。石床を引っかく金属音が低く工房に響いた。炉の奥で眠りかけていた精が、音に気づいて一度だけ瞬いたのが視界の端で分かった。五センチ、十センチ。アルダーは体を起こした。呼吸が、少しだけ重くなっていた。
その下に、暗がりがあった。
石床に刻まれた切れ目。長方形の蓋のような石板が填め込まれている。アルダーはそれを持ち上げ、端に立てかけた。石の縁が指の腹をこすった。下を覗くと、梯子の上端が暗がりの中に見えた。暗がりそのものに、空気の気配があった。地上とは違う、もっと静かで、もっと冷たい気配だった。
壁から松明を取り、炉の端で火を移した。橙の光が揺れた。火が松明の布に移るまでの一拍の間、工房の影がすべて一度だけ形を変えた。
梯子は古かった。木材は黒ずんでいたが、腐りはない。一段ずつ、体重をかけながら下りた。五段、十段。石の壁が両側に迫ってくる。足の先が石の床を踏んだ。靴底から、硬い、動かない地面の感触が立ち上がってきた。
水の音がした。
通路だった。天井が低い。幅は肩一つ分ほど。片側を暗い水が音もなく流れており、こちら側には人が一人通れる程度の石畳の道が続いている。冷気があった。地上の夏の夜と切り離されたような、石と水だけの温度。松明の光が水面にわずかに届いて、橙色の光が黒い水の上で細長く震えていた。
アルダーは松明を前に出して歩いた。
壁には苔が生えていた。足元の石畳は濡れているが、水が浸み出しているのではなく、長い年月をかけて空気の湿気が染み込んだものだ。カビの匂いと、もっと古い何かの匂い——密閉された空気と石の匂いが混じっている。何百年も前の空気が、ここには残っているような気がした。『この通路を最後に通ったのが自分の何代前かは知らない』とアルダーは思った。鍵束だけが、それを知っている。
五分ほど歩いた。
扉があった。
重い鉄の扉で、錠前が三つついていた。一つは格子状の鎖で補強されており、もう一つは楔型の特殊な鍵穴だ。三つ目は南京錠のように小さいが、鍵穴が歪んでいて、どんな形の鍵が合うのか一見では分からない。三つが揃ってようやく開く、という種類の用心深さだった。
アルダーは腰の布袋を取り出した。鍵の束。ぶつかり合う金属音が通路に低く響いた。その音が、水の流れの静けさの中にわずかに吸われて消えていった。
一番古そうな鍵を探した。真鍮が変色して、ほとんど黒に近い色になっているもの。それを格子錠の鎖に差し込むと、ゆっくりと内側で何かが動く感触があった。二つ目の楔型には、鍵束の中で刃の形が最も複雑なものを。三つ目の小さい錠前には、番外れたように見える細い、ほぼ針のような鍵を。それぞれが内側で噛み合う感触があり、順番に外れた。錠前の落ちる音が、三度、通路に低く響いた。
扉が内側に開いた。
部屋は暗かった。松明の光を差し入れると、空間の輪郭が浮かんだ。牢のような部屋だった。石の壁、石の床。窓はない。家具もない。何もない。空気は澱んでいたが、不思議と息苦しくはなかった。長い時間をかけて石の中に均されたような空気だった。呼吸することそれ自体を、この部屋が許している——そういう感覚があった。
部屋の隅に、小さな木の箱があった。
アルダーは近づいた。蓋を開けず、まず片膝をついて耳を近づけた。
音楽が聞こえた。
かすかに。ほとんど聞き取れないほどかすかに。しかし確かに——旋律があった。リズムがあった。弦楽器に似た音が、箱の内側から漏れ出している。覚えのある曲調ではなかった。どこの国の音楽にも似ていない。ただ、聴いていると呼吸が少し落ち着いた。『こういう音を、人はいつから聴けなくなったのだろう』とアルダーは思った。思った後、その問いを自分で置き直した。聴けなくなったのではなく、今はただ聴かない、それだけのことだろうと。
アルダーは蓋を開けた。
中に、破片があった。
ガラスのようで、ガラスではない。光の加減で青にも白にも見える薄い断片が、十数枚、箱の底に静かに並んでいた。表面に細かい模様が刻まれており——刻まれた、というより、それは最初からその形に生まれたもののように見えた。持ち上げると手の平の中で小さく、かすかに温かく震えている。体温に寄り添おうとするような、そういう震え方だった。
谺晶の薄片<こだましょうのはくへん>。
数枚を手に取り、懐の小布に丁寧に包んだ。残りはまた箱に戻し、蓋を閉めた。音楽は再び内側に篭った。閉じこめた、というより、元の場所に帰っていった、という閉じ方だった。
通路を戻りながら、アルダーは独り言を言った。
「あとは、夜弦草の繊維<やげんそうのせんい>と風鈴砂<ふうりんすな>だな」
◆
その夜、工房の窓に灯りが消えることはなかった。
真夜中を過ぎた頃、巡回の兵の一人が路地を通った。工房の扉の隙間から、オレンジの光が細く漏れている。かすかに——金属を打つような音が、規則的なようで、それでいて一定ではなく、何かを探るような間隔で続いている。兵は足を止めずに通り過ぎた。『夜通し働く鍛冶屋がいる』という、この街に古くからある通り相場の一つが、また石畳の上を流れていっただけだった。
炉の前で、アルダーは谺晶の薄片を薄い板の上に並べた。
硬い。だが脆い。力を入れすぎれば砕ける。問題は大きさだ——耳に入れるものだ。小さく。小さく、しかし素材が持つ振動を殺してはいけない。夜弦草の繊維は柔軟で、闇の中でも引っ張り強度を保ちながら音を吸収する性質を持つ。そこに谺晶の薄片を一定間隔で織り込む。風鈴砂を繊維の表面に定着させると、繊維の隙間で音を増幅させる——ただし量を誤れば耳に不快な倍音だけが残る。三つの素材が互いの性質を打ち消し合わず、互いの弱点を補うように組まなければならない。
鑢を持った。細い、精密作業用のもの。
削る。削る。均一に。表面の模様を残しながら、厚みだけを整える。削り滓が板の上に積もった。粉の色は、薄片の色そのままに、光の角度で青と白の間を行き来していた。一枚が終わる頃、アルダーの額に汗が浮いた。炉の熱だけではなく、集中の熱だ。
二枚目。三枚目。
手元を見続けることに、疲れはなかった。疲れが出る種類の作業ではない、とアルダーは知っていた。疲れよりも先に、手が覚えてくれる。
夜弦草の繊維を引き出し、指で撚った。表面に風鈴砂を薄く馴染ませる。多すぎず、少なすぎず。指先の感覚だけで測る。風鈴砂は指の腹に吸いつくように残り、息を吹きかけると細かく鳴りながら動いた。
夜が明けていくのを、アルダーは知らなかった。
◆
翌日の昼頃、アルダーは工房を出た。
エプロンをつけたまま、手に小さな木の箱を持って。あの地下室の箱と同じように木を削った。同じ大きさ、同じ比率。どこかへのこだわりでも、何かへの礼儀でもなかった。ただそうしたかっただけだ。木目の方向も、蓋の当たり具合も、可能な限り同じに合わせた。『写しを作るというより、同じ一対になるようにした』とアルダーは思った。
広場は昼の喧騒だった。
屋台の売り声、子供の声、石畳を踏む靴音が重なっている。荷車が通れるよう人の流れが左右に割れ、また合わさる。アルダーは流れに逆らわず、広場の中央に向かった。噴水の横にベンチが三つ。一番端のベンチに、見慣れた背中があった。濃紺ではなく黒に近い燕尾服。白い髪が昼の風に少し揺れている。
アルダーは声をかけなかった。
ベンチのそばまで来て、何も言わずに隣に座った。
メギドはアルダーを見なかった。遠い目で広場を眺めている。子供が噴水の縁を走っているのを見ている。或いは見ていない。二人とも何も言わなかった。噴水の水音と、遠くの売り声と、近くを通り過ぎる人の足音だけが流れた。沈黙は気詰まりではなかった。二人ともこの沈黙を許容している、という共通の理解だけが、座り方の角度に表れていた。
しばらくして、メギドが言った。
「……平和だ」
遠くを見たままで。声には力がなかった。感慨でも皮肉でもなく、ただ目の前にある状態をそのまま確認するような言い方だった。
アルダーは広場を見渡した。
荷物を運ぶ男が二人、笑いながら話している。子供が三人、噴水の縁を走って、一人が滑って笑われている。花売りの老女が客に何かを勧めている。屋台のそばで立ち食いをしている若者。喧嘩も泣き声もなく、誰も急いでいない。鳥が屋根の上を鳴きながら横切っていく。
確かに。
変な客が多い街だが——それ以外は悪くない。いや、良い街だ、とアルダーは思った。活気があって、誰かが誰かと話している。自分はこの街の内側で鉄を叩いているだけだが、その音さえ喧騒の一つとして織り込まれているならば、それで十分だった。
木の箱をメギドに差し出した。
老人は箱を受け取った。
開けなかった。両手の上に乗せて、ただ持っていた。箱の感触を確かめるように、指先が木の表面を一度だけ撫でた。撫でた指の先に、長い時間の重みが宿っているのが、横から見ていても分かった。
それから少し昔話しを始めた。
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