第十三話 八百年は、願いの代償にしては重すぎる
「この街で最近、邪神が復活するだの、復活祭だの——全くもって、勘弁してほしいですよ」メギドは少し残念そうに言った。
老人の声に、珍しく棘があった。それまでの穏やかな語り口のどこかに、薄い鉄の板が一枚挟まったような、そういう棘だった。
「若い人は知らないかもしれませんが、邪神が復活すると三つの願いを叶えるという言い伝えがあります。それを信じた者たちが、千年前の復活のままごとをしようとしている。千年前に実際に邪神が目覚めて、その三つの願いとやらで八百年の暗黒時代が続いたというのにです」
「八百年」
アルダーは繰り返した。数字としては聞こえるが、実感としては遠い。
「そうです。八百年。今の人間の一生の何倍もある。その間、どれだけの命と文化と知恵が失われたか——」
メギドはそこで一度言葉を切った。失われたものを自分で数えかけて、数えきる前にやめた、そういう切り方だった。
「ただの言い伝えだろう」とアルダーは言った。
「私ほど生きていると」とメギドは静かに、しかしはっきりと言った。「言い伝えだけとは思えなくなります」
短い沈黙があった。
炉の熱が工房の空気に溶けている。火のない部分まで、空気の一層下に鉄の匂いが沈んでいる。外から馬車の車輪が石畳を転がる音がした。律儀な間隔で、遠ざかっていく。アルダーは男の顔を見た。それ以上聞かなかった。問えば答える男だ、という確信はあった。それでも問わないことを選んだのは、答えが返ってきたときに、こちらがどう受け止めていいか分からないから、だとアルダーは自分で気づいていた。
「……音楽の耳栓の話に戻るが」とアルダーは言った。
「ええ」
「作れるかどうか、まだ答えていない」
「そうでしたね。いつできますかな」
「できるとは言っていない」
「できないのですかな」
アルダーは一秒間、男を見た。相手はまっすぐに見返してきた。急かすでもなく、疑うでもなく、答えをそのまま受け取る準備だけができている、そういう目だった。
「できる」
メギドはゆっくりと頷いた。「ありがたい」と言った。その声は穏やかで、最初からそれを知っていたような落ち着きがあった。『この男は、こちらが出す答えをあらかじめ一つずつ置いて来たのかもしれない』とアルダーは思った。置かれた答えを、自分がその通りに読み上げただけのような気さえした。
◆
「こいつは本当に作れるんだよ」
声は店の奥から聞こえた。
アルダーは振り返った。カウンターの端に肘をついて、杯を傾けているガランがいた。いつからそこにいたのか。朝は開いていなかった酒瓶が一本、カウンターの上に転がっている。どこから持ち込んだ。工房には入ってくる足音があったはずだが、記憶にない。『こいつは音を立てずに入ってくる技だけは、どこで覚えたのか』とアルダーは思った。
「客に絡むな」とアルダーは言った。
ガランは気にした様子もなく、杯を揺らした。琥珀色の液体が杯の縁ですれすれに持ちこたえる。「俺が絡んでるわけじゃない。客が気の毒だから言ってやったんだ。見てりゃ分かる——こいつはものを作る人間だ。変なものでもちゃんと作る。俺の鎧がいい証拠だ」
「変な」と言いかけて、アルダーは止めた。証拠として持ち出されたが、あの鎧は実際に変ではないので、反論の糸口がない。『酔っ払いの褒め言葉ほど、反論のしにくいものはない』と思った。
メギドは振り返り、ガランを見た。そして何の躊躇もなく、カウンターの彼の隣に歩いて行った。帽子をそっと胸の前に下ろし、姿勢を正す。まるで昔からの知人の席に着くような、自然な歩き方だった。
「メギドと申します」と男は言い、帽子を軽く持ち上げた。
「ガラン。ただの酒好きだ」ガランはそう言い、差し出すものが何もないことに今気づいたように杯を持ち直した。「八百年の暗黒時代の話してたか。あれは知ってるよ」
メギドの目が少し輝いた。輝いた、というより、奥のほうで一瞬だけ火の粉が跳ねた、という種類の光だった。「ご存知でしたか」
「話に聞いたことがある。騎士団にいた頃に読んだ本にも書いてあった。暗黒時代を終わらせた勇者の話——本当にいたらしいな、ああいう奴が。一人で時代をひっくり返した」
「詳しいですね」とメギドは言い、隣の腰掛けに座った。アルダーがいないもののように扱われている。二人の間に、知り合って五分とは思えない空気が出来上がりつつあった。
「伝説みたいなもんだが。実際にいたとしたら、どんな剣を持ってたんだろうな」
「剣以外も使いましたよ」とメギドは言い、「当時の話では」と続けた。「最終的には炎と言葉で終わらせたと聞いています」
「炎と言葉」ガランは首を傾けた。杯の中で液体が小さく揺れた。「そっちの方が武器らしくないが、確かに強そうだ」
「いかにも。あの時代は——」
「作業に入る」とアルダーは言った。
二人は聞いていなかった。メギドは身振り手振りを交え、ガランは頷きながらまた杯を傾ける。老人の口ぶりは、講義ではなくもっと近いところから話している、そういう近さになっていた。
「出て行ってくれないか」
今度は振り向いた。ガランが「そんな怖い顔すんなよ」と言い、メギドが「おっと失礼」と上品に咳払いをした。老人は立ち上がりながら、依頼料の包みをカウンターに置いた。重さのある音が、静かに木の天板に落ちた。「明日もベンチにいるか」とアルダーはメギドに言った。
「ええ、毎日おります」
「できたら届ける」
「承知しました。では——」メギドはガランに向き直り、「どこか良い店をご存知ですかな」と続けた。ガランの顔が明るくなった。『酒の話題なら、この男の反応はいつも一拍早い』とアルダーは思った。「とびきりいい店を知ってる」と言いながら立ち上がり、二人は連れ立って扉を出た。アルダーは溜息をついた。遠ざかる背中が路地の角を曲がるとき、ガランの笑い声が石壁に響き、それも夕方の雑踏に溶けていった。扉の蝶番がゆっくり閉まる音だけが、工房に戻ってきた。
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