第十二話 古風な老人は、話が長い
その日、扉が鳴った。
いや、鳴った、というのは正確ではない。コン、コン、と二回。律儀に間を置いて、またコン、コン、と。
アルダーは手を止めた。
金床の脇で、前日から預かっていた農具の刃こぼれを確認していたところだった。その音のなにかが、ふだんと違った。強引でもなく、遠慮がちでもなく——まるで、扉の向こうに誰かが立っていることをちゃんと知らせながら、それでも無理強いはしない、という意志のある叩き方だった。節と節の間の静けさが、叩き方の一部になっていた。
アルダーは扉を見た。
返事をしなかった。
待った。
客なら入ってくる。勧誘なら諦めて帰る。どちらでもなければ、また叩く。そのくらいの判断で客の種類が分かる場合が多い。無駄に声を出すと、相手にこちらの手の内が読まれる。黙って待つ、というのもまた職人の流儀だった。
しばらくして、また静かにコン、コン、と。
扉は、開かなかった。
アルダーは農具を置いた。「どうぞ」と言った。自分の声がわずかに気抜けしているのが分かった。いつもは黙っていても扉が開く。返事が必要だったのは久しぶりだ。蝶番のきしむ音がして、扉が内側にゆっくりと開いた。外の光が一瞬、工房の床に長い帯をつくって、それからゆっくりと短くなっていった。
男が入ってきた。
老人と呼ぶべきだが、その表現がどうもしっくりこなかった。白髪は丁寧に整えられ、顎鬚はきちんと剃られている。姿勢がよく、歩き方に音がない。着ているものが——奇妙だった。燕尾服のような上衣に、幅の広い古風なズボン。首元には年代物に見えるクラバット。それぞれは確かに上等な品だが、時代がちぐはぐだった。百年前の貴族の流行と、百五十年前の大陸西端の商人スタイルと、さらにもっと別の何かが、何の矛盾もなさそうな顔で同居している。糸の擦り切れ具合も、布地の褪色も、それぞれ別の時間の色をしていた。アルダーは一瞬だけ、それぞれの布地がどれだけの夏と冬をくぐってきたかを数えようとして、やめた。数える意味はない。その服装は、時代をつぎはぎにすることを本人が選んでいる、という種類のつぎはぎに見えた。
しかし本人はそれをまったく気にしていない様子で、静かに帽子を脱いだ。帽子を胸の前で抱え直す仕草には、どこか古い作法の名残があった。
「失礼します」と男は言った。ヴァルムーア帝国の訛りはなかった。どこの訛りか、というと——訛りそのものがなかった。均一な、どこの地方にも属さないような言葉。書物から学んだ者の発音に近い、とアルダーは思った。しかしそれにしては、口の動かし方が柔らかすぎた。
アルダーは男の目を見た。
深い目だ、と思った。老いた目ではない。何かをたくさん見てきた目。瞳の奥にある色が、すぐ表に浮かんでこない。浮かんでくるまでに、長い距離がある。
「はじめまして」と男は続けた。「メギドと申します。こちらの鍛冶屋の主は、あなたですかな」
「そうだ」
「お名前を伺っても」
「アルダー」
「アルダー殿」男はゆっくりと頷き、それから工房の中をゆっくりと見渡した。炉、金床、道具棚、壁にかかった未完成の刃。男の視線は急がず、一つひとつに落ち着いて止まった。見ている、というより、確かめている、そういう止まり方だった。「……いい炉ですね。鉄の匂いが、ここまで来てもちゃんとします。こういう工房はめっきり減りました。古い仕事場というのは、道具に記憶が宿りやすい。あなたのここは——金床の重さだけで、どれだけの物がここで生まれたかが分かる気がします」
褒め言葉、として受け取ってよいのかは判断がつかなかった。鍛冶屋の工房を見て「どれだけの物が生まれたか分かる」と言える人間は、そう多くない。
「用件は」とアルダーは言った。
男——メギドは、一瞬だけ目を丸くして、それから愉快そうに口の端を持ち上げた。
「直截なお方だ」
「遠回しな話は得意じゃない」
「では」とメギドは言い、もう一度工房を眺めてから、アルダーに向き直った。「最初に少しだけお話をさせていただいてよろしいですかな。依頼の背景として」
アルダーは腕を組んだ。「手短に」
「努力します」とメギドは言い、話し始めた。話し始める前に、小さく息を整える仕草があった。長い話をする人間の、準備の呼吸だった。
毎朝、街の中心広場のベンチに座ることが日課になっている、と男は言った。
「ベンチに」
「ええ。特に何かをするわけではありません。ただ座って、行き交う人々を見ています。売り子の声、荷物を運ぶ人の笑い声、子供が駆け回る足音。朝は東から差す光が石畳を橙色に染めて、夕方になると西日がベンチの背に長い影を落とす。鳥が屋根で鳴いて、風が広場を横切るとき、市場の端の花売りの香りが一瞬だけ漂ってきます」
男はそこで少しだけ目を細めた。広場の朝の色が、まだ瞼の裏に残っている、そういう目の細め方だった。
「私ほど長く生きていると、そういう時間が何よりの贅沢に思えてくるのですよ」
アルダーは何も言わなかった。
長く、というのがどれほどかは問わなかった。男の言葉の端にある重みが、追いかけることを遠慮させた。どんな客でも、個人の事情に口を突っ込むのはアルダーの流儀ではなかった。それに、問えば答えが返ってくる、という確信もない問いだった。
「ただ」とメギドは続けた。「最近、その平和な時間に少し——不穏なものを感じるのです」
「不穏な」
「何かが動いている。街の中に。目には見えませんが、感じます。長く生きていると、そういう気配だけは分かるようになりますよ」
ゆっくりと、まるで遠い記憶を取り出すように話し始めた。声の調子は変わらないのに、言葉の運び方だけが、ひとまわり深いところから上がってくるようになった。
「ベンチのことを、もう少し話させてください」
アルダーは黙って続きを促した。
「先日もお話ししましたように、毎日あそこに座っています。最近は、いつもと少し違う顔が増えていますね」メギドは静かに言った。「通りすがりの主婦が、エルウィン王子の失踪について何やら噂話をしながら歩いていく。荷物運びの男二人が、アンデッドが近くまで来ているとか来ていないとかを笑いながら話している。子供たちはそのアンデッドの真似事をして遊び、魔除けが露店に並ぶようになりました」
アルダーは鉄板を磨く手を止めた。
「それから——骨の剣を振り回しながら吠えている者がいます。服を着た犬か、あるいは尻尾の生えた人間か何か。威嚇しているのか遊んでいるのか、どちらともつかないが、とにかく通行人が迷惑そうにしている。時折、通りの柱に片足を上げて何かを主張している姿も見かけますな」
アルダーの指が、ほんのわずか止まった。顔には出さなかった。しかし磨き布の上に置かれた指先だけが、気づかぬほどの時間、動きを止めていた。柱に片足、という単語の並びを、頭の中で一度だけ繰り返した。
「それから、落ち着きのないエルフ。あちこち調べながら速足で歩き回っている。何かを探しているようでもあり、確認しているようでもある。あの素早さは並ではありませんでしたな。背中に見慣れない弓を背負っていました。作られたばかりの、新しい弓のようでしたよ」
アルダーはカウンターの木目を見ていた。木目の節の一つを、視線の置き場所として使っていた。そこから目を動かさないことが、表情を動かさないための支えになっていた。
「もう一つ。気配はするのに姿が見えない何か。最初は気のせいかと思いましたが、四日続けて同じ感覚がある。人の目に映らないが、確かにそこにいる——そういうものです」
メギドはそこでアルダーを見た。穏やかな目で。あくまで穏やかで、しかしその穏やかさには、こちらの答えを待っている、という一点の重さがあった。
「心当たりはおありですかな」
「……ない」
男はゆっくりと頷いた。「そうですか」と言った。
それ以上追わなかった。信じていないのか、それとも信じた上であえて問わないのか。どちらとも取れる顔だった。その顔は、鍛冶屋の職人に向けるには、少しだけ優しすぎた。
「それで」とメギドは言い、膝の上の帽子を軽く撫でた。「依頼の本題ですが」
「ようやく」
男は少し笑った。工房に老人の笑い声が短く響いた。どこか、長く笑うことを覚えていないような、短い笑い方だった。
「音楽がなる耳栓を作っていただきたいのです」
沈黙。
「耳栓」とアルダーは繰り返した。
「そうです。耳に入れると、静かな音楽が聞こえてくるもの。周りの騒がしさは遮って、ただ穏やかな旋律だけが耳に届く——そういうものを」
アルダーは男を見た。男はまじめな顔をしていた。冗談を言っているわけでも、例え話をしているわけでもない、という顔だった。
「ベンチで座っていたいのです」とメギドは言った。「静かに、ただ音楽を聴きながら。街の賑やかさは好きなのですが、最近はいろいろと物々しくて。それでも外にいたい。こんな身勝手な注文ができる職人が、この街にいるとしたらここしかないと思いまして」
依頼の内容そのものよりも、依頼人の顔の真剣さのほうが、アルダーには印象に残った。嘘を言っている顔ではない。かといって、本当に音楽を聴きたいだけ、という顔でもない。
アルダーが依頼について答えようと口を開けた瞬間。
「そうだ!」
老人の話が唐突に跳んだ。話の糸が一本から別の一本へ、音もなく乗り換えた、そういう跳び方だった。
「邪神復活祭の話は聞いたか」
アルダーは首を横に振った。耳栓の話と、邪神復活祭。繋がりが見えない二つの話題を、同じ人物が同じ息で運んできている。
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