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鍛冶屋から一歩も出ていないのに、気づいたら国を救っていた件 〜鍛冶屋アルダーの年代記〜  作者: 鈴野シン


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第十六話 物騒な客ほど、腹を空かせている

ガランが帰ったあと、アルダーはしばらく金床の前に立っていた。


「今日は寝てないだろ」「目の下が黒い」——そう言ったガランの声が、まだ耳に残っていた。正確だった。徹夜だった。しかし眠気より先に体が動く日というものがある。今日はそういう日だったというだけだ。眠気は奥のどこかで順番待ちをしているが、今は手前に出てこない。出てこさせない。出てきたときには出てきた時でいい、とアルダーは思った。


杯を洗い、使いかけの酒瓶を棚に戻した。客が来たとき用に置いてある棚の一番端、ふだん埃を被っているところだ。珍しいことだった。杯の縁をぬぐった布には、わずかに酒の匂いが残った。自分から出した杯だった。『自分から出したのは、いつ以来だろう』とアルダーは思ったが、思い出そうとして途中でやめた。思い出す必要のないことだった。


夜の工房は静かだった。炉の熾火が低く燃えており、その赤い光だけが作業台の端を照らしている。火箸の影が作業台の縁で長く伸び、壁の煤のあいだを揺れていた。外から風の音がした。グレイストーンの夏の夜は蒸し暑く、道の石畳が一日中溜め込んだ熱をゆっくりと吐き出す頃合だった。石が呼吸しているような夜だ、と思うことがある。人が歩かなくなった時間帯の、石だけの呼吸。


もう客は来ない時間だ、とアルダーは判断した。


腰の革エプロンを壁にかけ、奥の調理場に向かった。エプロンの紐が壁の釘にぶら下がる重みで少し揺れ、やがて止まった。


アルダーの夕食はいつも決まっている。


市場で買った旬の野菜と、ちょっと硬くなったパン。野菜は何でもいい——今日の市場には大振りの玉葱と夏南瓜と干し豆があった。肉はそのとき手に入るもので十分で、こだわりはなかった。しかし香辛料だけは別だ。棚の一角に、アルダーが少しずつ集めた瓶が並んでいる。大陸の東端で採れる赤い実を干して潰したもの、港町の商人から譲ってもらった異国の粉、それから名前も分からないが確かに旨味を増す薄茶色の葉。瓶の蓋を一つずつ開けると、それぞれが違う遠さの匂いを立ち上がらせる。赤い実の粉は乾いた熱の匂い、異国の粉は土と花の中間、薄茶色の葉は古い木の匂い。どれも、この街の路地では絶対に出会わない匂いだった。


鉄鍋に油を敷き、玉葱を炒める。刻んだ玉葱が熱の中でじわりと甘い匂いを放ち始めた頃に、南瓜を入れる。包丁で一口大に切った南瓜が、油と玉葱の上で静かに落ち着く。水を加え、干し豆も加える。干し豆が水を吸って、ゆっくりと底に沈んでいく。火を落として煮込む。


これだけだ。


複雑なことは何もない。ただ、香辛料を加えるタイミングだけは少し考える。早すぎると香りが飛ぶ。遅すぎると馴染まない。火の強さと、鍋の中の水分と、素材の崩れ具合。そのすべてを一度に秤にかけて、手が勝手に瓶を選ぶ。アルダーはスープを一口すくい、試した。悪くない。赤い実の粉を少し足し、蓋をした。蓋が鍋の縁に当たる音が、夜の調理場に小さく響いた。


あとは待つだけだ。


調理場の小窓から外を見ると、路地は暗く、向こうの通りに灯りがいくつか見えた。商店は閉まっているが、酒場はまだやっている時間だ。どこかでガランが飲んでいるだろう、とアルダーは思った。昨日からずいぶん長い飲み会だ。飲み会というより、あいつはただ酒を口に運び続けているだけで、会と呼べるほどの人数が隣にいるかは怪しい。メギドが付き合っているかもしれない、と一瞬だけ考えて、アルダーはその想像が案外ありそうなことに少し笑いそうになった。


スープが静かに煮えている音がした。



窓の外を、巨大な影が通過した。


アルダーはスープを混ぜていた手を止めた。人の影ではない。天井まで届きそうな、横幅もある影だった。夜の路地を、それが音もなく通った。影のわりに、足音がまったく聞こえなかった。影の大きさと足音の小ささが噛み合わない、というのが最初に引っかかった感覚だった。


次の瞬間、扉が揺れた。


揺れた、というより——扉が叩かれた。一度。ただし、その一度が尋常ではなかった。蝶番が悲鳴を上げ、鍵が音を立て、扉がそのまま内側に倒れ込んだ。叩く、という動作の延長線上にあるはずの音が、そのまま壊す、という音域まで連れて行かれた。


調理場から飛び出したアルダーの目に、まず大きさが飛び込んできた。


人間ではない。


オークだった。


天井に頭が届きそうな巨漢で、肩幅は扉の幅と大差ない。緑がかった肌は傷だらけで、獣の毛皮を重ねた衣服はところどころ破れている。剣を二本、背中に交差させて背負っており、腰には小刀の類いが何本も差してある。手の甲に古い火傷の痕があり、指の関節はどれも節くれ立っていた。戦うことを日々の仕事にしている体の作りだ、とアルダーは一拍で見て取った。


そのオークが、倒れた扉を両手で持ち上げ、どこに置くか一瞬だけ迷ってから、近くの壁にそっと立てかけた。そっと、というのが不思議だった。扉を壊した一撃と、扉を立てかける手つきとが、同じ手から出ているようには見えなかった。


それからアルダーを見た。


「うまい、匂い」


片言だった。オークの低い声が工房に響いた。視線はアルダーではなく、その後ろの調理場に向いている。鼻が利くのだろう。スープの匂いを追ってきた目だった。扉を壊した理由が、襲撃でも強盗でもなく、ただ匂いであるという事実を、アルダーの頭はまだ整理できていなかった。


アルダーは動けなかった。


状況の整理が追いつかなかった、というより、整理しようとしている間にオークが動いた。巨体が工房をゆっくりと横切り、調理場に向かう。アルダーの横を通り過ぎるとき、視界が完全に塗潰された。毛皮の匂いと、汗と、鉄の匂い。戦場から直接来たような匂いだった。


使われていないスプーンが台の上に置いてあった。


オークはそれを取り、鍋の蓋を外し、スープをすくった。手の大きさに対して、スプーンが玩具のように小さく見えた。


アルダーが口を開こうとした、まさにそのとき。


「グローム……これうまい」


オークはアルダーを見て言った。満面の笑みだった。牙が見えた。しかしその笑顔は、どこか子供のような無邪気さがあった。自己紹介と感想とが、一つの息の中に同居している、そういう喋り方だった。


「アルダー……それは良かった」


アルダーは自分の声が出ていることに、少し遅れて気づいた。出した声が、思ったよりも普通だったことにも、遅れて気づいた。扉を壊された直後の声としては、あまりに静かな声だった。



スープを一緒に食べることになった。


なぜそうなったのかは、後から考えてもよく分からなかった。気づいたら椅子が二つ向かい合っていて、オークはアルダーの分も含めて鍋ごとテーブルに運んでいた。オークの名はグロームといった。


「セレニティーから聞いた冒険者のグローム?」とアルダーは言った。


「セレニティー、言ってた、弓作った、お前?」


「あぁー、作った」アルダーは椀にスープを注ぎながら答えた。「それで君はアンデッドと戦ったグローム?」と再度確認する。


「そう、今日も沢山やっつけた」


グロームは椅子には座れなかった。体が大きすぎて、邪魔な形で座ることになった。椅子の脚が床を擦り、位置を何度か直してから、結局半分だけ腰をかけるような姿勢に落ち着いた。鍋から直接すくっている。アルダーはそれを止めなかった。鍋ごと任せた方が早い。


「どんな様子だった」とアルダーは言った。


「すごい、多い」


「もう少し詳しく」


グロームはスープを飲み込んでから、少し考える顔をした。片言でも伝えようとしているのが分かった。言葉を選んでいる、というより、頭の中にあるものを片言の鋳型に流し込むのに手間取っている、という顔だった。


——あれは、二日前の話だった。


街への被害はまだ出ていないが、森の中はひどかった。ベイルの森の奥深く、正騎士団の二十人ほどと冒険者の混成隊で分け入ると、最初の一日目から群れに遭遇した。湿った土の上に、乾いた骨の足音が無数に重なる。そういう音だった、とグロームは身振りを交えて語った。


アンデッドは数だけでなく、整列していた。


先頭に立つものと、後方にいるものとで動きが違う。先頭のアンデッドは腕が欠けていたり、白骨が露出していたり、腐敗が進んで形が崩れているものが多い。それに対して後方の指揮をとっているらしいアンデッドは、比較的損傷が少なかった。壊れた個体ほど前に、まだ形の残っている個体ほど後ろに。軍の布陣としては奇妙だが、誰かがそれを指示しているとすれば、理由がある配置だった。


「腕ってない方が、えらい」とグロームは言った。


アルダーは眉を動かした。「逆じゃないのか」


「そう、逆。でも弱い、えらい、戦えない」


なるほど、とアルダーは思った。腐敗が進んだものほど戦闘力が高く、腐敗が少ないものほど上位の指揮官になっている。上に行くほど戦いには出ず、後方で統制だけをとる。消耗品として前に出されるのは、動く力だけが残った壊れた個体。残す個体は、統率する知性のほうを温存している。『生きている軍隊と、逆の順序だ』とアルダーは思った。人間の軍なら、弱い者を後ろに置いて強い者が先頭に立つ。それがここでは、ちょうど反転している。


「三日で三百体ほど倒した」とグロームは続けた。「でも、もっといる。グローム、感じる。森の外、ずっと待ってる。何万もいる」


「何万」


「街、来る、きっと。正騎士団、城壁、守る。冒険者も」


アルダーは椀を置いた。椀の底が木のテーブルに当たる音が、妙に明瞭に響いた。「街は安全か」と訊いた。


「スープ、うまい」


グロームはもう鍋の底を掘っていた。アンデッドの話への興味は完全に切れていた。スプーンの柄で底をこする音が、規則的に続いている。


アルダーは溜息をついた。食べながら話すタイプではない、ということは分かった。正確には、話しながら食べることができないタイプだ。口の中の優先順位が、口の外よりも常に高い。


それにしても三百体。一つの森に、それだけが動いていた。グレイストーンの市場では子供がアンデッドの真似事をして走り回り、露店に魔除けが並んでいる。街の人間にとってはまだ噂話の話だが、それが三日かけてやっと三百体を倒した話と繋がる。噂と現実の間にある距離を、三日分の森の湿気と骨の匂いが埋めている。


さらにその外に何万もいる、とグロームは言った。


「指揮官の存在は」とアルダーは訊いた。


「いる、はず。会ってない」


「アンデッドを統率している何か、ということか」


「上官、上の上、いる。でも現れない」


どこかで指示を出している。姿を見せないまま。アルダーは椀に残ったスープを飲み干した。スープの温度が腹に落ちる前に、別の熱が胸のあたりで静かに立ち上がるのを感じた。メギドが言っていた「不穏な動き」というのは、これのことだろう。老人が広場のベンチで遠い目をしていた理由の一つが、いま自分の調理場の椅子に座って鍋を掘っているオークの口から、少しずつ輪郭を持ち始めている。


「そういえば、前、スープ、飲めそこねた」


グロームが不意に言った。空になった鍋を、名残惜しそうに眺めながら。


「どういう意味だ」


「森で作った。いい匂いがした。女来た」


「女?」


グロームはゆっくりと話し始めた。片言ではあるが、思い出しながら語る表情があった。

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