9. どこでお休みになりますか
十一月三日。婚礼から二十一日が経っている。暦だけは、夫婦の都合など待たず、律儀に先へ進んでいる。
朝の板場で、ニコレットさんが鍋を置いた音が、どん、と腹に響くほど大きかった。鉄の底が台を叩き、棚の皿までかすかに震える。
「あたしたち、いっぺんも同じ屋根で寝てないんだよ」
「……はい」
「村の人が言うんだよ。あれは夫婦かって。あたしだって、そう思うもん」
湯気で赤くなった手は、前掛けを掴んだまま動かない。太い腕に力がこもるたび、布は逃げ場をなくしたように深く歪む。板場の湿った熱が頬へまとわりつくのに、目のふちだけが妙に乾いていく。腹を立てた人の手というより、寂しさの置き場をなくした人の手に見えた。
「あの人、悪くないんだよ。火を落とせないだけ」
「存じております」
「じゃあ、なんであたし、こんなに腹が立つんだろうね?」
鍋の底で湯が細かく鳴っている。吹きこぼれる前の、せわしない音である。夜通し湯を見てきた人が、その合図にも手を出さない。手が動かないぶんだけ、腹の中はよほど遠くへ出かけているらしい。私は返事のかわりに鍋を火からずらし、立ちのぼる白い湯気に少しだけ助けられる。
◇
昼、薄い日差しの下で、鍛冶場と宿のあいだの道に立った。二十歩ある。晴れた日なら声も届きそうな二十歩を、この二人はまだ一度も肩を並べて歩いていない。近いというのは、ときどき厄介である。
マチューさんは鍛冶場で寝ている。日の出前に火を熾すので、宿からでは間に合わない。ニコレットさんは夜通し板場に立つので、鍛冶場へ帰れば朝の火に起こされる。どちらも相手を起こすまいとするように、自分の仕事場で夜を越しているらしい。刻の違うふたりは、一日が長い。その長い一日を、二人は二つの屋根で別々に使っている。
私は、二人がどこで眠るかを訊かなかった。
刻は訊いている。手も、頼り先も訊いた。三つとも則には適っていて、いまも変わっていない。紙の上では、きれいに収まっている。それなのに、二人は二つの屋根の下で、相手のいない朝に目を覚ます。訊かなかったことは、帳面のどこにも空欄として残らない。訊かなかった問いには、欄そのものが無いからである。帳面は、書き手よりずっと平然としている。
「どこでお休みになりますか?」
その一言を、私は婚礼の前に言っていない。二十年ぶんの手順のどこにも、その行は無かった。無いものは、抜けていることにも気づけない。指の先が冷え、袖の中で一度、握り直す。頼りにしてきた手順が、急に薄い紙きれに見えてくる。
午後、乾いた風の抜ける広場で、村の男が腕を組み、とうとう言い出す。
「いっそ別れさせて、村の中で組み直したらどうだね? 宿には宿の、鍛冶には鍛冶の相手がいるだろう?」
「お断りいたします。壊す理由が、ございません」
「けど、あれじゃ夫婦じゃない」
「屋根の話でございます。人の話ではございません。屋根は、あとから足せます」
「足せるのかね?」
男の声に、笑いの色は無い。その目にも、冗談へ逃げる気配はない。三代ぶんの水争いを見てきた村である。壊すか、繋ぐか、二つしかないと思っている顔だった。その間に新しい暮らしを置く考えは、まだこの村に馴染んでいないらしい。
「足せます。この村には、空いた家がございます」
言いながら、私は自分の声が硬いのに気づく。二十年、縁を解く話なら何度でも聞いてきた。解くのも仲立ちの仕事のうちだと思っていたのに、今日は喉のあたりが強張っている。自分で結んだ糸を、正しい手順だからと切るところを思うだけで、舌の根が小さく縮む。どうやら私は、帳面で考えていたより、この夫婦を気にかけているらしい。
坂を下りる。傾いた日の光が土壁を薄く照らし、戸は、こちらを待っていたように細く開いている。
「鍛冶場の隣、十年空いてるだろ」
バベットさんは、訊いてもいないのにそこから話しはじめた。こちらの用件など、戸口に立ったときから見抜いていたらしい。白髪を包んだ布だけが、暗い土間に浮くように白い。火の消えた竈と干した草の匂いが、戸の隙間からゆっくり流れてくる。
「あすこの家は屋根が低い。低い家は、朝の火の煙が回りやすいのさ。若いのが二人で住むには、ちょうどいい」
「ありがとう存じます」
「礼はいらないよ。あたしは坂を上がれないんだから、あんたが行きな」
この人はいつも、訊いたことに答えない。答えないかわりに、こちらが訊けなかったことを、何でもない顔で置いていく。二十年、私が三問で拾ってきたものと、この人が土間に座ったまま覚えているものは、たぶん同じくらいの厚みがある。帳面を持たない人の記憶は、ときどき帳面より行儀よく、必要なところを開いてみせる。
◇
夕、鍛冶場の隣の空き家の前に、四人で立った。戸口に打ちつけられた板は、どれも同じ色に灰け、夕日さえ鈍く返している。軒に挟まった枯れ草だけが、風に細く揺れる。
「この家は、十年前に出ていった家が領へ預けたものです」とエヴラールさまが言う。
「鍛冶場の隣を、私の名でお貸しします。十年、誰も住んでおりません」
村の者が顔を見合わせた。領主が自分の名で家を出すのを、この村はめったに見ない。驚きは声にならず、かわりに視線だけが忙しく行き来する。
板を外すと、薄い夕日が土間を斜めに走り、中は思いのほか乾いていた。埃の匂いはするが、黴の匂いがしない。錆びきらない鍵の金具が、差し込む光を小さく返す。鍵穴に油を差した誰かが、ここにもいたらしい。
中へ入ると、天井が低く、閉じ込められていた空気にかすかな木の匂いが残っている。背の高い私は鴨居のところで一度、首をすくめる。竈の口には白い灰が残り、指で押すと、さらりと形が崩れた。十年前の朝、ここで誰かが火を落とし、そのまま出ていったのである。暮らしが途切れた場所は、思ったより静かで、思ったほど冷たくない。
三十七軒が、三十八軒になる。帳面なら短い追記で済むが、目の前では、消えていた竈に火が戻るほどの出来事である。
鍛冶場から親方が出てきて、煤のついた腕を組み、戸口のあたりを覗いていった。中へは入らず、倅の家が片づいたのを、外から確かめに来たらしい。
「片づいたな。……うちは、雪の来る前の終いの日だ」
刈り入れが済むと、鍛冶場には鋤と鎌の直しが積まれる。炉を止めたままにできるのは、それが引けてからである。刃の欠け具合も、待っている家も、手の詰まり方まで数えて日を決める人が、この村にもいた。仕事の切れ目へ大事な日をそっと置く、その飾り気のなさが、いかにもこの人らしい。
「はい。その日に伺います」
ギヨームさんは戸の板へ手を触れて、それだけ言うと坂を下りていく。ごつい指は、板を離れるときだけ、ほんのわずかにためらったように見えた。坂の下では、エルディさんの家の窓にもう灯りが点いている。夜半に粉を打つ人の、支度の時刻である。あたたかな明かりは、降りてくる人を待つように、揺れもせず残っている。
夜。戸の建て付けが下がっていて、押しても閉まりきらない。エヴラールさまは上着を脱ぎ、蝶番の下へ木の切れを噛ませている。亜麻色の癖毛が汗で額に貼りつき、爪に土の入った大きな手が、板を押さえて少しずつ位置を変えていく。灯りが揺れるたび、その横顔には領主らしい威厳より、閉まらない戸に負けたくない人の真剣さが浮かんだ。私は戸の隙間から入る冷気より、額を伝う汗のほうが気になってしまう。
「明日、鉋をかけます。今日は閉まればよいので」
「お手が、汚れております」
「畑と同じです。私の手は、たいてい汚れております」
「……よろしいのですか?」
「私が決めたことですから」
◇
王都。冷えた石壁に囲まれた所へ、持参金をそっくり実家へ返させた家の、二度目の破談が届いた。今度は嫁の側からである。紙は薄いのに、そこへ書かれた暮らしは重い。
畑を一枚手放した家では、残った土だけで暮らしが立たない。婚家は借りを返すために人を減らし、嫁の手は朝から晩まで空かなくなっている。炊事も水汲みも畑仕事も、誰かをいたわる余白から先に削っていく。
ベルトランはその日のうちに縁を解く届けを出し、嫁を実家へ戻した。そのうえで、申し込みの受理を七日止め、所の控えを全部読み直している。書類をめくる指は止まらない。それでも同じ文へ何度も戻る様子は、いつもの彼らしくない。
その七日、王都では誰の名も読み上げられなかった。いつもなら名を待つ人々のざわめきが満ちる所に、紙をめくる乾いた音だけが落ちる。沈黙にも、手順を止める力があるらしい。
◇
広場から、鍛冶場の隣の窓が見える。夜の暗がりに、その小さな窓明かりだけが蜂蜜色に浮かんでいる。
灯りが一つになった。二つだった灯りが一つになるというのは、そういう見え方をするものらしい。何か大きな音がするわけでもない。ただ暗がりに、帰る先が同じだとわかる明るさが残る。
窓の内側で、火を覗き込むように屈んだ影が動く。別の影がそのそばを横切り、肩のあたりでふっと重なってから離れる。十年ぶりに、あの家の煙出しから細い煙が立ち、冷えた夜気へほどけていく。低い屋根の家は、朝の火の煙が回りやすいのだと、坂の下の人が言っていた。今夜の煙なら、少しくらい部屋に残ってもよい気がする。
訊かなかった問いのことを、私はまだ考えている。屋根はあとから足せる。けれど、訊くことなら、もっと早くできた。広場を渡る風は冷たい。それでも、低い屋根からの煙を目で追っているあいだは、袖の中で指を握り直さずに済んだ。




